昨日は帰りに千曲市の親戚宅に寄ってきたので、午後9時ごろ帰宅。さすがに疲れて、今朝は普通に起きたものの、その後も昼間でぐうたら横になっていました。
午後からは、軽トラの片付けや乱雑になっていた家の中を片付け、夜はまたこどもじゅくの個別指導のために松本まででかけていて、午後9時ごろようやくリラックスした時間を持つことができました。
* * *
昨日は、午前7時にまず先発隊が池田町を出発。隊長以下3名が大きなランドクルーザーで被災地の1つである飯山市を目指しました。その3名が早く出たのは、飯山に切り餅200人分と義援金を届け、そのあと、もう一つの被災地である長野市穂保地区に向かうためです。
後発の私たちは、2台の軽トラで午前9時前に池田町を出発。一台は餅つきの道具一式(臼、杵、かまど、セイロなど)を積み、私の軽トラには切り餅150人分、米・餅米150キロ、計250キロを積み、一路長野道へ。これだけ積むと重い重い。それでも高速道路なので、割と順調に須坂インターを降りて被災地に向かうことができました。
その近くの千曲川沿いの河川敷は、木々がなぎ倒され泥まみれに。重い荷物を積んで長時間走るのは糸魚川にお米を満載して走ったとき以来です。
支援活動メインの餅つきの場が2転3転して、結局ボランティアの集結場所の「リンゴの里」が会場になりました。
到着したときは、ボランティアの皆さんはすでにそれぞれの持ち場に出かけていて閑散・寒々とした状態。そこにはもう先発隊も到着していて無事合流しました。
先発隊を率いた代表の話では、飯山市では市長も出迎えてくれて、予想もしない大歓迎だったとのこと。下は足立市長に義援金を渡したときの写真です。
代表がⅠヶ月ほどまえに食器を届けに来たときは、まだ泥があちこちにうずたかく積み上げられて、泥まみれの状態だったようでしたが、私たちが訪れた昨日は、道路にはほとんど泥はなく、そのかわり車が通る度に土埃が舞い上がって粉塵がすごい。
この地域は至る所にりんご園があるのですが、ボランティアの力でリンゴの木の周りだけ泥が掘り出されてあちこちに土の山ができ、そこに無数のリンゴが落ちていました。
会場では火が使えないので、ちょっと離れた空き地にかまどを据えて、餅米を蒸す準備に。メンバーの中にベテランがいて、素人の私などは見ていることしかできない。
当初は、被災地のみなさんについた餅を食べてもらう予定だったのですが、インフルエンザで会場が変わり、結局ついた餅は沢山来ているボランティアの方々を中心に食べてもらい、持って行った切り餅などは後日現地のボランティア組織を通して、被災者のみなさん個々に届けてもらうことにしました。
午後2時ごろから餅つき開始。ただ、ボランティアは午後の作業に出てほとんどいませんから、全くさみしい餅つき。私たちは軽トラの荷台も使って、ついた餅を食べてもらう場所を確保。あんこ、きな粉、大根おろしも用意して、いつでもどうぞという状態にして、みなさんの帰りを待ちました。
午後2時半頃にはボランティアが帰りはじめて、その頃から一気に忙しくなり、全体を見渡す余裕もないほど。
この日が今年最後のボランティア活動日の日曜日ということもあって、終結したボランティアは250名ほどということでした。狭い会場にそれだけ集まるとすごい混みよう。おなかを空かせた若い彼らですから、お餅はもちろん、隣で配っている豚汁なども瞬く間に胃袋の中に。あっというまに配布終了。
ボランティアは地元はもちろん、県内外から。若い人たちが大勢いて心強く思われました。かまどを据えたところには和歌山大学の学生達を乗せてきたバスが停車していました。学生の一人に聞くと、大学当局や授業とは関係なく自分たちの意志でやってきたとのことでした。
すべて作業を終えたあと、ボランティアの受付会場はこの日で一時撤収になるので、持ってきた餅や米を、地元のボランティア支援組織のテントに移動。持ってきた支援物資をすべて運びこみ、午後4時、すべての日程を終了しました。
これからは、支援活動を終えての感想です。
第1。現地の支援組織「穂保被災者支援チーム」の代表Oさんの話を聞くと、住民組織の役割がいかに重要かがよくわかりました。行政ではなかなか住民がそれぞれの生活点で何を要望しているのかを掴みきれず、きめ細かい支援活動(支援物資の提供や要望とのマッチング)が出来ないこと。ひどい場合は、遠くからはるばる届けてくれた支援物資を断ることさえ起こっているということでした。その点、地元の支援組織は、必要なものを把握し、素早く集めて提供できます。
これは、3.11直後の池田町や女川町での行政の対応を通して痛切に感じたことでもありました。行政は決して手をこまねいているわけではありませんが、行政の論理で動くために、住民の要求に弾力的に、臨機応変に対応できません。
その点、行政と住民組織がそれぞれの役割をしっかり果たしつつ、相互の乗り入れを柔軟にやれば、現在よりももっと弾力的な支援活動ができるはずなのです。
第2。ボランティアの受け入れや配置などは、どこでも社会福祉協議会がその中心になっています。穂保地区でも例外ではなく、やや広い老人福祉施設の敷地にテントがしつらえてあり、スコップや一輪車などの道具類とともに、支援物資の受け入れも行っていました。
脇にはトラックで運ぶような簡易トイレが5基と、簡易トイレともいえないようなカーテンで仕切っただけのようなトイレが2基。聞くと役場から配られたのが、そのひどい方のトイレだといいます。
水はⅠ本のホースで水道から引いているだけで、蛇口もなく全く不便。2か月たってもこの状態ですから、お粗末きわまりない。
県都長野市の被災地支援場所としては、いかにも貧困で、一体行政は何を準備していたのかと思わずにはいられませんでした。
現在もりんご園などの泥を掻き出したり、家々の掃除をしたりという要望は多く、それらはもっばらボランティアの役割になっています。そのことはやむを得ないとしても、行政が全国から集まるボランティアをどう受け入れ、どう対応するかは死活的に重要なことであって、テント、机、椅子、トイレ・簡易水道設備などの衛生設備、休憩所などは十分に用意すべきことです。
第3。現地で支援にあたる組織があるかないかでは、救援体制に雲泥の差ができるということ。3.11直後の東北地方では、町がほとんどまるごと破壊されましたから、現地で救援にあたるような組織は不可能でした。それでも、女川では高野さんのような議員が自ら被災者でありながら、私たちと住民の架け橋になり現地の要望を伝えてくれ、どう行動すればいいのかを示唆してくれました。
長野市の穂保地区では、Oさんを中心とする支援組織が活動を続け、それが行政・ボランティアと住民との架け橋になっているというのは1つの得がたい経験です。この活動から学ぶべきことが沢山あるのではないかと思わされました。いずれゆっくり話を聞く機会を持ちたいと思います。