Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

4月25日(月) 伊丹万作の再読

2022-04-25 23:00:47 | 日記

最近なかなか疲れが取れなくて、グズグズしていることが多くなってしまいました。夜眠れないことが一番の原因なのだろうと、自分では思っているのですが、別に心配事があるわけでもなく、1日の過ごし方=時間の使い方が規則正しくなっていないことが原因なのかもしれません。

田んぼに水が入り、あたりはすっかり春爛漫の気配。今日の暑さは尋常ではありませんでした。ここ一週間ほどの暖かさのために、木々には新緑があふれるようになり、雑草も伸び放題。先日植えたタネも芽が出始めて、あと2,3週間もすれば、それらを畑に移植する本格的な農作業の時期になります。

日が暮れると、たちまちカエルたちの大音声。どこから湧き出したかわかりませんが、とにかく無数のカエルが一斉に鳴き出すのですから、外にいるとたまったものではありません。ここでも録音してみなさんにお聞かせしようとも思いましたが、ゲコゲコじゃしょうがないと思い直して中止。お聞きになりたい方は是非わが家にお越し下さい。そのうち、家のなかにどんどん入り込んできては、干物になっているものも出てくる。気をつけて外に出してやってはいるのですが、とても追いつかない。いろいろ気苦労の多い時期ではあります。

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ロシア国内の「世論」の大半がプーチンを支持しているという報道を聞くにつけ、そうでもしなければ命が危ないという国内の言論抑圧と人権侵害の実態を割り引くとしても、太平洋戦争末期のこの国の世論状況との酷似についてつい考えてしまう。

プーチンの戦争に反対して、命の危険を感じたロシア人が海外に逃げて、他国で反戦運動に力を入れている報道も十分に承知しているし、日本国内でロシア人とみれば排外的な動きをするこの国の一部の輩の愚かさもよく分かっているつもりだ。

ロシア国内で、ウクライナで自国軍隊が行っている蛮行についてほとんど知らされず、勝利に向かって突き進んでいると信じるロシア国民が多いことは、それほど驚くことではない。
ただ、時間がたち、事実が明らかになったとき、それらの人々はどう言うのか。
「プーチンに騙された」「私は何が起こっているのか何も知らなかった」「あのときは仕方がなかった」・・・などと言うのだろうか。

そんなことを考えて、改めて伊丹万作の「戦争責任者の問題」を読み直してみる。

だますものだけでは戦争は起らない。だますものとだまされるものとがそろわなければ戦争は起らないということになると、戦争の責任もまた(たとえ軽重の差はあるにしても)当然両方にあるものと考えるほかはないのである。
 そしてだまされたものの罪は、ただ単にだまされたという事実そのものの中にあるのではなく、あんなにも造作なくだまされるほど批判力を失い、思考力を失い、信念を失い、家畜的な盲従に自己の一切をゆだねるようになつてしまつていた国民全体の文化的無気力、無自覚、無反省、無責任などが悪の本体なのである。

さて、ロシアではなく、自国の中で起こっていることについて、果たしてどうだろう。
自民党の安全保障調査会が、政府の防衛3文書改訂に向けた提言を21日にまとめた。それには「敵基地攻撃能力」を「反撃能力」と言い換え「相手国の指揮統制機能」なども攻撃目標に追加するとしたり、軍事費をGDP2%以上にすることを求めたりと、恐るべき軍拡の提言を行っている。
しかし、読売新聞の全国世論調査(4/3)では、日本の防衛力強化に賛成する人が64%と反対27%を大きく上回り、さらに敵基地攻撃能力の保有については賛否同数(46%)となったという。
ロシア、北朝鮮、中国の「脅威」に対して、軍事対軍事の悪循環に陥ることに不感症となり、軍拡しなければ身が守れないと思い込むのは、一見正しい判断に見えて、いずれ来る破局の明らかな前触れでしかない。なぜなら、自民党の提言も、国民への調査にも、どうしたら脅威が生まれない保障が確保できるのかという観点が皆無だからだ。
戦争への準備はこれで整うということだろう。身動きで出来ない状態、つまりアメリカの仕組む戦争に安保法制のために否応なく突き進んで自国が戦場となったときに、やはり「騙されていた」と言い訳することが許されるのかということだ。

今日の情報操作のレベルは戦前のそれとは質が異なる。戦前の町会、隣組、警防団、婦人会などの広報と情報伝達の役割を、今やメディアとネットが担っている。伝播の速度は桁違いであり、情報の統制などは実に巧妙に仕組まれる。それと対峙できるだけの知的レベルを保てるのか。
避難民と難民を区別するなどと愚にもつかないことをやって、「白人」であるウクライナ難民には手厚い待遇をしつつ、ミャンマーや中東などからの避難民には非人間的な入管措置を続けるこの国のダブルスタンダードに、どれほどの批判の声を上げられるのか。

「だまされていた」といつて平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや、現在でもすでに別のうそによつてだまされ始めているにちがいないのである。

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