「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

昭和20中三、平成18中三

2006-05-21 06:11:49 | Weblog
夏日になった昨日孫の運動会へ出かけた。東京でも多少郊外の
住宅街にある中学校の校庭にはまだ緑があり、老人の目には
まぶしかった。それ以上にまぶしかったのは女生徒たちの健康
美だった。小学校から中学(旧制)大學と僕には共学の経験が
一回もない。

会場には、応援の若いお父さん、お母さんが多かった。考えてみると
僕には子供の運動会(中学校)を見に行った記憶がない。昭和50年前後
だったと思うが、あの頃にはそんな習慣はなかったように思うのだが。
それとも僕だけなのかもしれない。

肝心の僕が中学三年だったときはどうだったのだろうかー。敗戦の
昭和20年時を想いだしてみた。東京は連日のような空襲で焼野原。
僕たちは空腹を抱えて軍需工場へ動員されていた。学校の授業さえ
ないのだから運動会どころではなかった。運動といえば木銃を持った
教練ぐらいであった。

改めて平和に感謝して深呼吸をした。

イムジン河の流れ 「北」は幸せかー。

2006-05-20 06:16:27 | Weblog
竹中平蔵・総務相が「私の愛唱歌は”イムジン河"だ」と語っていた。多分、
大臣はこの歌の歴史を知らないに違いない。1968年ごろ、この歌は若者の
間でベトナム反戦歌みたいに歌われていた。「ザ・フォーク・クルセーダー」
が"帰ってきた酔っ払い”についでレコード化しようとしたところ、総連
(在日本朝鮮人総連合会)から横槍が入って発売中止となった。確か日本語
の歌詞が正しくないとかいう理由だった。

”イムジン河”の二章節目。
# 悲しく水鳥は南の岸で鳴き 荒れた野良(のら)には
  むなしく風が立つ 幸せ花咲く祖国の北の歌
  イムジンの流れよ伝えてくれ
               (李 錦玉・訳)
一目瞭然、北朝鮮賛歌である。拉致という国家犯罪を平気でする国がよくも
"幸せ花咲く"祖国といったものだ。

荒れた野良の国の「民団」(在日大韓国民団)が無法の国、北朝鮮「総連」に
和解を申し入れたという。「民団」は拉致、脱北者問題をどうするつもりか。
1959年、在日の北朝鮮帰還(北送)のさい韓国は”棄民政策”を非難された。
拉致の被害者に同情を寄せない国は、やはり野良の国だ。

 


  


二つのラジオ体操の歌

2006-05-19 07:06:18 | Weblog
今年の東京は”五月晴”のない五月、まるで梅雨時のようだ。その晴れ間を
縫うように一昨日、近所のラジオ体操に参加した。旧大學の跡地の会場には
毎朝6時すぎから”雨の日も風の日”もおよそ30人の元気な男女が参集する。
最高齢は卒寿(90歳)を迎えた元軍医さんである。

戦前、ラジオ体操は夏の風物詩のように思えた。アイス・キャンデイ屋の
振る鈴の音、油蝉の鳴き声と共に僕の耳には、あの「ラジオ体操」のメロ
デイが残っている。
# 踊る旭日の光を浴びて 屈げ(まげ)よ伸ばせよ
  吾等(われら)が腕(かいな)ラジオは号ぶ(さけぶ)
  一、二,三

あのころはラジオ体操は地域社会の行事でもあった。夏休みの会場は大抵
小学校の校庭であった。戦後,いつのころからか僕の住んでいる地域では
校庭の使用が禁止された。そして「ラジオ体操の歌」も今の歌に変った。
# 新しい朝が来た。希望の朝だ 喜びに胸を開け 大空あおげ
  ラジオの声に健やかな胸を この薫る風に開けよ
  それ、一、二、三




生活習慣、酒飲みのジレンマ

2006-05-18 05:51:23 | Weblog
”休肝日”が3日続いている。断酒宣言をしたわけではないから
また、いつ復活するかは判らないがー。理由は先日、泡盛を店に
買いに行った帰途、誤ってビンを割ってしまったからにすぎない。
要するにケチのサガから出た決断にすぎない。しかし、体調は
たしかによい。

