Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

5月28日(土) ようやく議事録文字起こし原稿完成

2022-05-28 14:03:21 | 日記

昼2時過ぎ、ようやく文字起こし原稿が完成し、委員のみなさんと事務局に送付しました。

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外は真夏のような太陽が照りつけています。田んぼも次第に緑が濃くなり、北アルプスの雪もかなり少なくなって、6月中旬にはすっかり夏山の装いになるのでしょう。

咲いている花の種類も随分変わってきましたよ。田んぼの畦では、白いマーガレットが一列に咲き、バラも今が見頃。となりの家の白い房状の花を咲かせる木(名前が出てこない=バイカウツギだった)が見事です。

わが家の裏手では2軒の新築工事が進行中で、秋には入居になるのでしょうか。随分周りも変わってきました。写真でもおわかりの通り、わが家の前には日本共産党の看板が立っています。地元の党組織が立てさせてくれと頼みに来たのでOKしただけです。

知り合いがそれを見て、「共産党に入ったのか?」と聞くので、看板を掲げたら党に入ったとなれば、いたるところに党員がいることになるけどなあ、と答えておきました。共産党の看板と自民党の看板を並べているお家もないわけでもありませんから、そんな家はどうなるのですかね。

もちろん私は昔から明らかにしているように、私も妻も写真のバラの花のような日本共産党支持者です。今度の参議院選挙では、ウクライナ問題にかこつけた軍拡、改憲のたくらみに鉄槌を下すべく、真に国益になる平和外交が実現できる政党を増やす必要があると思っていますから、その要になる共産党を推さないわけにはいかない。

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このところ、畑仕事と行革委員会の仕事に手を取られて、わが家の庭、家の中は荒れ放題なので、ここらで時間をとって片付けモードに入ります。


5月27日(金) 25日の雷雨と雹害

2022-05-27 21:30:56 | 日記

25日長野県の一部を襲った雹害が全国ニュースになったらしく、東京のMNEMOさんが、私の畑は大丈夫かとブログでお見舞いを頂きました。有難うございます。

実はその日、ちょうど行財政改革推進委員会のZOOMでのオンライン会議中だったのです。会議が終盤にかかった午後4時過ぎから突然豪雨になり、雷鳴が響き響き、とうとう町中心部で停電。画面から役場を初めとして何人かが突然消えて会議も中断せざるを得ない羽目に。
どうやら池田町から生坂村をはじめ、かなり広い範囲で雹が降ったらしい。わが家でも屋根を打つ大きな音がしていましたから。

会議の議事録をつくっている都合上、ICレコーダーで録音していたので、中断した会議の合間の模様を少しだけ再現してみましょう。ザーという音は屋根を打つ雨、時折雷鳴が聞こえます。最後の方では「外は雹が降っています」という声も入っています。

中断した会議の間の集中豪雨の音声

今日のローカル紙では、池田町、生坂村、安曇野市などでリンゴ、ブドウ、園芸作物などに深刻な被害が生じたと報じていました。

会議中だったこともあって、外の様子を見ることはできませんでしたが、音を聞いているだけで尋常ではない雨の降り方で、返ってきた妻も「怖かった」と言っていました。

数年前に一度だけバケツをひっくり返したような猛烈な雨に遭遇した経験はありましたが、今回はそれを上回る豪雨・雷雨で、突然のことでしたから農家も防ぎようがなく、被害は本当に深刻です。

ただ、幸いにもMNEMOさんが心配されていた我が畑は、昨日、今日と出かけて見回っていたものの、とくに被害はなく問題はありませんでした。イチゴには鳥除けのための覆いがかけてあったので雹害もとくになく、今日はまた大量に収穫して一部を息子に送ることができたほどです。
とはいえ、いつどのような災害が襲ってくるかわからない気象状況になっていることだけは事実です。

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私は、25日から今日27日にかけて、ほとんど終日議事録の文字起こしをしていましたので、ブログに向かう余裕がありませんでした。今日の夜になってようやく終わりが見えてきたので、これを書いているところです。


5月23日(月) 高校教育に三角関数は必要ない?

2022-05-23 23:38:47 | 日記

千葉維新の会代表代行の肩書きを持つ衆議院議員、藤巻健太氏のブログがちょっとした話題を呼んでいる。ここに引用するのもはばかられるので、リンク先のみ書いておく。(元のツイッターはこちら。言い訳の書き込みはこちら

彼の言いたいことを簡単に言うと、「三角関数はほとんどの人にとっては使うことのないものだから、それを高校で「がっつり」教え込むより、商品の流通・管理・販売を含めた金融教育の充実の方が大事だ」というもの。
「自分は、高校時代は数学が得意な方だったが、この15年一度も使ったことがないので、今は何も覚えていない。全て忘れた」のだそうだ。

これに対して、ブログは批判にあふれてほとんど炎上状態。それもそうでしょう。慶應義塾大学経済学部を卒業後みずほ銀行に入行した、一応のエリート。私だって「15年一度も使わないだけで、すべて忘れるような勉強をしていたんかい」と突っ込みを入れたくなりますから。橋下徹氏も同趣旨の発言をしていたこともあるらしいから、類は類を呼ぶということか。

