「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

張り手は相撲の手か

2006-09-20 06:07:01 | Weblog
幕下42枚目の琴冠佑(40)が土俵上で張り手をくい,負かされた相手
力士(19)を仕度部屋で仕返しに殴り返した。結果として琴冠佑は責任
をとり引退しているが、大相撲始まって以来の不祥事だ。
琴冠佑は僕が10年勤務していた北海道の新冠出身なので贔屓力士の一人だ
った。十両まで昇進したが年齢的なこともあるのだろう。最近は業のうまさ
だけで若手力士を翻弄している相撲だった。

張り手は禁止技ではないが、そんなに昔からあった技ではない。張り手の元祖
は第39代横綱の前田山といわれている。戦中から戦後にかけて活躍した力士で、、
張り手をまじえた強烈な突っ張りで大横綱、双葉山や羽黒山(初代)をやぶっ
たこともあった。双葉山は"張り手も技のうち”といったが羽黒山は”相撲で
なくて喧嘩だ”と非難した。戦争中の場所で"水入り”は敢闘精神にかけるとして
力士が処分された時代である。前田山の張り手もなんとはなく歓迎された。

琴冠佑のこんどの事件はまったく弁護する余地はないが、心情的には同情はする。
自分の得意の差し手に入る前哨技の張り手ならわかるが、これで倒してしまう、
という張り手は大相撲の手としてはどうだろうかー。僕個人としては張り手や
”ネコだまし””八艘とび”といった技は邪道で大相撲の衰退を招くもので反対
である。


















お彼岸と戦地慰霊碑

2006-09-19 05:50:18 | Weblog
カリジャティ戦友会の一行が今慰霊碑参拝のため現地を訪れている。カリ
ジャティといってもほとんどの日本人は知らないと思うが、昭和17年3
月、蘭印軍が全面降伏した地だ。第16軍今村司令長官の前にチャルダ・
蘭印総督が降伏文書に調印した、いってみれば乃木大将とステッセルの水
師営に匹敵する地である。このカリジャティに戦死者の慰霊碑があるが、
これはインドネシア空軍が、戦死した日本軍兵士の慰霊のために基地内に
建てたものである。航空隊戦友会はここ10年來、毎年インドネシア空軍
に謝意を表し、慰霊に訪れている。

平成12年、僕はジャカルタの博物館の庭に放置状態になっている日本軍
戦死者の慰霊碑を発見した。ジャワ上陸作戦のさい戦死した第2師団兵士
50人の慰霊碑だったが、どこの部隊か、どこで戦死したのかもわからぬ
状態で裏返しになっていた。そこで僕は戦友会関係者を中心に募金を募り
博物館に再建してもらった。今では在留邦人が春秋のお彼岸に参拝して頂
いている。

インドネシアだけではない。戦地だった地には犠牲者の慰霊碑が数多くある。
国で建てたもの、民間で建てたもの、しかし戦後60年を経て、関係者の
高齢化で訪れる者も少なくなり、中には破壊されたものも多い。在外公館
がある地では、こうして彼岸の法要も行われているが、南冥のジャングル
では、近い将来その場所さえ特定できなくなる。霊は靖国に戻っているから
と一部の人はいうが、やりきれない気持ちがする。



「敬老の日」 戦後世代への苦言

2006-09-18 06:06:16 | Weblog
今日は「敬老の日」だ。「敬老の日」は9月15日だとばかり思っていたが、
先日,町からお祝いの”カステラ”が届き、9月の第3月曜日に変わったのを
想い出した。忘れっぽくなった老人には祝日は固定していたほうがよい。
現役には”ハッピー・マンディ”でも年寄りには格別ハッピーではない。
そこでと言うわけではないが「敬老の日」にかこつけて日頃の不満と鬱憤を
披瀝します。別にきれたわけではありません。ご安心を!



