「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

         80歳、2000回のブログ更新

2011-08-03 05:35:17 | Weblog
今日のこのブログで2000回の更新である。2006年2月、75歳の誕生日に娘の勧めでボケ防止をかねて始めたのだが、いつのまにか更新を重ねるうちに書くことが生き甲斐みたいになってきた。たしかにボケ防止には役立っているみたいである。これからも元気なうちは更新回数の記録に向かって挑戦したいと思っている。

”継続は力なり”-というが、ブログを書き始めた当時は閲覧数は100PV以下、訪問者数も30IP以下だったが、最近はその10倍を越え1000PV、常時200IPをクリアー、ランキングも5000位以内に入るようになった。駄文がこんなに沢山の方の目にとまって頂けるということは、物書きのはしくれとして嬉しい限りだ。

原則として僕は毎日1回は更新に努めている。それも新聞社時代の習性か、新しいニュースに対して書いて見たくなる。そこで、早朝自宅に朝刊が配達されると、まず目を通し適当な材料があればこれを優先させる。しかし、いつもあるとは限らないので、ない場合は前日に用意していたものを書き込む。

2000回の機会に過去のブログ一覧をチェックしてみたが、やはり歳月の経過を感じる。2006年といえば、まだ小泉政権の頃だ。そのあと安倍、福田,麻生と自公政権が続き、政権交替で民主党政権になってからも鳩山、菅と二代、合計六人も総理が代わっている。当初小ブログは、あまり天下国家の問題を論ずるのは避け、老人が目にしたた日常茶飯事の問題に焦点をあてていたつもりであった。しかし、いつのまにか民主党政権になってからは”政局”がらみのものが多くなってきた。それだけ、民主党の政策は老人の気持ちを逆撫でするものが多いのかもしれない。

最後にいつも適切なコメントを頂いているchobimameさんをはじめ皆様がたに感謝します。これからもよろしく。


  

      夏の想い出を奪う臨海学校への過剰反応

2011-08-02 05:56:55 | Weblog
夏の臨海学校の開催が平成になってから減ってきているという。そういえばわが家の孫たちも小中校を通じて一度も行った事がない。理由は海の汚染や現地へ行くまでの交通渋滞もあるが、最大のものは、学校側が必要以上に水の事故を恐れているからだとの指摘が多い。この減少傾向は今年は大震災の津波のイメージや原発事故による放射能汚染の風評で一層拍車がかかっているとのことだ。

戦前から昭和にかけて臨海学校は都会の子供たちにとって何よりの想い出づくりの場であった。戦争の激化で僕らの世代は残念ながら機会を逸したが、戦後すぐ、僕は大学生時代アルバイトで房州保田海岸で催された都内の学校の臨海学校で事故の見張りをするライフガードをしたことがあった。二泊三日の僅かな期間だったが、今でも子供たちの嬉々とした元気な姿が目に浮かんでくる。

戦前、亡父はサラリーマンだったが、夏休み期間中、多分有給休暇を利用したのであろう。都内の公立学校の臨海学校で水泳教師兼監督をしていた。戦前まで東京でも各地に江戸時代から伝わる水泳道場があり、亡父はそこの師範をしていた。その関係で臨海学校でも教えていた。

昔の水泳はスピードを競うのではなく、戦(いくさ)を想定しての”水術”であった。従っていかに長く泳げるかとか水の事故を防ぐかにに主眼が置かれていた。このため、事前に泳ぐ河川や海をチェックし、海岸の地形や汐の流れまで調べたりした。だから、戦前は臨海学校での事故はあまりなかった。これに反して今の学校関係者は、最初から事故をおそれて臨海学校を中止している。打つべき手を打てば水の事故などそうそう起きるものではない。


               朝顔が街から消えた!

2011-08-01 05:50:39 | Weblog
今日8月1日の誕生日の花は朝顔である。その花言葉は”愛情の絆”だそうだ。首都圏はここへきて、暑さも一服状態、昨夏のような猛暑ではない。そのせいなのだろうか。夏本番という気分にはなれない。人間は勝手なものだが、どうも僕には、その原因の一つは暑さだけでなく、街の夏の風情の喪失もあるように思われる。

僕の東京の夏の原風景の中には、横丁の家々の前に置かれた植木鉢に咲いた朝顔がある。あの紫色をした花である。朝に咲いて夕べにしぼむ花が、なぜか子供心にもいとおしく思われた。その朝顔の花が今年は僕の家の周辺では見られない。東日本大震災を受けて入谷の朝顔市が中止され、多少その影響もあるのかもしれないが、やはり、都会人の心の中から花を愛でる気持ちの余裕がなくなり、絆が失われてきたのではないのだろうか。

”朝顔のつるべとられてもらい水”-元禄時代の俳人、加賀千代女の作だが、いまはその世界はない。8月というと、僕らの世代はどうしても66年前のあの時代を想い出す。連日の空襲下、空腹を抱えて過酷の生活を強いられていた。当時は内風呂のある家は少なく、あっても燃料がなかった。幸い、隣家は軍需成金で毎日のように風呂を焚いていた、僕らはその”もらい湯”のご相伴に預かった。僕の記憶には、隣家の勝手口の入り口には確か朝顔があった。

階下の娘婿が自宅の庭でとれたゴウヤの初物を届けてきた。今年は節電をかねてゴウヤを栽培する家が多くなってきたという。”緑のカーテン”の役割をし、さらには実が食べられる。一石二鳥だが、夏の風物詩としては、やはり僕には朝顔のほうが似つかわしい。