3年前、血糖値が200を越しあわてて医者に相談した。名医は
「”カロリー計算表”で3食のカロリーを抑えろ」とアドバイス
してくれた。妻ともども3ヶ月これを忠実に守った結果、体重は
12㌔落ち、血糖値は正常に戻った。だから”生活習慣病”の
からくりはよく知っている。しかし"喉もとすぎれば”の譬の
ように最近はリバウンドしかかっていた。

「晩酌」による食事が高カロリーなのは充分承知している。だが
酒のない夕食ぐらい味気のないのも充分承知している。
余生を”延命”するために「晩酌」の習慣をストップすべきなのも
これまた充分承知しているのだがー。

父の生誕123年

2006-05-17 05:35:39 | Weblog
昨日は父の生誕123年であった。明治17年5月16日生まれである。
生前書き残した自叙伝によると、生まれたのは東京市下谷区竹
町25番地,下谷神社の近くで、200坪の敷地を持つ武家屋敷で
あった。町の名のように竹藪もあったそうだ。父の父親つまり
僕の祖父の生誕日は不明だが、文久3年(1863年)に撮った写真
には、38歳と記してある。これから類推すると天保時代の生まれ
である。

一世代は30年といわれる。僕の場合でいけば祖父の年令は
明治10年前後が普通なのだが、僕が父の48歳の時の子、その父が祖父の
50歳前後の子供だったため、僕の年齢で祖父が江戸時代の
”オサムライ”ということになる。祖父は徳川直藩の”サラリーマン侍”
だったようだ。

天保時代といえば、木枯し紋二郎や鼠小僧が”活躍”した時代。
自分の祖父が、その時代、この世に生を受けていたと思うと、
なんだか妙な気がする。ちなみに僕の下の孫でさえ、平成8年
生まれ、65歳の時の孫である。

ムラピ火山の爆発とボドブドウール

2006-05-16 06:10:00 | Weblog
インドネシアの世界遺産、ボロブドウール仏教遺跡に近いムラピ火山が
15日爆発、火砕流が発生して住民10数万に避難命令が出ている。
ボロブドウールは9世紀に建立されたが、ムラピ火山の爆発で降った
火山灰で約1千年間も地中に埋まり、1831年ラッフルズによって発見
された。今回も高さ数キロの噴煙が上がり、半径15㌔にわたって火山灰を
降らしている。

わが国はこの地域の火山対策として、1970年以来、異例の長期技術援助を
行っている。現在も住民参加型の「火山地域総合防災プロジェクト」
(2001年~)を実施中で、その最中にこの爆発となった。

ムラピ火山は1930年の大爆発では住民1,800人が死亡、最近でも1994年の
爆発で60人が犠牲になっている。今回,インドネシア政府は爆発の兆候が
見えると、いち早く警戒レベル最高4の避難警告をだしている。一昨年の
スマトラ沖大地震のさいには津波に対する事前の警告がなかったため大惨事と
なった。しかし、今回はわが国の住民参加型のプロジェクトが功を奏して
いる。大爆発に至らぬことをせつに祈っている。

ニコタマのターザンと落下傘塔

2006-05-15 06:41:58 | Weblog
ニコタマは二子玉川と書く若者言葉である。東京と横浜
川崎を結ぶ田園都市線が開通した昭和40年以降、急速に
変容、発展した町である。

戦後まもなくの頃、僕は当時あった玉川プール(明大
プール)で二夏アルバイトをした。遊園地の奥、川の
土手際にあったこのプールは、昭和5年神宮プールが
出来るまでは「全日本選手権」を何度も開催した名門
プールであった。昭和の初め来日した初代ターザン、ワイズ
ミューラーもここで泳いだ、というのが自慢であった。

