Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

5月28日(火) 百年の孤独

2024-05-28 16:41:15 | 日記

もったいない話だが、読もうと思って買い求め、結局読まないで「つん読」状態になってしまった本がかなりある。ガブリエル・ガルシア・マルケスの「百年の孤独」もその一冊だ。
昨日27日の信濃毎日新聞の文化欄に、「名著『百年の孤独』が文庫化へ」という記事が載っているのが目に止まった。ん?「百年の孤独」・・・聞いたことがあるなあ・・なんだ、読もうと思ってその昔手に入れたのではなかったか。そのことを完全に忘れていることに気付かされて愕然とした。

本棚を探しまくって奥の方にその一冊をようやく見つけ出して、昨日から読み始めることにした。奥付を見ると、1992年39刷版(初版1972年)を買ったことになっている。当時、なぜこの本を買って読もうと思ったのか全く思い出せないのも情けない。

ところが、読み始めたのはよかったのだけれど、文字の大きさが8ポイント、行間12ポイント、2段組300ページという体裁なので、視力の衰えた我が目では、虫眼鏡でも使わないとほとんど読めない。それでも何とか苦労しながら30ページまで進んだ。WIKIには次のようにある。

ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランを始祖とするブエンディア一族が蜃気楼の村マコンドを創設し、隆盛を迎えながらも、やがて滅亡するまでの100年間を舞台としている。(Wiki)

南米コロンビアでの1828年から100年の何世代にもわたる一族の歴史を連綿と綴っているのだが、
一族衰退・滅亡のきっかけが、玄孫の代に近親結婚禁止の家訓が破られたことだと紹介されていた。
その部分にたどり着くまでにどれほどの時間がかかるか分からないが、ともかくラテン・アメリカの過去の人々の生活や思考に接する文学として読んでおきたいと考えた次第。ちなみに、Netflixが2022年に映画化の権利を獲得しすでに映像化が進んでいるとのことだ(予告編はこちら)。

***

この物語の最初のあたりに、すでに近親結婚による奇形児誕生の話が出てくるので、その部分を読みながら、実は今から70年近くも前の、私の子どもの頃の記憶がよみがえってきてしまった。これまたある家族の現在までの100年に及ぶ歴史の1ページなのではないかと思いながら。

祖母と祖父とがどのようにして結婚したかも分からないのだが、祖母は石川県石川郡一木村(現白山市)の農家の出身。M・徳右衛門、美津の次女として生まれ、大正10年1月29日に富山県西礪波郡鷹巣村のM・與一郎と結婚、翌年4月に石川県石川郡柏野村のF・園(私の母)を養女とする縁組みを届け出ている。昭和19年には、N・清春(私の父)を養子として迎え清春・園の結婚が届け出されている。そしてその2年後には私が生まれたということになる。

問題は、祖母の実家、つまり上に記した石川郡一木村のM家のことだ。私の子供の頃には祖母の親はすでに亡く、実家は長男M・文治郎(祖母の兄)が継いでいた。
この長男が血縁関係の深い結婚をしたために、その子ども達4人(?)がすべて身体に異常のある子として生まれたのだ。祖母が小学生だった私を連れて実家を訪問することがしばしばあり、私の記憶として深く刻まれることとなった。その頃は、なぜ家族がすべて普通とは違う人たちなのか理解は出来ていなかったのだが、恐れを抱くとか違和感を持つとかということは全くなかった。なぜなら、どの子ども達(といっても、長男は30歳を超えていたのだが)も、優しく愉快な人たちで人間的魅力にあふれていた。

長男は、背骨が湾曲し、放送禁止差別用語をあえて使えば、典型的な「せむし」だった。長女、次女は歩くことができず、その当時なら「いざり」と差別されたであろう症状を有していた。
大きな農家は、祖母の兄とその長男が継いで田畑を耕していた。当時は農業機械などはなく馬がその役割を果たしていた。そのため、農家の土間に入るといつも藁の匂いが心地よく届いてきた。長男は鍼灸の資格を持ち、私の目の前でよく誰かの肩や足にツンツンとやっていたし、囲炉裏のまわりで誰かと囲碁も打っていた。あるときは、私に藁で縄を編むことも教えたし、それを使ってわら細工で馬をつくることも教えてくれた。
女性たちは歩けないために部屋からはほとんど出ずに縫い物をしていたが、時折出会うと、独特の美しい声で優しく声を掛けてくれたのが耳に残っている。

私が訪問した時期は戦後10年ほどにしかならない頃であり、農業で生計を維持でき、家族が助け合って生きていける時代だったから、厳しい日々の労働ではあったのだろうが、見た目にも実際にも穏やかで静かな生活が営まれていた時代だったに違いないと思うのだ。
私が中学・高校生になる頃には、訪問することもなくなり消息も年賀状程度にしかならなかったから、その後その一族がどのような生涯を送ったかは全くわからないし、いままで考えたこともなかった。