戦前の日本の社会には”長幼の序”があり、それで社会の秩序が保たれていた。
「三尺下がって師の影を踏まず」もその一つ。先生は尊敬の対象だった。それが
いつのまにか崩れ"仲間”同士となった。結果はセクハラ教師まで登場する始末。
戦後の"民主主義教育”で戦前は一段高かった教壇が撤去されたからだ。

マナーが悪くなった。戦前の「教育勅語」が廃止されたのと直接関係あると思い
たくないが目茶苦茶だ。近距離の電車での飲食、お化粧、行列の割り込み、携帯
電話を車内で切らない、床にぴたりと座り込むetc。枚挙にいとまがない、
「優先席」にわがもの顔に座り込み漫画本に読みふける、団塊世代とおぼしき
若年寄りは、まさに漫画の一こまだ。


道学者みたいなことを言うが外国に出て恥をかくのは自分達だ。シンガポールでは
車内で飲食すれば高い罰金刑。外国は外国というのならば、戦前のように警察力を
強化して、他人や社会に迷惑をかけた行為をすれば、どしどし取締ればよい。
老人のフラストレーションはなくなる。


秋祭りに想う

2006-09-17 06:08:34 | Weblog
僕は赤ん坊のころ口をきくのが遅かった、と亡き母が言っていた。最初に
口にしたのは”ドンドン,カッカカッカ”-”祭り太鼓の口真似だったという。
そのころ住んでいた町の神社の祭礼は10月3日だから、2歳10か月、
たしかに周囲が心配したのもわかる。
「小学校唱歌」の「村祭り」(作詞・作曲不明)にも”ドンドン、ひゃらひゃら、
ドン、ひゃらひゃら”-と祭り囃子の音真似がある。やはり祭りには太鼓や笛
などが不可欠で、日本人の琴線を揺さぶるものがあるのだろう。

昨日からわが町でも秋祭りが始まった。子供たちの顔が生き生きとしている。
さっそく愚妻より背の高い小学校5年の孫が小遣いをせびりにきた。僕も
とたんに昔の夢があったお祭り風景を想い出した。神社の沿道には子供の
欲しがるものが色々とあった。吹き矢、お面、ハッカ・パイプ、カルメ焼き、
金魚すくい、ひよこ、海ほおづき、だるま落としなどなど。
夕刻、孫が帰ってきたので、愚妻が小遣いを何に使ったのか聞いた。孫の答えは
一個35円のコロッケを十個買って食べたという。返事はいかにも嬉しそう。
僕も愚妻もガックリ。しかし、ものは考え方だ。夢がなくともくだらなく浪費
するより賢明かもしれない。

戦争と戦後の混乱で、昭和一桁世代はほとんどお神輿を担いだことがないと思う。
元気な若い女性が”わっしょい、わっしょい”と街をねり歩く姿をみて、つくづく
平和を実感し、よい時代だと思う。

若山牧水と駅弁

2006-09-16 06:19:55 | Weblog
# 白玉の歯にしみとおる秋の夜の
  酒は静かに飲みべかりけれ (若山牧水)

秋はやはり日本酒がよい。亡き父が居間の長火鉢の前に座って
独鈷でお燗をしながらいつまでも夜長を楽しんでいた姿が想い出さ
れる。この父が半年間だけだが沼津で牧水と杯を交わしている。


父は大正9年8月31日から翌年2月まで旧「報知新聞」の沼
津通信部に勤務していた。牧水の年譜によると、彼も同じ年の
同じ15日に東京から沼津に移住してきた。牧水は当時在であ
った楊原村に居住、父は町中の玉突屋の二階に下宿していた。
二人を結ぶ接点はわからないが、残っている父の送別会写真
などからみると、沼津町の記者クラブではなかったかと思う。

残念ながら父は牧水との出会いについて何も書いてないが、生前
よく僕に「牧水は駅弁で酒を飲むのが好きだった}と語っていた。
どちらかといえば、父は人と賑やかに飲む酒が好きだったが、
”白玉の”の和歌でみるかぎり、牧水は"一人静かに"飲む酒だっ
たようだ。父が牧水と酒席を一緒にしたのは多分仲間うちの集まり
だったと思うが”白玉”の和歌から牧水の気持ちが伺い知れ面白い。
牧水は当時34歳、父は35歳、早稲田大学同窓であった。

