Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

2月23日(木) Mehr Weisheit !

2023-02-23 11:00:22 | 日記

青い空から、雪片がヒラヒラと舞い落ちるのを見ていると遠い日の記憶が目の前の景色と入れ替わって見える幻想にとらわれます。これは一昨日のこと。
昨日は、池田でも珍しい快晴で、いつもは雲がかかっている白馬方面もすっきり晴れ上がって山々は純白に輝いていました。

一昨日から、東京からスキーをかねて安曇野を訪れている知人(母・子)が、今日はわが家に寄りその後昼食を共にする予定でしたが、母親の方が体調不良のためにわが家での予定は全てキャンセルとなり、宿で休んでいるということ。幸い息子さんの方は白馬のゲレンデでスキーを堪能できたようでよかった。昨夜の連絡では、快方に向かっているのでもう少し休めば元に戻るのではないかとのこと。旅先での体調不良は本当に辛いものですから、早く治って元気に帰京してほしいものです。

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昨日午前中は、第37回行財政改革推進委員会。町長も出席して、町が作成した財政シミュレーションを巡ってやり取りをしました。

相変わらず借金返済額の負担が大きく令和8年度まで6億円を超える返済が続き、人件費もそう簡単には削減できず10億円台が続いて経常経費を圧迫、さらに公共施設の指定管理費、様々な維持管理費の高騰などもあり、物件費も隣の松川村よりも2億円も多い状態。そのために、将来に備えた基金の積み増しがほとんどできないことや、大型事業による更なる財政圧迫の懸念など、財政状態は火の車。

しかし、行政当局はさっぱりその危機感がなくチグハグな対応に終始しています。
たとえば、人件費についていえば、ある意味で政策は「人」の力ですから、必要な人員は確保すべきだし、非正規は極力抑えて正規職員で対応すべきです。それには、仕事の内容を十分に精査し、効率的で整合性のある職員配置と作業分担に徹することや、町づくりの方針を明確にし職員の意識を統一することが必要です。

ところが、行革委員会が現町政になってから大幅に増やした職員数の削減を提言(平成28年度水準に戻す)すると、次年度からいきなり大幅に削減。外から見ての印象ですが、職場の矛盾を一気に広げたのです。行革委員会は5年間でその水準まで下げることを提案していたのに、結構急激なやり方をしたために逆に退職者を増やしてしまうという悪循環が起こってしまっているように見えるのは、そのチグハグの一つです。

行革委員会は民間の立場で財政健全化の提言をしているわけで、行政は行政なりの言い分もあるだろうし方針もあってよい。残念ながら、理事者からそれが一向に示されず、一体財政危機の最中にあるという認識すら疑われる状態なのですから深刻です。
今日の信濃毎日新聞は、こうした町の状況について報じていましたが、その中でいいんから厳しい批判が出ていることについて「感情的」だとか「長々と批判を展開」などという記者の主観を交えた論評がありました。部外者が見ればそう受け止められる側面は否定しませんけれど、それらは委員の共通の感情であり意識であって、よく事情を知っている委員の1人が代弁しているに過ぎない。

池田町をよくするためには、「Mehr Licht !」とともに「Mehr Weisheit !」なんじゃないかなあ。

今日の信濃毎日
今日の大糸タイムス


2月16日(木) 相続手続きの面倒からやっと解放された

2023-02-16 14:19:26 | 日記

朝税務署に行き、相続に伴う所得税の確定申告書を提出し、1年余にわたる相続手続きを済ませ、各相続人に分割した相続金を振り込み、ようやくめんどうな手続きからすべて開放されました。

何千万円~数億円の相続ならば、ちょっとは力も入ったかもしれませんが、資産と言えば140坪ほどの土地とボロ屋を解体・整地した上で処分しただけ。分割相続とともにそれらの処理に伴う事務手続きのために何度も現地に足を運ばなければならず、さらに所得税の対策でも神経を使い、こんな仕事は2度とゴメンだとつくづく思わされました。

それでも、多少の遺産があったので、わが家の庭の改修の費用として有効に使わせていただきました。一部はトルコ・シリア地震への救援募金に。亡き叔母には感謝です。

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2月10日、11日の大雪のあと、暖かい日が続いたので雪はあっという間に消えて、昨日からまた冬型の気圧配置のために急速に冷え込んできました。
今日の昼はよいお天気で、出来るだけ電気を使わないようにしているので、太陽光発電も充電にまわって多少は電気代の節約になりそう。その代わり灯油代が嵩んで、どっちがいいんだか。

トルコ、シリアの地震被害は想定を超えたものになっているようで、レンガやコンクリートの下敷きになって亡くなった方は5万人に近づいているらしい。私に出来ることといえば救援募金ぐらいしかないのが本当に辛いところです。

プレートが重なり合う地震多発地帯ですから、大きく高い建物を建てるには当然ながら耐震構造が求められるのに、余りにもひどい状態に唖然とします。ニュースでは、古い建物が多く、しかも新しいものでも手抜き工事が横行していたという話もあり、そうなれば人災ですから、これでは亡くなった人も浮かばれない。遅まきながらでも各国からの支援活動を強化すべきです。

