千葉維新の会代表代行の肩書きを持つ衆議院議員、藤巻健太氏のブログがちょっとした話題を呼んでいる。ここに引用するのもはばかられるので、リンク先のみ書いておく。(元のツイッターはこちら。言い訳の書き込みはこちら)
彼の言いたいことを簡単に言うと、「三角関数はほとんどの人にとっては使うことのないものだから、それを高校で「がっつり」教え込むより、商品の流通・管理・販売を含めた金融教育の充実の方が大事だ」というもの。
「自分は、高校時代は数学が得意な方だったが、この15年一度も使ったことがないので、今は何も覚えていない。全て忘れた」のだそうだ。
これに対して、ブログは批判にあふれてほとんど炎上状態。それもそうでしょう。慶應義塾大学経済学部を卒業後みずほ銀行に入行した、一応のエリート。私だって「15年一度も使わないだけで、すべて忘れるような勉強をしていたんかい」と突っ込みを入れたくなりますから。橋下徹氏も同趣旨の発言をしていたこともあるらしいから、類は類を呼ぶということか。
批判の1つに、「中高生みたいなことを言っている」というのがあったけれど、全くその通りです。高校で社会科学や自然科学の基礎、言語、芸術、スポーツなどを一通り学ぶのは、人間としての成熟の土台をつくることであって、使うか使わないかで価値を判断するほどゆがんだ教育観はないし、有害ですらある。
すべての人間に高いレベルの基礎教育など必要はなく、高校では早いうちに「能力と適性」に見合ったコースを選ばせて多様化するのがよい、というのが長い間この国の教育を支配してきた考え方だから、まさしく、能力と選別の教育の推進を別の言葉で言い換えたにすぎない。
***
6月中旬にシニア大学で40人近くの「シニア」の方々を相手に「学び直しの算数・数学」と題して、2時間の講義をすることになっているので、なかなかタイムリーな話題を提供してくれています。
とはいうものの、テーマはすでに決めているので、三角関数は取り上げませんけれど、次回があれば、話題の1つとして話してもいいかなとも思います。
じつは、この講義の依頼をしたのは、シニア大学のコーディネーターで、昨年チョロギ栽培に関心を示して一緒に一年間作業をしていた青年の1人でした。
作業の合間の休憩時間にいろいろな話に花が咲き、そのうちに、私が松本で子ども塾をやっているという話題から、その彼が、高校時代に三角関数が苦手だったとふともらしたことがあったのです。
それに対して、「じつは高校数学の中で、三角関数ほど簡単で理解しやすいものはないのですよ」と答え、その導入はたった1つの図の理解で済むこと、その三角関数は円関数とも呼ばれるほど、回転運動や振動と結びついており、自然科学だけではなく統計や経済学を学ぶ上でも必要な知識なのだという話をしました。
彼は、「三角関数が簡単で理解することが容易である理由」にいたく関心を示したようで、そんなことは学校では学ばなかったと驚いていました。そのことがよほど印象に残ったのでしょう、いままでは地域の歴史だとか身近な話題が多かったシニア大学の講義の1つに、数学の話題を加えられないかと事務局に提案し、それが認められて私に正式な依頼になったのでした。
***
私自身の中学・高校時代をふり返ってみると、まず中学3年生。昔は、中学ですでに「三角比」がカリキュラムに入っていたのです。
数学の担当は、私が高校時代に個人教授を受けていた方の連れ合いで、東北弁なまりの「コワい」女性でした。一生懸命に教えてくれていたことだけは覚えているものの、その三角比が私には全くチンプンカンプンだったのです。そもそもの意味がわからなかった。
教育では、なぜそれを学ぶのか、その意味はなにかが子どもに分かったときに初めて身につくものになるのですが、私にはその準備が全くなかった。機械的に覚えることしか出来なかったのだろうと思います。高校では当然ながら三角関数を学びますが、このときもやはり機械的に「そういうもんだ」という程度の理解だったように思えます。
本格的に三角関数について、どう教えるのが最もよいのかを考えたのは、現場に立って教え始めたときだったのです。詳しいことは省きますが、「役に立たない」という主張の背景には、じつは学校教育の場での問題が横たわっている。役に立たないような教え方しかしていないのではないかとさえ思えることがあります。
教師たちが、自らの経験のみにとらわれず、子ども達の発達に即して教え方について研鑽を積み、学ぶ意味をともに考えられるようになれば、軽薄な教育観は少しは影を潜めるのではないかと思うのですが、現場は教え方について同僚と学びあえるような環境はほとんど消え去って忙しくなるばかり。その隙間を突いて、冒頭のような俗論が幅をきかせるのでしょう。