"白玉の"酒は冷やだったのか、熱燗だったのか。戦前一般には
冷酒は労務者が飲むものとされていた。しかし、牧水が駅弁で
飲むのが好きだったとすれば”歯にしみとおる”のは冷酒だった
かもしれない。料亭で綺麗どころを侍らせて床の間を背にした熱
燗では和歌にならない。

秋りんと台風の季節

2006-09-15 05:44:50 | Weblog
今日は久しぶりに東京でも太陽を見た。何日ぶりであろうか。この歳に
なってはじめて「秋りん」という言葉を知った。”りん”は雨冠に林の字を
書く。それほど今年の東京は「秋りん」の季語がふさわしく長雨が続いた。
秋雨前線が本州付近に停滞したためだ。昔からこのごろの季節を「二百
二十日」といった。立春から220日目ごろで、台風の襲来が多く農家の
三大厄日の一つだった。

昭和33年9月21日から28日にかけて伊豆半島、関東一帯に大型台
風が襲った。被害の大きかった狩野川(静岡県)流域の名をとって"狩
野川台風”と呼ばれている。死者・行方不明1,260名、全壊流失家屋
16,763戸の大被害をもたらした。台風の直前、僕は職場の慰安旅行
で伊豆を訪れただけに、この台風の印象が強い。「秋りん」に台風が重な
ったダブルパンチであった。


「秋りん」が過ぎれば"暑さ寒さも彼岸まで”お彼岸がやってくる。九州
地方へ台風13号の接近が伝えられるが、なんとか上陸を避けて貰いたい、
ものだ。年々歳々、季節はめぐりきて、去ってゆく。今年は馬齢を重ねた
ためだろうか、はじめて”秋りん”の季語を知り実感した。

頑張れ!45歳力士 一ノ矢

2006-09-14 07:12:59 | Weblog
相撲ファンなら先刻承知かもしれないが、大相撲の最年長力士は
序二段84枚目の一ノ矢。45歳9か月。今場所も元気に一勝し
ている。サラリーマンなら管理職の年齢だが、依然この世界でいう、
”ふんどし担ぎ”である。初土俵は昭和58年11月場所、若貴兄弟
よりも5年も早く入門している。

一ノ矢は鹿児島県徳之島の出身、国立琉球大學理学部物理学科
卒の”インテリ力士”、卒業時高校教師の職が決まっていたのに
それを振り切ってこの世界に入ってきた異色だ。しかも23年の力
士生活で序二段で2回も優勝しているのに最高位は三段目6枚目、
これも珍しい。

身長170cm、体重100kg、今の大型の相撲界にあっては
小兵だが、昭和10年代、僕の子供時代には、もっと小さな力士が
たくさんいた。"弾丸”巴潟は身長165cm、体重90kg、金湊は
さらに小型で164cm、86㎏。大正時代の大関、玉椿に至っては
五尺二寸しかなかったという。現在の尺貫法でいえば156cm、
小学校5年の僕の孫より小さかったわけだ。

相撲の面白さの一つは小兵が大型力士を倒すことだ。相撲協会は
数年前、新弟子検査基準を改正して、一定の運動検査をパスすれば
最低基準、身長167cm、体重67kgに改めた。この結果今は豊ノ島
はじめ何人かの小型力士が関取で活躍している。
頑張れ!一ノ矢、関取めざして頑張って!

