「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

           鳩山由紀夫元総理は”獅子身中の虫”

2012-07-13 05:57:43 | Weblog
自民党の茂木敏充政調会長が昨日の衆院予算委で野田総理に対して”獅子身中の虫”という古い譬えを引用して鳩山由紀夫元総理の動きを牽制した。”獅子身中の虫”とは「慣用句ことわざ辞典」(三省堂)によると次のような意味だ。「”仏弟子でありながら仏教を害する者の意から”組織の内部にあって災いのもととなる者や恩を仇で返す者」。

鳩山元総理の最近の言動は民主党内だけではなく、大げさに言えば国民全体にとっても”獅子身中の虫”だ。鳩山元総理は先日の衆院本会議で政府提出の消費増税と社会保障関連一体化法案に対して反対し、民主党から党員資格停止処分を受けている。にもかかわらず、党から離脱もせず、小沢新党にエールを送り、協力姿勢さえみせている。一体化法案は今、参院で審議されているが、与野党の三党合意されている法案について民主党内部、しかもかっての代表や総理から反対があっては、茂木政調会長としては一本釘をささねばならない。

鳩山元総理はかって在職中、米国のマスコミから”お馬鹿さん”と比喩されたことがあるが、僕からみても彼の言動は”お馬鹿さん”で、言うこと、やることが支離滅裂である。彼はご先祖が牧場を持っていた縁で北海道9区から当選しているが、僕は次の選挙では、こんな”お馬鹿さん”を選ぶべきではない、と選挙区の皆さんにお願いしたいとさえ思っていた。が、選学挙区の皆さんは賢明である。”お馬鹿さん”に対抗してリレハンメルの冬季五輪で銅メダルを取った地元出身の堀井学氏が立候補する。堀井氏は”国民対鳩山”をスローガンにしているがまさにそうだ。”お馬鹿さん”を再び国政に送ったら日本人全体が世界から”お馬鹿さん”と笑われる。

             小沢新党 もううんざりです      

2012-07-12 05:17:25 | Weblog
昨夕、小沢新党「国民の生活が第一」の旗揚式の模様をテレビで見た。老妻は”もううんざり、見る気にならない”と見なかった。”うんざり”というのを英語で"fed up with"というのだと、大昔、英会話で習ったことがある。食傷という意味だ。小沢一郎といえば自民党を飛び出して新生党、新進党、自由党、民主党と渡り歩き、こんどまた「国民の生活が第一」だという。まさに”うんざり”である。

言葉は悪いがテレビで発会式を見て、小沢氏を中心に拳を突き上げて喜んでいるお歴々の顔が政治家というより政治ゴロの顔に僕には映った。民主党結成の当初の理念に戻って”国民生活第一”というが、政権与党として3年近くやってきて失敗しながら今さらまた結党の時の理念に帰ろうとは何事だ。常識では考えられない。

新党結成式の会場でまず僕の目に飛び込んできたのは超立派な生花二基である。恐らく一基数万円はするであろう。国民の生活第一を謳っている政党にはふさわしくない。先日の国会予算委員会で原発事故被災地の町長が、避難生活の現状を訴えていたが、一度も福島県には足を運んだことがない小沢代表にはとても理解できないだろう。

国会審議が、この政治ゴロ集団によって、また停滞してしまう。早くも民主党の党員活動を停止されているはずの鳩山由紀夫元総理が小沢新党に協力するとエールを送っている。新党の党員の中には民主党の比例代表として選ばれた者が多い。やはり、ここは国会を解散して選挙を行うのが、国民の生活を第一というならば筋だと思うのだが。

    「性奴隷」でクリントンに抗議できない民主党

2012-07-11 05:24:10 | Weblog
米国のクリントン国務長官が”従軍慰安婦はcomfort women(慰安婦)ではなくてenforced sex slave(強制性奴隷)と呼ぶべきだ、と部下に指示した”という。これはソウルの外交筋の情報としt韓国の新聞が伝えたものだが確認されていない。が、あってもおかしくない話だ。玄葉外相は昨日の参院予算委で自民党の川口順子議員の質問に答えて”目下確認中”と答弁したが、事実でも抗議できないのが民主党のお家事情だ。

民主党は野党時代の2006年の194、195回と同08年の198回国会の3回にわたり「戦時性的強制奴隷被害者問題に関する法案」を提出している。筆頭提出者は千葉景子元法相で、江田五月元法相、輿石幹事長も共同提案者として名を連ねている。もちろん2003年ソウルの日本大使館前で”従軍慰安婦”の反日デモに参加して日の丸に向かって抗議した岡崎トミコ元国家公安委員長も同調者だ。これでは玄葉外相がしたり顔で”確認中”と答弁しても肝心の党が「性奴隷」を使用していては抗議のしようがない。

