インドネシアで発行されている邦字紙「じゃかるた新聞」が大東亜戦争中の日本軍
による最大の虐殺事件といわれるポンティアナ(西カリマンタン)の現場を取材した
記事(3月22日)を掲載している。戦後生まれの記者だから仕方がないのだが現地
の噂や展示物をそのまま信じ込むのは、僕の経験からいって危険である。
1996年、僕は同じように戦争中虐殺があったとされていた西スマトラ州ブキティンギ
の旧日本軍(第25軍司令部)防空壕跡を訪れた。当時、この防空壕で三千人の労務
者が虐殺されたと、まことしやかに伝えられ、日本の早稲田大学や慶応大学の先生
方までそれを信じ込んでいた。現地の噂や虐殺をほのめかすレリーフにだまされてい
たのだ。当時、この壕を建造した責任者の証言でまったくのウソと判った。
ポンティアナの虐殺があったことは事実で、戦後の連合軍(オランダ)裁判(BC級戦
犯裁判)で、旧日本海軍第22根拠地司令官(中将)二人を含む16人が処刑されてい
る。残念ながら、このことは日本では関係者以外、ほとんど知られていない。インドネ
シアでも現地以外はあまり知られていないのではないだろうか。
2000年10月、僕もポンティアナの現場を訪れた。虐殺の犠牲者の子供の案内で慰霊
碑に詣で献花してきた。ブキティンギと同じように日本軍の残虐を示唆するレリーフが
ここでも展示されていた。慰霊碑には21038人が殺されたと刻まれている。多分事件
について予備知識なしにここを訪れた日本人は、ただただ驚きレリーフの数字を信じ込
むに違いない。が、オランダの裁判記録は2100名である。
西カリマンタン州では毎年6月28日、州知事参加の下に事件の慰霊祭が催されてい
る。日本人の当時の関係者も最近まで弔電を送り、弔意金を贈っていたが、ご高齢で
途絶えている。戦時賠償は法的には解決ずみだが、やはり日本人として心が痛む。と、
同時に正しく歴史を検証し後世に伝えたいものだ。
による最大の虐殺事件といわれるポンティアナ(西カリマンタン)の現場を取材した
記事(3月22日)を掲載している。戦後生まれの記者だから仕方がないのだが現地
の噂や展示物をそのまま信じ込むのは、僕の経験からいって危険である。
1996年、僕は同じように戦争中虐殺があったとされていた西スマトラ州ブキティンギ
の旧日本軍(第25軍司令部)防空壕跡を訪れた。当時、この防空壕で三千人の労務
者が虐殺されたと、まことしやかに伝えられ、日本の早稲田大学や慶応大学の先生
方までそれを信じ込んでいた。現地の噂や虐殺をほのめかすレリーフにだまされてい
たのだ。当時、この壕を建造した責任者の証言でまったくのウソと判った。
ポンティアナの虐殺があったことは事実で、戦後の連合軍(オランダ)裁判(BC級戦
犯裁判)で、旧日本海軍第22根拠地司令官(中将)二人を含む16人が処刑されてい
る。残念ながら、このことは日本では関係者以外、ほとんど知られていない。インドネ
シアでも現地以外はあまり知られていないのではないだろうか。
2000年10月、僕もポンティアナの現場を訪れた。虐殺の犠牲者の子供の案内で慰霊
碑に詣で献花してきた。ブキティンギと同じように日本軍の残虐を示唆するレリーフが
ここでも展示されていた。慰霊碑には21038人が殺されたと刻まれている。多分事件
について予備知識なしにここを訪れた日本人は、ただただ驚きレリーフの数字を信じ込
むに違いない。が、オランダの裁判記録は2100名である。
西カリマンタン州では毎年6月28日、州知事参加の下に事件の慰霊祭が催されてい
る。日本人の当時の関係者も最近まで弔電を送り、弔意金を贈っていたが、ご高齢で
途絶えている。戦時賠償は法的には解決ずみだが、やはり日本人として心が痛む。と、
同時に正しく歴史を検証し後世に伝えたいものだ。