きれる老人、きられる老人

2006-09-13 05:41:24 | Weblog
”きれる老人”の特集をまた民放(テレビ朝日系)がやっていた。内容は河川敷で違法にゴルフ練習をやっていた”老人”を若いレポーターが執拗に追っかけまわしインタービューする。”老人”は十分、違法なことを知っているから現場から立ち去ろうとしているのに,さらに食い下がる。これでは"老人”ならずとも”きれる”のは当たり前。どうもこの番組は最初にタイトルをきめ、それに相応しいような画面を探してつくったようにみえた。

一昨年、NHKが尾道の高齢者刑務所を紹介、受刑者が10年前の三倍になっていると問題提起した。当時で受刑者の平均年齢は74歳、薬をのみながら作業する姿はたしかに現代の病める一面をえぐっていた。どうもそれ以来、老人犯罪の増加は最近のお年よりが”きれ”やすくなったのが原因と短絡的に考えるようになった。今年の6月にも他の民放でも同じような”きれる老人”を特集していた。

しかしNHKの番組は受刑者の80%以上は再犯者で、出所しても高齢で職もなく、家族からも見捨てられている人たちであることを指摘、わが国の社会福祉制度がこれらの老人にまで及ばない現実を明らかにしている。
統計によれば、月3万円の国民年金だけで生活している老人が560万もいるという。河川敷で違法にゴルフをやる元気な"老人”もいるかもしれないが、大方は僅かな年金にまで課税され逼塞状態の”きられた”老人たちである。

9.11同時テロとアラブの思考

2006-09-12 05:32:30 | Weblog
9.11同時テロから早くも5年たった。ブッシュ米大統領はイラクがテロの
温床地として2003年、フセイン政権を崩壊させた。しかし、イラク国内
情勢はいぜん不安定だし、世界的なテロの脅威は去っていない。根源の
パレスチナ問題は解決を見ていない。

数年前、読んで興味を持った「アラブ的思考様式」(牧野信也著=講談社
学術文庫)を読み返してみた。著者はアラブの人類学者サニア・ハマディの
著書を引用してアラブの気質と性格を次のように分析している。
(1)アラブは物事を極端にみる傾向を持つ。その視界には中間色がない。
  彼らは独断的な人々である。
(2)アラブは金を使わない金持ちを軽蔑する。ケチは嫌われる。
(3)アラブはきわめて些細で、どうでもよいことでも問題にする傾向が
  ある。主要かつ本質的な点を無視する。

パレスチナ人3人(ヨルダン国籍2、レバノン国籍1)の技術研修を約50日
間、北海道の岩見沢市で手伝ったことがある。またサウジアラビアの政府
高官の観光旅行に10間同行した経験もある。イスラムについては基本的な
理解をもっていたが、彼らを完全に理解するのは難しかった。僅かな体験で
ものを申すのは僭越だが、テロを撲滅するのは一朝一夕には行かない。
聖地をめぐる数千年前の紛争にまでさかのぼり、そのフラストレーション
を理解しなければ根本解決にはならない気がする。

歴史と神話の混在の「国史」

2006-09-11 05:54:36 | Weblog
きのう東京・目黒の大鳥神社でご鎮座1,200年の大祭があった。むかし目黒が
まだ村であった頃の総鎮守さまである。主祭神は日本武尊(やまと・たけるの
みこと)で東征のさいここに立ち寄ったのが縁起だとのこと。記紀の記述に
よれば、日本武尊は第12代、景行天皇の皇子で2世紀の人物。(5,6世紀と
いう説もある)

ご鎮座された1,200年前、806年は第50代、桓武天皇の時代で、坂上田村麻呂
(758-811)が征夷大将軍として東北の夷を征伐していた時代である。記紀の
記述では日本武尊も景行天皇の命で東国の熊襲を征伐したとある。なにか両者
の間に類似性みたいなものを感じる。

戦前、僕らが習った「国史」は歴史と神話が混在していた。大鳥神社の相殿神、
弟橘媛命(おとたちばなひめ・のみこと)が日本武尊のために自ら身を投じ
て波を鎮めた話は教科書にもあった。学校では歴代の天皇の名前をジンム、
スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアンーと棒暗記させられた時代
であった。

「国史」はどこまでが歴史でどこまでが神話なのかわからない。しかし、どこの
国も国の創世記はそんなものらしい。せっかく記紀の時代から綿々と伝えられた
神話である。これを単に神話だからという理由で切り捨ててしまうのには抵抗を
感ずるがー。