当然ながら、日本でも他人事ではなく、よほど気を引き締めて対策を強化しなければならないでしょう。内陸部では直下型の断層地震で、これも怖いが、プレート型になれば津波が襲ってきますから被害は桁違い。場合によってはトルコ地震以上の被害も想定される。
事実、気象庁は「南海トラフ全域で地震発生が切迫している」としていますし、慶長、宝永、安政、昭和のそれぞれの地震を踏まえ、最後の地震からすでに80年近くを経過しているので、南海・東南海・東海の連動が「いつ起こってもおかしくない」とされているのです。

日本政府は、アメリカからの武器の爆買いを始めとする軍備に血道を上げるのではなく、被害を最小限にするためにこそ資金を使い、安全な住環境を整えるべき。向かう方向がまるで正反対です。


2月11日(土) 白が眩しい

2023-02-11 11:44:42 | 日記

一夜明けて、目が眩むような銀世界。朝から除雪で相当体力を使いました。作業を終えて家に入ると、何も見えないほど暗く、10分ほどして、ようやく目が慣れるという状態。昼前は、除雪で時間が過ぎていきました。下は、朝から11時頃除雪が終わったときまでの様子です。ふ~~。


2月10日(金) 午後2時 積雪は20センチ

2023-02-10 14:33:14 | 日記

昼は北陸型の大きな雪、午後からは細かい粒状の雪。ずっと降り続いて午後2時過ぎには20センチほどになってしまいました。同じ場所ですが、随分雰囲気が違いますね。

weather newsの画像を見ると、まだ雪雲の固まりが2,3時間は上空にありそうなので、明日までにまだ少し積もりそう。これ以上積もると除雪が大変になるので、午後2時頃から最近入手したラッセル型のスコップで作業開始。折良く除雪車が通りかかってくれたので、かなり労力が節約できました。

それでも約30分の作業で、汗が噴き出して今日のところはこれで終了。車の上はまだこんもり積もっているけれど、これはまた明日。


2月10日(金) また雪だ

2023-02-10 10:32:56 | 日記

昼ごろから雪になるとの予報が外れて、朝早くから細かい雪が舞い始め、8時過ぎからはかなり強くなって、1日降り続けば夕方までには20センチほども積もりそうな勢い。一仕事終えて、ここしばらくは何もないので、家に閉じ籠もって映画でも見ることにしますか。

雪で思い出すのはやはり子どもの頃のこと。
最も古い記憶は、小学生低学年の頃に家の前に背丈ほどのスキー台をつくって、竹スキーで遊んだこと。家の裏にカマクラをつくって遊んだこと。
子どもの頃は、毎年本当によく雪が降りましたね。

敗戦からまだ10年ほどの時期ですから、わが家には風呂もない。近くに銭湯があり、夕方そこへ行くのですが、履き物はゲタ。雪の中をゲタで歩くととんでもないことになる。歯の間に雪が詰まって次第に高くなり、1本歯のゲタになってしまうのです。

小学校では、冬のイベントとして郊外のスキー場に出かけることがありました。私たち庶民の子どものスキーは40~50センチの割った竹の先端を曲げただけの竹スキー。ただ長靴のままその上に乗って滑るという極めて単純・素朴なものでした。ある1人の子が、背丈より高い最先端のスキー(現在に通じる一式)を持って参加してしているのを見て、「へ~こんなものがあるのか」とびっくりしながら眺めた記憶がある。
シャクだから、誰も行かない上級者用のスキー場で、てっぺんから竹スキーで滑り降り、途中で見事に転けて大けがをしそうになった。ちょっと苦い忘れられない思い出です。

当時の富山は、ちょっと歩けば田園風景が広がる田舎都市。学校の周りもほとんど田んぼ。住宅地も高い建物などなく、のんびりした景観。そこに夜、シンシンと雪が降り積もるのですから、そうした光景は、いわば私の原風景なのです。

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昭和37年末から38年にかけての大雪は、いわゆる38豪雪。地吹雪の中、歩いて学校まで行ったものの、ほんの数人しか来ていない。今にして思えば真面目な子だったんですねえ。
電車などはほとんど止まっているので、遠くの生徒は当然通学の手段がない。当時は休校の連絡があるわけでもないので、自分で判断するしかないというわけです。不思議と、除雪などで苦労したという記憶はほとんどないんです。父母に任せていたんですかね。

その後は、富山を離れたために、雪の記憶はありませんが、今度は東北の冬の厳しさ。4畳半一間の下宿生活で、暖房は電気こたつのみ。部屋のミカンや卵が凍ったのを覚えています。しょっちゅう地震に悩まされていた。

名古屋勤務を経て富山に戻って、今度は56豪雪。一晩で数十センチの積雪で、屋根の雪下ろしをすると1階が埋まってしまう。この時は連日連夜の除雪で本当に大変だった。冬用タイヤにチェーンを巻いて車を運転しても危険を感じる状態。冬の車の運転については、人には言えないような体験もいっぱいありますけど、ここでは本題からずれるので省略。

そろそろ除雪の準備をしよっと。