「性奴隷」という言葉が日本のマスコミに登場したのは2000年12月、東京で催された「女性国際戦犯裁判」からだ。僕はこの摸擬裁判に反対して会場の九段会館や日本青年会館への抗議デモに参加した。このインチキ裁判の主宰者はすでに故人になった松井やより氏(元朝日新聞記者)や事情にうといキリスト教関係の一部同調者だったが、わざわざ会場にかっての軍人会館(九段会館)を選ぶなどアジ的色彩が強く、世界各国から慰安婦と称する女性をかき集めてくるなど極めて国際的な陰謀色が強いものだった。当時これに騙され同調したマスコミが朝日新聞と教育テレビ(ETV)で"裁判”の特番を組んだNHKであった。そして政党では、これに踊らされた民主党であった。事実をきちんと精査せずムードだけで動くのが、この政党の体質である。

           「国民の生活が第一」というけれど?

2012-07-10 05:51:46 | Weblog
小沢一郎氏の率いる新党が発足を前に、昨日の衆院予算委で「国民の生活が第一」という会派を作り質問にたった。初質疑なのに人材不足なのか質問は迫力にかけ、国民の生活に立った質問ではなかった。答える側も”内輪もめ”の弁明に終止した。こんな民主党内部の問題を、かりに6分とはいえ国会の場でやられては、国民にとって迷惑だ。

昨日も暇に任せて予算委の模様をテレビ中継で見たが、三党合意で政局が一段落したためなのか野党の質問も答える政府側の答弁も通り一遍でつまらない。震災の復興が第一と言っているが、原発被災地の人たちが見たらどのように感じるだろうか。「国民の生活が第一」とはよくも言ったものだ。政党の死活が第一、議員生命が一大事のように僕の目には映った。

この国会中継のおかげで年寄りが楽しみにしている大相撲の名古屋場所中継(地上)が午後5時過ぎ、幕内後半戦からにずれこんだ。大相撲も八百長問題があってから人気はいま一つだが、真剣さにかける国会中継よりまだましである。力士は生活がかかっているから一生懸命だが、永田町の先生方は生活が保証されているからか真剣さがない。最近はさすがにあくびしている議員や閣僚はいないが、自分が質問に立ったあと、さっさと席を立つ議員が多い。言葉は悪いが一種の職場放棄である。

ロンドン五輪の開会式に野田総理が出席の予定だとのこと。国際儀礼だからあえて反対はしないが「国民生活が第一」の先生方はどう思うのだろうか。あまり関心がないのかもしれない。

              アフガン支援の大盤ふるまい

2012-07-09 08:17:23 | Weblog
昨日東京でアフガニスタン支援国際会議が閉幕し、わが国は引き続き2015年までに40億㌦支援する旨うたった「東京宣言」を採択した。この額は全世界援助総額160億㌦の4分の1に相当する。素朴な国民感情だが、大震災の復興にあたるわが国の現状に照らしてみて、すこし大盤ふるまいに見えるのだが、どうだろうか。

アフガン情勢は今どうなっているのだろうか。米国がアフガン介入の大義であるアルカイーダ殲滅作戦は昨年、指導者ビンラデインの殺害で一段落したが、依然テロは収まりそうもない。米国は年内に2万3千人の米兵を撤退させ、14年には大統領選挙を実施するスケジュールで国造りの青写真を作っているが、果たしてその通りに進むあろうか。

民主党政権が出来た直後の2009年、当時の岡田外相が突如アフガンに対して11億㌦を支援すると言い出した。これは自公政権下のインド洋上での給油作戦を中止する代案であった。しかし、この支援が現在どのような形でアフガンで実施されていうのか僕らの目には見えてこない。どうもわが国の対外援助は”ATM"(現金引き出し器)と悪口を言われても仕方がないところがある。PRが下手なのだろう。

アフガンニスタンは1973年のクーデターで王政が倒れるまでは国際的なニュースがなかった。今の紛争の原因はクーデター後の国内混乱に乗じたソ連(当時)の軍事介入にあることは間違いない。そのロシアだが、今回の支援会議にどのように関与しているのか。少なくと日本のように巨額な支援はしていないだろう。



             上井草球場 洲崎球場の想い出

2012-07-08 07:30:50 | Weblog
64年前に卒業した母校の野球応援に午後から府中球場に出かけた。バスと電車を乗り継いで1時間もかかるが、80老の仲間たちは皆元気である。5人も駆けつけ孫より幼い選手に応援を送ったが惜敗した。。僕らの中学(旧制)時代は戦後間もなくで野球の道具もなく球場難であった。昭和21年の復活第一回大会のの一回戦、わが母校はこの年東京地区で優勝した高師付属中学と当たり、大敗したが、会場は同校の砂利まじりの応援席もない運動場であった。