批判の1つに、「中高生みたいなことを言っている」というのがあったけれど、全くその通りです。高校で社会科学や自然科学の基礎、言語、芸術、スポーツなどを一通り学ぶのは、人間としての成熟の土台をつくることであって、使うか使わないかで価値を判断するほどゆがんだ教育観はないし、有害ですらある。

すべての人間に高いレベルの基礎教育など必要はなく、高校では早いうちに「能力と適性」に見合ったコースを選ばせて多様化するのがよい、というのが長い間この国の教育を支配してきた考え方だから、まさしく、能力と選別の教育の推進を別の言葉で言い換えたにすぎない。

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6月中旬にシニア大学で40人近くの「シニア」の方々を相手に「学び直しの算数・数学」と題して、2時間の講義をすることになっているので、なかなかタイムリーな話題を提供してくれています。
とはいうものの、テーマはすでに決めているので、三角関数は取り上げませんけれど、次回があれば、話題の1つとして話してもいいかなとも思います。

じつは、この講義の依頼をしたのは、シニア大学のコーディネーターで、昨年チョロギ栽培に関心を示して一緒に一年間作業をしていた青年の1人でした。

作業の合間の休憩時間にいろいろな話に花が咲き、そのうちに、私が松本で子ども塾をやっているという話題から、その彼が、高校時代に三角関数が苦手だったとふともらしたことがあったのです。
それに対して、「じつは高校数学の中で、三角関数ほど簡単で理解しやすいものはないのですよ」と答え、その導入はたった1つの図の理解で済むこと、その三角関数は円関数とも呼ばれるほど、回転運動や振動と結びついており、自然科学だけではなく統計や経済学を学ぶ上でも必要な知識なのだという話をしました。

彼は、「三角関数が簡単で理解することが容易である理由」にいたく関心を示したようで、そんなことは学校では学ばなかったと驚いていました。そのことがよほど印象に残ったのでしょう、いままでは地域の歴史だとか身近な話題が多かったシニア大学の講義の1つに、数学の話題を加えられないかと事務局に提案し、それが認められて私に正式な依頼になったのでした。

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私自身の中学・高校時代をふり返ってみると、まず中学3年生。昔は、中学ですでに「三角比」がカリキュラムに入っていたのです。
数学の担当は、私が高校時代に個人教授を受けていた方の連れ合いで、東北弁なまりの「コワい」女性でした。一生懸命に教えてくれていたことだけは覚えているものの、その三角比が私には全くチンプンカンプンだったのです。そもそもの意味がわからなかった。

教育では、なぜそれを学ぶのか、その意味はなにかが子どもに分かったときに初めて身につくものになるのですが、私にはその準備が全くなかった。機械的に覚えることしか出来なかったのだろうと思います。高校では当然ながら三角関数を学びますが、このときもやはり機械的に「そういうもんだ」という程度の理解だったように思えます。

本格的に三角関数について、どう教えるのが最もよいのかを考えたのは、現場に立って教え始めたときだったのです。詳しいことは省きますが、「役に立たない」という主張の背景には、じつは学校教育の場での問題が横たわっている。役に立たないような教え方しかしていないのではないかとさえ思えることがあります。

教師たちが、自らの経験のみにとらわれず、子ども達の発達に即して教え方について研鑽を積み、学ぶ意味をともに考えられるようになれば、軽薄な教育観は少しは影を潜めるのではないかと思うのですが、現場は教え方について同僚と学びあえるような環境はほとんど消え去って忙しくなるばかり。その隙間を突いて、冒頭のような俗論が幅をきかせるのでしょう。


5月19日(木) 4回目の富山行き

2022-05-19 23:41:16 | 日記

17日から今日まで、富山の叔母の家の片付けと相続関係の手続きに出かけていました。2月から毎月軽トラで出かけており、今回で4回目です。
今回は、17日に不動産屋、金融機関などで叔母の遺産の整理を行い、土地の処分の手続きと、わずかずつ残っていた金融財産の現金化の手続きを終了することができました。
それなりに財産が残っていると期待していた金融機関の通帳でしたが、いざ記帳してみるとその後自動引き落としなどでほとんど残金ゼロ、交通費にもならないのもありガックリ。

土地は140坪と広いものの、車でのすれ違いもままならないほど前の道が狭く、果たしてすぐに売れるのかどうか。しかも、ウクライナ情勢の影響で家を建てる資材などの高騰もあって、先行きが全く見通せません。
土地の売却が出来れば、相続人に均等に財産分与を行うことになりますが、いつのことになるのやら。

18日には、妹夫妻にも手伝ってもらって、前回の片付けの続きを行い、着物・装飾品などを買い取り業者に着てもらって処分しました。テレビでも宣伝しているザ・ゴールドの鑑定で、全部で4000円ほど。捨てるよりはマシと、みんな喜んでいました。
残った生地などは、裂き織りなどに使うために持ち帰り。

