「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

        江戸を感じさせる「谷根千」と牛込界隈

2011-08-23 06:07:58 | Weblog
娘が先日「谷根千」の"やねせん亭”の落語を聞きに行ってきた。すでに”やねせん亭”の落語の開催は16回を数え東京の落語ファンの間で根付き始めている。「谷根千」とは谷中、根岸(台東区)千駄木(文京区)の頭文字を冠した合成地名だ。この地域は山手線の内側にあるが、戦災もあまり受けず、バブルのさいの乱開発からもまぬかれた。そのせいかまだ昔の江戸を感じさせる。

わが家に伝わる古文書を調べていたら、僕の一家も明治32年から10年間ほど東京府下谷中御院殿下上根岸町に住んでいた。俳人正岡子規が上根岸の子規庵で「病状六尺」を著したのは明治34年である。もしかすると、亡父(明治17年生まれ)は子規庵を訪ねてきた夏目漱石や森鴎外らとも界隈で出会っていたかもしれない。写真がないのが残念だが、当時のわが家は、音無川の近くにあって屋敷内には大きなかいどうの木や柿、びわの木もあり、池を隔てて離れ屋敷もあったという。恐らく江戸時代の武家屋敷だったのだろう。

武家屋敷といえば、僕が学生だった昭和20年代には戦災にあわなかった今のホテル・オオタニあたりにも残っていた。白金の清正公近くのバス通りからも屋敷門がみられた。また建物がなくても、その地名から江戸時代のよすがが偲ばれたものだった。

戦前の東京の子供の”ざれ歌”に「火事はどこだ。牛込だ。牛のキンタマ丸焼けだ”というのがあった。先日、老妻のフラダンスの会が牛込箪笥町のホールで催された。箪笥町とは江戸時代徳川幕府の武器(箪笥)を司どる具足奉行が住んでいたところだ。付近には納戸町、細工町、二十騎町など由緒ある名前の町がのこっている。

江戸時代からの昔の町名が東京から消えたのは戦後のことだ。戦前の35区から現在の23区になった時、浅草、下谷両区が合併して、たんにお台場の東だというだけで「台東区」が誕生した。それにつられた訳ではないだろうが、台東区では、江戸時代からの浅草、下谷の町名がすっかり姿をけし、東上野とか西上野といった歴史を感じさせない沈鬱な町名になってしまった。

その点、京都の町名は年賀状の時は長く難しいのに泣かされるが、昔の名前がそのまま残っていてよい。町名によって、その地の歴史まで理解できる。郵便番号さえ判れば、郵便は届くし、メールアドレスがわかれば、文通できる時代だが、何か今ひとつ寂しい。