しかし、今考えてみるに、家族が助け合えないときに至れば、一人一人にどんな運命が待ち構えているか想像するに難くない。その歴史をたどれば、ここにも「100年の孤独」があったということになるのではないか。
昔に戻れるものならあの頃の人たちに会いたい。そして、藁で編んだ丸い敷物の並ぶないろり端に座って、枯れ枝をくべながら、朗らかで穏やかな会話を楽しみたい。更には一族の100年の歴史をたどってみたいと、あらぬ気持ちを抱いてしまうのだ。


5月26日(日) のんびりダラダラ

2024-05-26 20:58:19 | 日記

昨日・今日と農作業の休業日。腰・膝ではなくて右肩にかなり強い痛みがあって、思うように腕が上がらない。昨日だけ休もうと思っていたけれど、今日もあまり改善していないし、午前中は中学生のお勉強もあったので、もう1日のんびりと過ごしました。本当にあちこち支障が発生するものですね。

ただ、明日夕方から天気が悪くなるようなので、午前中はどうしてもサツマイモの植え付けを終えないといけません。植え付け自体は妻がやってくれるはずなので、私はたっぷりの水遣りと、大豆の植える場所の耕耘。これまでの穴掘りなどとは違って、そんなに足腰の負担にはならないでしょうし、短時間で終える予定なので、午後からはまたのんびり過ごす予定。

あまりにのんびりしていると、頭が空っぽになってしまいます。最近は読書などはほとんどせずに映画ばかり観ているのでよけいにダメですね。どこかに支障があると、真面目に何かに集中することができない。勢い安易な娯楽映画などで気を紛らわしてしまいます。
ま、人間ですから、そんなときも必要なのだ・・・と、勝手に納得。


5月23日(木) バラ園のバラが見頃に

2024-05-23 21:30:06 | 日記

バラ愛好会が解散した後も有志でバラ園の世話を続けており、開園から数えて、もう十数年続いていることになります。集まる人数は5,6名と少数ですけれど、それでも毎週ほとんど休みなく活動しており、その世話の甲斐あって、今年もきれいな花が咲き始めました。例年からみると一週間ほど早いのですが、花菱草の黄色と相まって、なかなか美しい。
私の役目は環境整備係。園のまわりは空き地で草が生い茂っているため、今日も私は草刈りに専念しました。

帰って昼食後は妻と畑へ。今日は、トマトやナスの支柱立て、ネギの土寄せ、大豆や小豆を植える場所の耕耘などの作業を行いました。
その後はわが家の前の土手の草刈り。何れも結構な重労働なので、さすがに疲労困憊。シャワーを浴びると眠気が襲ってきます。
それでも、作業はほぼ終盤にさしかかっているのでやるべき事ははっきりしており、多分、あと2,3日でほぼ全ての作業が終わるところまで到達。
ふう~~~。

下の写真は、2,3日前の夕方の北アルプス。夕焼けがきれいでした。

 


5月22日(水) 野菜の季節に手術?

2024-05-22 22:25:50 | 日記

今日は満月なのか、何だか赤っぽい丸い月がちょっとおぼろになって浮かんでいました。

庭のゴーヤーが、夜の暖かさのせいなのか、急にツルを伸ばし始めましたよ。1ヶ月ほど、全く動きがなかったのでびっくり。畑のインゲンも竿にツルを巻き付け始めました。よく見ると全部左巻き。巻き方も遺伝情報なんですかねえ。どっちでもいいような気がするんだけど。

今日は、午前中は整形外科で診察でした。
前回膝に潤滑油(例えです)を注入して様子見となりましたが、結果はほとんど効果なし。昼はあまり影響はないのに、夜になると痛みが強くなり目が覚めるほどなのです。
理由を聞くと、夜は関節の上下が重力でずれるので、そのために摩擦によって痛みが生じるのではないかというのが医者の説明。半月板が一部損傷して、かつて手術をしたのですが、その部分が「ペラペラ」して擦れているので、その部分を取ってしまうか、または縫合するかいずれかになるのだそうです。

いずれにせよ、手術でよくなるのであれば拒否する理由はなく、7月中旬にお願いすることにしました。1ヶ月前にはMRIなどの検査を行ってそれに備え、妻とともに説明を聞く日程も決めてきました。

