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「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

同友会の無礼な提言

2006-05-11 06:11:43 | Weblog
経済同友会が小泉首相の靖国参拝について日中関係改善
のため再考が求められると四つの提言をした。その中で
僕がもっとも無礼とだ思うのは,不戦の誓いを行う追悼碑
を建立すべきだとの文言である。

これは,取りようによっては"小泉よ、お前がそんなに
不戦の誓いにこだわるのなら、別な代わりを与えてやる”
と、あたかも玩具が欲しくてダダをこねる子供に玩具を
与えてやるような発言である。一体、この人たちは追悼碑
をなんと考えているのだろうかー。

自分たちの商売がうまく行かないからといって、人のせいに
する。商人道としては最低である。君たちは先の戦争で犠牲
になった先人たちに思いをはせたことがあるのかー。多分
戦後遺骨収集のさい、国が建てた慰霊碑の現状など知らない
と思う。

不戦なんて当たり前のことである。犠牲者への追悼ならまだ
わかる。しかし、僕個人はその必要もないと考える。毎年
終戦記念日に行われる国の行事のさい皆が忘れずに黙祷を
捧げれば充分である。

自由が丘の石敢当

2006-05-10 06:25:49 | Weblog
ファッションの街、東京の自由が丘の駅前に小さな石敢当の
碑がる。ここは、その昔「南風座」という映画館があった跡地。
多分、昭和40年代の始めごろ、今のビルを建築するさい
だれか沖縄関係者が建てたものだろう。土地の高い東京らしく
石敢当までかわいらしい。

石敢当は主に沖縄本島、八重島諸島に見られるが九州はじめ
近畿地方でも散見できる。直進する魔物の習性をを除ける目的で
道の三叉路やT字路に建っている。宋時代、福建省の県知事が
庁舎を改築するさい土中から発掘したのが石敢当の始まりという。
石敢当は戦国時代の将軍の名前というがよくわからない。

10数年前、旅先のシンガポールでも石敢当を見つけた。若い
シンガポーリアンにいわれを聞いたが、判らなかった。かれの
先祖が広東人だったのかもしれない。いずれにせよ、わが国
以上に土地のせまいシンガポールのこと。今は街中で石敢当を
見つけるのは困難。自由が丘のミニ石敢当を輸出したら意外に
うけるのかもしれない。


「爆弾一勇士」

2006-05-09 06:00:44 | Weblog
銃後の小国民世代にとって「爆弾三勇士」の名前は懐かしい。
僕自身、戦争ごっこで青竹を破壊筒にみたてて遊んだ記憶が
ある。「爆弾三勇士」は昭和9年上海事件のさい、攻めあぐんだ
廟行鎮の敵陣地に向かって、長さ4mの破壊筒を抱えた久留米
旅団の三兵士が爆死して鉄条網を破壊,味方を勝利に導いた
という戦争美談である。

「爆弾三勇士」の話は国定教科書にも紹介され、歌や映画にも
なった。昭和9年、江下,北川、作江三勇士を讃えた銅像が
東京・芝の古刹、青松寺前に建てられて、当時東京名所の
ひとつともなった。戦後60数年経過、「爆弾三勇士」を知る
世代も少数派となり「三勇士」も忘れられた。

いま「三勇士」の銅像は江下武二・一等兵だけとなり、青松寺
墓地奥深くの地に、お墓として大切に保存されている。他の
二人の一等兵の銅像は、戦後の"戦犯銅像"破壊運動の犠牲に
なって破壊され行方がわからない。かって万世橋駅前にあった
広瀬中佐の銅像と同じ運命をたどったわけだ。江下一等兵の
銅像は、その時代の証人だ。


昭和13年夏場所初日の新記録

2006-05-08 06:25:58 | Weblog
大相撲昭和13年夏場所は5月11日(木)が初日であった。
双葉山が百連勝に向けて驀進中の場所で、もちろんこの場所も
双葉山は13勝全勝で優勝した。
大相撲は当時年二場所で、春(1月)夏(5月)東京の旧
国技館で行われた。鉄傘円屋根、土俵の屋根は今のような
吊り下がり型ではなく固定式,四本柱もあって検査役も土俵の
うえに正座していた。