このプールからさらに丸子多摩川よりに「落下傘塔」が
まだ残っていた。昭和15年、落下傘部隊要員の訓練と
一般の国防意識の高揚を狙って読売新聞社が遊園地の
道具として建設した。高さ50mほどの塔の上から落下傘
を装具して落下する、というもの。昭和26年、この
「落下傘塔」は身売りされ、平成14年まで江ノ島の展望
燈台として使われていたが、今は解体されてない。

その昔、ニコタマこと二子玉川は清流に屋形舟を浮かべ
鮎料理を楽しむ風流の地だったそうだが、百年の歳月で
今や高層のデパートもある賑やかな街に姿を変えた。

ゴロンタロから来た校長さん

2006-05-14 08:08:41 | Weblog
昨夜新しく東京インドネシア学校の校長に赴任されてきた
スマルウォト氏の歓迎会に出席した。彼の前任地はゴロン
タロである。日本人の名前に似た、この耳なれない市は、
れっきとしたインドネシアの50幾つかある州の中の州都
である。

ゴロンタロは旧日本軍が初めて落下傘で降下したマナド
(当時はメナド)から車で4時間ほどのところの湾に
面した風光明媚な町である。昔ポルトガルの来襲に備えて
王様が造った砦が観光名所になっている。

従軍世代の元軍人さんたちは「メナドは日本語の港、ゴロ
ンタロは権太郎がなまったのだ」と大東亜共栄圏の話を
自慢げにしていた。しかし、これは言語学的には誤りで
日本語とはまったく関係ないそうだ。

今、茨城県の大洗町には、この地方から来た日系インドネシア人が
たくさん働きにきている。彼らのご先祖は戦前沖縄から現地へ
出稼ぎに渡った漁民であって、権太郎さんの子孫ではない。

昭和一桁 ジーンズ考

2006-05-13 06:29:47 | Weblog
昭和一桁前半の世代はジーンズをはかない。僕自身も
はいたこともないし、周囲の友人にもいない。最近、
電車の中で、見かけは同年代と思われる白髪の人が
ジーンズをはいているのをみかけるようになった。
それを見て「彼は僕より若いな」と一人でほくそ笑む。
それほど僕らの世代では、ジーンズは年齢をはかる
バロメーターになっている。

僕のあやふやな記憶では、ジーンズの流行は二度あって
最初はは戦後すぐのころ。家庭教師に行った先の”あん
みつ姫"世代の少女(当時)がジーパンをはいていた確かな
記憶がある。東京には代々木のワシントン・ハイツがまだ
ありカマボコ型の進駐軍兵舎があったころだ。

しかし、本格的な流行はミニ・スカート全盛時代が終った
昭和40年代なかば、”アンノン”族が出現”団塊”世代の
青春まっさかりの頃からのような気がする。

最初の流行時には、終戦時の貧しさから、二度目の流行時
には青春時代が終っていて昭和一桁世代はついにジーンズを
はくチャンスがなかった。



西暦 元号 皇紀

2006-05-12 06:10:59 | Weblog
NHK深夜便のアンカーが先日「1950年代ポップ」を放送
したとき、わざわざ断って"昭和25年から35年ころ”と
注釈していた。この時代は僕にとっては大學ー就職ー
結婚ー子供の誕生と青春のまっただ中、ポップはみな
懐かしいものだった。しかし、どうだろう。「50年代
ポップ」とくくってこそ感興があり、元号で言い直せば
かえって興ざめだ。

元号と西暦の併用は確かに面倒だ。通訳の真似事をして
いたとき「昭和プラス25、平成プラス88」の"公式”つまり
昭和30年プラス25=1955年を使用した。世界に通用する
便利さだけでいえば、元号は通訳泣かせだ。しかし、
例えば、今ブームの昭和30年代ということになると西暦
では表現できないものがある。

戦前はこれに神武天皇の即位を元年にする皇紀もあった。
僕らの世代は昭和15年がちょうど皇紀(紀元)2600年、
花電車まで出して祝ったものだ。国史(日本史)では
仏教伝来は”おいちに、おいちにとやってきた”(皇紀
1212)と習った。戦後進駐軍の命で使用禁止になったが、
西暦と元号の併用、やはり文化の独自性から必要なのかも
知れない。