当時よく応援に駆け付けた球場の一つに上井草球場がある。今は杉並区の総合運動場になっているそうだが、戦後の昭和25年8月、プロ野球の4球団がこの球場に集まって変則ダブル,ヘッダーの試合が行われたことがる。後楽園球場が出来る前の昭和11年に出来た球場だったが、のどかな田舎の野球場であった。当時神宮球場は進駐軍に接収されていて、上井草球場は学生野球のメッカであった。

プロ野球の創世期、上井草と並んでよく使われ球場に洲崎球場がある。今は球場があった地に記念碑が建っているそうだが、ここは学生野球には使われなかった。おそらく球場の近くに遊郭があって教育上よくないという理由からであったのだろう。海に近いので、満汐になると外野が海水につかるとか、カニが出てくるとかいった伝説の球場であった。Wikipediaによると、いつまでこの球場があったのか書いていないが、戦後僕はこの球場で、かって国鉄スワローズの監督をした林義一氏(故人)のチームと草野球をした想い出がある。林氏が監督になる前だから1964年前だと思うがはっきりしない。

東京には上井草、洲崎のほかにも消えた球場としては東京スタジアム(荒川区)駒沢球場(世田谷区)がある。歴史を感じる。

             浅草合羽橋本通り商店街の七夕まつり

2012-07-07 18:15:02 | Weblog
母の37回忌法要のあと観音様の参拝に向かったら合羽橋本通り商店街恒例の七夕まつりに出くわした。狭い道の両側には食べ物や雑貨の出店でいっぱい。正面には話題のスカイ.ツリーの威容が目の前に迫ってみえる。まるで下町を彩る借景みたいだ。


             母の37回忌法要と無縁社会

2012-07-07 08:02:24 | Weblog
母の37回忌の法要を浅草の菩提寺で行い、そのあと家族で精進落ちの料理を食べながら故人を偲んだ。37年の月日の流れは早い。昭和51年7月、母は僕の転勤先の札幌で83歳で他界した。ロッキード事件で田中角栄総理が逮捕され、街には”泳げたいやきくん”のメロデイが流れていた年である。

東京生まれ東京育ちの僕は札幌には一人も縁者がいなかったが、勤務先の会社が葬儀一切を取引ってくれた。式場の寺の山門前には関係先の会社から贈られた花輪がずらりと並び、わが家にとっては破天荒の盛大な葬儀であった。札幌は全国各地から移住してきているので、葬儀の仕方も宗派によって違うが、共通しているのは葬儀のあとの香典返しがないことであった。これは恐らく開拓当時のしきたりが、そのまま引き継がれているのではないのだろうか。

最近、東京のような大都会では、葬儀の簡素化が進み「家族葬」の名のもとに宗教を排除した葬儀が流行っていると聞く。極端なケースでは”病院から火葬場そして、そのまま墓地へ”というのもあるという。僕はそれほど熱心な仏教徒ではないが、最近のこういった傾向に対しては反対である。たまたま僧籍にある旧友から、京都清水寺の森清範貫主がPHP誌に寄稿された一文が送られてきたので、ここに紹介しよう。

「仏教ではこの世と後世はつながっており、人は亡くなっても魂として生きると教えていますから、私たちは法事をおこない、お位牌の前で亡くなった人の魂を祈ります。いま無縁社会という言葉よく使われていますが、人は無縁で生きていける筈はありません」

            食糧難 電車通りを畑にした時代

2012-07-06 05:38:12 | Weblog
集合住宅の階下に住む娘婿がポットで丹精込めて作った茄子とトマトの初物を届けてきた。ポットはガレージ横隅の日当たりのよい場所に置かれている。ここは戦中戦後の食糧難の時代、亡き母が家庭菜園を作り、南瓜やトウモロコシを植えていた場所だ。猫の額ほどの狭い庭だったが、空襲の頃は防空壕も掘られていた想い出の場所でもある。

手元に昭和18年6月23日号の「写真週報」がある。戦争中内閣情報局が発行していた雑誌だが”寸土も耕せ食糧自給だ。電車通りにも畑を!”という見出しで、東京の日本橋の電車通りで市民が総出で畑造りをしている写真や麹町にあった農林大臣官邸の庭でつるはしをふるっている職員たちの姿がある(写真)

中学生であった僕らも、工場へ動員される前までは週に一回、多摩川の旧読売ジャイアンツ練習場近くの河川敷の学校農場へ出かけ野菜造りをした。僕の記憶では、トウモロコシやサツマイモ、南瓜などを作った。「写真週報」の記事にも”腹がへっては戦が出来ない、甘藷、大豆、蕎麦,ヒエ、腹の足しになるものは何でも造ろう”とある。想い出せばそんな時代であった。茄子とかトマトとかいった”腹の足しにならない”野菜はあまり作らなかった。

今、日本全国にある農業放棄地の面積は埼玉県ほどもあるという。それなのに東京ではポット野菜作りが流行している。このアンバランスが日本の現実の姿の一端でもある。しかし、70年前電車通りまで耕して”腹の足し”を生産した、あの時代から見ればはるかに幸せである。