この場所初日の新記録というのは,取直し相撲が多く打ち出しが
なんと、夜の9時をまわった。当時の記録を調べてみると、
打ち出しは平均6時半ごろで、遅くてもせいぜい7時ごろで
あった。しかし、原因は取直し相撲が多かっただけではなく
原因は編成の誤りだったという説もある。

昭和7年の春秋園事件で大相撲に叛旗を翻し、関西相撲協会を
設立した力士が経営に行きつまり12年に解散、13年の本
場所から大相撲に復帰して来た。この増えた力士の数を番組
編成のさい勘定に入れなかったのだという。真相はわからないが
今では考えられない。ある意味ではのんびりした時代であった。

この場所の九日目"徐州、徐州へ人馬が進む”の徐州が陥落
している。古い話で恐縮です。

大和撫子からの電話

2006-05-07 06:50:46 | Weblog
連休中、なんにんかの人生の先輩たちから電話を頂いた。
その一人,大正9年早生まれの大和撫子は86歳。とても
お元気である。ただ、正直言って30分をこす長電話は
やはり”おとし”であるのはあらそえない。

電話の骨子はこうである。昭和20年6月、民間商社の
タイピストとしてジャカルタ(インドネシア)に勤務して
いた彼女は当時ガンビル駅前にあった忠霊塔へ派遣され、
塔内に安置されていたご遺骨の整理に従事した。大きな
ご遺骨の箱を小さな箱に入れ替え内地のご遺族にお送り
する作業だった。

彼女の僕に対する質問は(1)ご遺骨はどなたのお骨だった
のか(2)ご遺骨は無事ご遺族の元へ届いただろうかー
というものだった。大東亜戦争中、地上戦のなかったジャワは
兵隊の間で”天国”といわれていたそうだが、それでも
8,500人の方が亡くなっている(千鳥が淵墓苑)。
彼女が奉仕したお骨がこの方々のものであるのは間違いない。
しかし、ご遺骨がご遺族のもとに届いたかどうかは、時期
からみて確信はもてないーというのが僕の回答。

当時、彼女は20歳前半の大和撫子、改めて今の世の同じ
年頃の若い女性は幸せだな、と思った。



直らないNHK の偏向報道 拉致問題

2006-05-06 06:01:02 | Weblog
きのうの朝、NHKラジオのニュースを聞いて耳を疑った。
"北朝鮮”擁護の立場を取り、朝鮮日報に記事を書いている
同志社大学教授、浅野健一氏の発言を放送していた。彼は
被害者の人権擁護問題が研究のテーマだそうだが、二十世紀
最大の国際的人権侵犯である拉致問題について、どういう
つもりか北朝鮮の立場を支持している。

ニュースそのものは彼が会見した北朝鮮政府高官が、先日の
ブッシュ発言を非難したというもので、当たり前の話だ。
拉致被害者の解放だったら大朗報であり、ビッグニュース
だが、なぜ彼の売名的な発言をNHKはニュースとして公共の
電波で流すのか? 依然としてNHKの偏向体質は変わって
いない。

浅野健一氏については、フリー百科事典「Wikipedia} が
週刊文春が報じた、彼のセクハラ事件を含め詳述して
いる。今回の彼の発言は、さすがに”ジャーナリスト”
宣言の新聞を始めどこのマスコミも扱わなかった。NHKはやはり
偏向しているといわざるをえない。

偏向体質が変わらないかぎり、僕も放送料金の支払いを
やめることにする。

東京の空から消えた鯉のぼり

2006-05-05 06:38:21 | Weblog
連休の昨日,一昨日、老人無料パスで都心と郊外を
二回、バスで出かけたが,五月の空を泳ぐ鯉のぼり
を目にするのは難しくなってきた。なぜ東京の空から
鯉のぼりは姿を消してしまったのだろうかー。

総務省の人口推計調査によると、子供(15歳以下)の
数は1,747万人,人口比にすると13・7%で、1974年以来
減り続け、過去最低の数字だという。

多分、子供の数の減少と鯉のぼりの減少とは関係がある
とは思うが、どうもそれだけとは思えない。歌にある
"甍の波”が東京にはなくなり、高層の集合住宅が多く
なってしまった。鯉のぼりを飾ろうにもその場所がなく
収納するにもそのスペースに苦労する時代だ。

