畑仕事もいよいよ忙しくなって、結構体力を消耗する毎日。
昨年耕したところはほぼ苗を植える状態に整備したものの、昨年カボチャを植えたところは草が生い茂り、今度はこちらの固い土と砂利を処理して、サツマイモや冬瓜を植えるために悪戦苦闘しているところ。今週半ばから5月初めにかけて、まだまだ基礎作業が続きます。
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陸上自衛隊が、2018年からホームページ上で日本軍第32軍の牛島司令官の辞世の句を掲載して批判をあび、昨年10月末に一旦取り下げていたものの今年に入って再び掲載したことが問題になっています。
この画像の掲載箇所は、なかなか分かりにくいところにあるのですが、陸自15旅団(那覇市)のホームページ「第15旅団沿革」⇒1972年Click⇒初代桑江群長沖縄県本土復帰に伴う訓示⇒写真と辿ると見つかります。画像はボケボケだが、東京新聞には、明瞭な最後の部分が掲載されています。
琉球新報によれば、今年1月1日に「辞世の句」の画像を復活させたことについて、18日の衆院安全保障委員会で共産党の赤嶺議員の質問に中谷防衛相は「これからの平和をしっかりと願う歌」だと自身の解釈を述べ、「地元部隊の司令官が、地元の皆さまに非常に身近な部隊であると感じてもらうため、これまでの過去の歴史や経緯を伝えるという意味において、訓示を含めて掲載することにしたと承知している」と回答したのだという。
辞世の句とは、上の画像の
「秋待たで 枯れ行く島の 青草は 皇国(みくに)の春に 甦らなむ」
の句。
私などは、青草を枯らしたのは誰なのか、青草ならば蘇るかもしれないが、蘇えることのないおびただしい犠牲者を作り出したのは誰なのか、こうしたことを問うこともなく、「散華」と戦争を美化し、「皇国の春」を「願う」牛島司令官に身も心も同一化させてこの句を載せた桑江一等陸佐の時代錯誤が心底恐ろしいと思わずにはいられない。
中谷防衛相の、これまた見当外れで、歴史認識のカケラもない空疎な見解はどうでしょう。こんな人物が防衛大臣?
沖縄戦最後の悲劇に最大の責任を負い、「軍官民共生共死」を掲げて民間人を多数戦争に巻き込み、さらに司令官として戦争終結を見届けることもせずに自殺したことは、県民のさらに大きな犠牲を強いるものとなったのです。
自殺する前に牛島司令官が発した軍命令は次のようなものでした。
各部隊は各局地における生存者中の上級者之を指揮し最後まで敢闘し悠久の大義に行くべし
歴史家の大城将保さんは、著書「沖縄戦」(高文研)で次のように指摘しています。
軍司令官の自決は、軍の降伏や戦闘停止を意味するものではない。それどころか、「最後まで敢闘」とある通り、残存部隊にたいして遊撃戦への移行を命じたものである。軍司令官の自決によって、守備軍には戦闘を収拾する責任者が不在となり、沖縄戦は終わりのない戦闘になった。
第32軍が首里城を放棄した時点で敗北を認めていれば戦争犠牲者の数はそれほどにはなっていなかったが、その年2月の「今一度戦果を上げてから」という天皇=大元帥の言葉と、大本営の本土決戦の時間稼ぎ=沖縄捨て石作戦によって、南部での地獄絵図が描かれることになった。
靖国神社集団参拝を含め、自衛隊幹部の旧日本軍への回帰意識の強まりは、一般自衛隊員の意識にも当然影響を与えずにはおかないでしょう。
米軍との一体化をすすめると同時に、上のような旧日本軍の意識を温存させている自衛隊の実像を正しくとらえておかないと、歴史はまた繰り返すことになってしまいます。