また、電気関係の仕事に携わっていた私の友人にも来てもらい、残された洗濯機やエアコンを再利用できるかどうか見てもらいました。
洗濯機はまだ新しいドラム型なので、友人に誰かほしい人がいないかどうか探してもらうことに。エアコンは、後日ガス抜きをしてからわが家で使うために取り外すことにし、改めてその友人に来てもらうことにしました。

いろいろと、何ともやっかいな仕事でしたが、何とか一通りほぼ終わることができて一安心。
ところが、今回出かけてみると家の周りは草だらけ。新たな仕事として、草刈りの仕事が舞い込みました。近くまた出かけて草刈りと除草剤での処理をしないといけません。昆虫やネズミなどの発生で周りの民家に結構迷惑になりそうだからです。

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今日は、朝富山を出て、例によって生地の魚の駅に立ち寄って何種類か魚を購入。
午後2時過ぎに池田町に到着しました。
妻は会議のためにすぐに出かけ、私も畑に直行。

畑は、ここ数日の日照りで乾燥が進み、植えたばかりの苗も息絶え絶えでしたので、どうしても必要な所だけに散水。明日改めてホースで水まきをすることに。

最盛期を迎えてイチゴは、3日ほど採らなかったので相当に熟しており、摘み取りにも一苦労。帰りがけの小学生を呼び込んで採っていってもらいました。
今年は大粒のイチゴが多く、食べ応え十分。あと1週間ほどは毎日それなりに取れそうなので朝昼晩とイチゴ三昧になりそうです。

ただ、畑で心配なのは、種によっては生育が遅いものがいくつかあること。トマトのナスの苗や、スイカ、ウリなどが全く大きくならない。夜の気温のせいなのか、種が悪かったせいなのか分かりませんが、気候の影響もないとはいえない。
作物を作る上で、イチゴのように豊作になるものもあれば、相当に不作のものも出てきそう。全国的に、いろいろな影響がこれからありそうないやな予感がします。


5月15日(日) 沖縄復帰から50年 思い出すあれこれ

2022-05-15 22:51:25 | 日記

1ヶ月ほど前だったか、倉庫を片付けていた妻が「こんなものが出てきた」と見せてくれたのが、何と1971年(昭和46年)に、妻の両親に結婚の了解を得るために沖縄に行ったときのパスポートでした。

本籍・氏名・生年月日は今更消しても仕方がありませんが、一応プライベートなものですので、消してあります。私の素顔は何度もブログで晒しているので、消す必要も無いだろうし、こんな時もあったのだと、息子・娘にも知らせておきたいのでそのままとしました。どうでもいいけど、この頃は髪の毛が沢山あったんだなあ。

その際に、何をどうしていたのか、サッパリ覚えていませんが、妻の両親、とくに母親が妻と何を喋っているのか皆目分からなかったことだけは鮮明に記憶に残っている。それと上の兄がまさしくウチナー顔であったことと、下の兄弟姉妹達の可愛かったことも。車の運転をしたような気もするのですが、何しろ右側通行なので怖かったことも何となく残っている。

1972年12月には息子が誕生します。復帰から50年といいますが、その年月は息子の年月でもある。恐ろしいほどの月日の流れですね。
ここ3年ほどはコロナの影響もあって、妻の郷里には行けていませんが、今年の秋頃には何とか短期間でも行きたいと思っています。

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私が名古屋の高校に就職したのが1969(昭和44)年4月。高校の総務主任のY教師が、何かと身の回りの世話をしてくれ、昭和区御器所交差点近くのアパートを紹介してくれたのでした。GoogleMapで調べると、今なおそのアパートが残っている!多分誰も住んではいないのでしょうが、壊すに壊せず、そのまま放置されているのか。周辺は随分変わっており、見る影も無いけれど、このアパートだけは50年前の姿のまま残っているのをみると当時にタイムスリップしたようです。

そこには、沖縄出身者の女性が2人いて、沖縄返還運動に関わっていたのです。沢山の住人がいたのですから、特別その女性達と付き合う必然性もなかったはず。そこらの事情がどうしても思い出せないのですが、ともかく、私も沖縄返還運動に誘われて当時全国で結成されていた「沖縄返還同盟」に参加することになりました。

沢山の仲間がそのアパートに集まり、議論をしたりチラシを撒いたりして活発に活動していたのです。そんな中で、ある日、「豪傑」とウワサされていた女性と出会うことになります。どこがどう「豪傑」なのか、さっぱりわかりませんでしたが、ともかく第1印象は目が大きく印象的なウチナー顔だったこと。

アパートの1階の出入り口左側が管理人の部屋。電話はそこにだけあったので、富山の父母に結婚したいという話をしたことを思い出します。電話口で母が結婚に反対し、涙ながらに抗議した記憶もよみがえる。

当時いっしょに活動していた仲間達の多くは沖縄に帰っているようだが、どうしているのか。50年という歳月は、多くの沖縄出身者の人生もまた左右する年月でもあったことを、しみじみといま思い返しています。