***

午後からは畑に出かけて、集めた砂利の始末、キュウリのネット張り、散水などを行いました。
新しい土地での開墾なので、なかなか終わらない。何しろ砂利だらけなので、耕す端から砂利を取り除かないといけません。
残っている作業としては、まだ小さい苗状態のトマトやナスなどの支柱を立てること、カボチャの穴掘り(あと5個ほど)。最後に、小豆などを撒く場所の耕作です。それでようやく夏本番を迎えることができます。
トマトの芽欠き、支柱への紐での固定、ネギの土寄せなど、植えた苗の世話や灌水、雑草の駆除、追肥などは継続的にやっていかなければなりませんが、土を耕し畝を作り・・という重労働に比べれば、大した作業ではありません。ただ、日中の作業では暑いのが問題。

すでにホウレンソウや春菊は相当に大きくなり、キャベツもグリーンボールの方が先に玉になり収穫できます。ブロッコリーやスナップエンドウも食べ頃。
採れ始めるといろんなものが一気に採れ始め、食卓は野菜ばかり。あと一ヶ月もすると、トマト、キュウリ、ナス・・といった夏野菜がどっさり。野菜不足を青汁で・・・などという宣伝とは真逆の生活になっています。

苗や種、肥料、農機具、燃料などを集計し、野菜の量と比べてみる必要があるのかもしれませんが、今年は畑を新たに借りたので結構割高になっていることは間違いない。自分で芽出ししている苗もあるので、全体として、買うよりはもちろん安いことは間違いないのですけれど・・。
新鮮であること、無農薬であること、自分で汗を流して栽培していること・・・などを考えれば、損得の問題ではありませんよね。


5月22日(水) イスラエルはラファ侵攻をやめ停戦に応じよ

2024-05-22 21:43:31 | 日記

旧日本軍が中国華北で、中国共産党が抗日根拠地としていた万里の長城の南北500キロ以上に「無人区」を設定し、そこにあった村を消滅させていった掃討作戦を、中国の人々はあまりの残虐さから「三光作戦」と呼びました。三光とは焼光(焼き尽くし)、殺光(殺し尽くし)、搶光(奪い尽くし)を意味します。日本軍は、これを「燼滅(じんめつ)掃討(燃えかすがなくなるまで徹底的に滅ぼす)作戦」と呼んだといいます。

『日本侵略軍在中国的暴行』(軍事科学院外国軍事研究部編著)によれば、中国側は37~45年の8年に7つの根拠地が受けた被害だけで「318万人が殺され、276万人が連れ去られ、1952万軒の家屋が焼かれ、5745万トンの食料、631万頭の耕作用家畜、4800万頭の豚・羊…が失われた」とされています。(2008年12月3日(水)「しんぶん赤旗」

今日のクローズアップ現代(NHK)「ラファ“大規模侵攻”の行方 ガザ最後の砦はいま」が現地からの映像をもとに告発していたように、ガザ・ラファへの侵攻に着手し始めたイスラエル軍の無差別攻撃は、現代版「三光作戦」と名付けてもいいように思えます。

イスラエルは破壊し尽くしたところを人道エリアと称して、そこへ退避せよと言う。120万人のうち、すでに避難した住民が80万人が達し、国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は「これ以上受け入れは不可能」だといい、その80万人にも飢餓、感染症などが蔓延している。

国際刑事裁判所(ICC)の検察局がネタニヤフ首相に逮捕状を請求したことに、当の本人は「新たな反ユダヤ主義だ」「民主的なイスラエルと殺人者集団であるイスラム組織ハマスの比較には嫌悪感を抱く」(日経5.21)とうそぶく始末。アメリカは武器供与を行わないなどとのポーズをとりつつ、その一方で逮捕状請求に反発し、ICC検察官らに対する制裁措置を検討することを示唆。アメリカの足下を見ながら、ネタニヤフはガザ地区を完全に焦土とし住民を殺し尽くすことに自らの政治生命をかけているのではないかとさえ思える。

アメリカ国内の大学や欧州の大学で広がる学生の抗議行動にわずかながらの光明は見えるものの、国際的には分断の渦に巻き込まれて何ら有効な対応を取り得ない。
日本もまた、アメリカの顔色を覗い、イスラエルとの軍事協力関係を急速に強めてきているわけだから、独自の外交能力はゼロ。

安倍晋三のスピーチライター(「汚染水は完全にブロックされている」は有名)と言われる谷口智彦元内閣官房参与は3日前の産経で「日本が追い求めるべき国益はイスラエルとの交際にある。パレスチナとの間には、ない。ガザ地区にはさらにない」「ユダヤ人の殺戮(さつりく)・陵辱を喜ぶイスラム原理主義組織ハマスは、麻薬売買を続ける犯罪集団より、よほどたちが悪い」とえげつない。
このような人物が、依然として政権関係や大学に巣くっているのですから、救いようがありませんね。