訪れた深川郷土資料館には、江戸時代の長屋の生活を
再現した品々が展示してあったが、やがて鯉のぼりも
”二十世紀の東京都民が子供の成長を祝って飾ったもの”
と注釈がついて展示される運命にあるのだろうか。


 



鄭和と小浜の象

2006-05-04 06:50:57 | Weblog
昨夜NHKならではの大作「鄭和」をテレビで見た。そして、改めて
15世紀のはじめ鄭和の時代に小浜(福井県)に渡来した南蛮船に
思いをはせた。

小浜の中湊浜へ日本国王宛の進呈品、象、オウム、孔雀などを積んだ
南蛮船が着岸したのは足利三代将軍義満の逝去直後の応永15年(1408)
である。鄭和が明の永楽帝の命を受けて第一回の南海大遠征に出発
したのは1405であるから、ほぼ同時代である。古文書などから小浜の
南蛮船の持ち主は「亜列進卿」で、明史にも出てくるパレンバン
(インドネシア)居住の華僑、施進卿(Shih Chin-ching)だと推定
されている。

将軍足利義満は1401年「日本国王」として明に朝貢している。明の高官
鄭和は当然それを知っている。パレンバンの施進卿は鄭和の遠征に
協力した功で「宣慰使」に任命された人物と、明史には書いてある。
鄭和の南海遠征は明の朝貢外交の一環である。このようなことから
「鄭和」「亜列進卿」「小浜の象」を一つに結ぶ線があるように思えて
ならない。将来の研究に待ちたい。
 



鄭和と小浜の象

2006-05-04 06:50:57 | Weblog
昨夜NHKならではの大作「鄭和」をテレビで見た。そして、改めて
15世紀のはじめ鄭和の時代に小浜(福井県)に渡来した南蛮船に
思いをはせた。

小浜の中湊浜へ日本国王宛の進呈品、象、オウム、孔雀などを積んだ
南蛮船が着岸したのは足利三代将軍義満の逝去直後の応永15年(1408)
である。鄭和が明の永楽帝の命を受けて第一回の南海大遠征に出発
したのは1405であるから、ほぼ同時代である。古文書などから小浜の
南蛮船の持ち主は「亜列進卿」で、明史にも出てくるパレンバン
(インドネシア)居住の華僑、施進卿(Shih Chin-ching)だと推定
されている。

将軍足利義満は1401年「日本国王」として明に朝貢している。明の高官
鄭和は当然それを知っている。パレンバンの施進卿は鄭和の遠征に
協力した功で「宣慰使」に任命された人物と、明史には書いてある。
鄭和の南海遠征は明の朝貢外交の一環である。このようなことから
「鄭和」「亜列進卿」「小浜の象」を一つに結ぶ線があるように思えて
ならない。将来の研究に待ちたい。
 



ドバイのホテル

2006-05-03 06:39:26 | Weblog
スポーツ新聞によると、アラブ首長国連邦(UAE)のドバイに
建設費3兆円という世界一超豪華なホテルが出現するという。
ドバイは競馬国際G1レース開催地として有名で、今年の3月も
日本の「ハーツクライ」が優勝して注目を集めたが、このほか
新興の観光地としても若い人の人気が上昇中だという。

むかし、この地域一帯は海賊海岸と呼ばれていた。その時代は
知らないが、海賊に困った英国が住民と”休戦協定”を結び、
この地が「休戦海岸」(Trucial Coast)と呼ばれていた時代の
ドバイに1週間滞在したことがある(1962年)。もちろん独立
前で、空港もなければ、ホテルも二階建ての小さなものが一つ
しかなかった。ショッピングは渡船場横のスーク(市場)だけ、
売っているのはガラクタばかりだった。

ところが、どうだろう。44年たった今、ドバイには立派なホテルが
林立し,人工ビーチが出現、砂漠のサファリが観光客の人気を
呼んでいる。なにより、フリーポートでお土産品が安く買えるのが
一番魅力なのだという。将来の石油の枯渇を予測して、今からオイル
以外に国の収入の道を考えておこうという国策。まさに滄海桑田
である。