戦中から戦後の昭和20年代初めにかけて、米、味噌、醤油、酒、タバコ、衣料品に至るまで配給制であった。”勝つまでは欲しがりません"-銃後の生活は耐乏を強いられた。「少国民」だった僕らも、お菓子が配給品だった。といってもなんでも買えるわけではなく、一定のものしかなかった。そのうちの一つに何故か僕には玉子パン(写真)の記憶がある。
戦争の名前が支那事変から大東亜戦争に変わった昭和16年頃から,銃後には次第に菓子類が消えてきた。″オセン(煎餅)にキャラメル”と映画館で売られていた、代表的な当時のスイーツ、キャラメル、板チョコは完全に姿を消した。昔は町のどこにでもあった駄菓子屋の店先からも駄菓子が消え、売っているのは南方の戦地からの乾燥バナナとニッキ(肉桂)だけだった。
昭和17年10月、当時東京の国民学校(小学校)6年生だった僕らは緒戦の勝利の”ご褒美”に関西へ参宮(修学)旅行へ出かけているが、その時にもお菓子が特別配給になった。しかし、校長先生の一言で、全部食べずに持ち帰った。旅行中、菓子を食べて病気になってはという”親心”からだが、時代を感じさせる。
敗戦後、横浜の大桟橋で、家から持ち出した人形とExchangeした、何年振りかで食べたチョコレートの味も忘れられない。今は何でもある時代だが、久しぶりに食べた玉子パンの簡素な味から過酷だったあの時代が色々と想い出される。