Mooの雑記帳

日々の感想などを書いていきます。

9月26日(月) 安倍晋三国 葬儀場

2022-09-26 18:49:49 | 日記

国民の大多数の反対を押し切って強行される安倍国葬。海外から数多くの弔意が寄せられたことを最大の口実として、国葬に踏み切った岸田首相でしたが、昨日にはカナダの首相も自国の災害対策を理由に欠席。何とも格好の付かない哀れな状態になっています。要するに、この国は海外からそれだけの軽さでしか見られていないということ。そのことに岸田さんも、自民党の幹部の面々も全く気付いていないのだろうなあ。

大体、統一協会と二人三脚の悪事を挙げるまでもなく、数百億円もの血税を無駄にしたアベノマスクの一事をとっても、国葬などやっている場合かとはらわたが煮えくり返る。ミャンマー軍事政権まで国葬に招待しているのですから、まあ節操もへったくれもない。

下は有田芳生さんが紹介した日刊ゲンダイのコラム

自民党幹部の皆さんの無能・堕落ぶりもさることながら、次の事から見えてくるのは、官僚の方々もまた、アベの亡霊に取り憑かれているのか、正常な判断を失ってしまっているようです。

神戸学院大学の上脇博之教授が2020年4月28日以降、厚労省や文科省に対し、アベノマスク事業についての文書の開示を断続的に請求してきましたが、契約内容に関わるメールなどが不開示とされたために、開示を求めた裁判がいま行われています。これがまた面白い。詳しいことはこちらの記事が参考になりますが、それを簡単にまとめると、次のようになる。「逆世界平和統一家庭レンGo君」さんが現在までの顛末を分かりやすく紹介してくれています。

アベマス543億円、使途不明瞭。
政府「見積メール消した」
裁判所「なんで?」
政府「一年で消すことになってる」
裁判所「まだ9ヶ月やで」
政府「職員が自発的に消した」
取引先「うちにあるよー」
政府「うちもやっぱり消してなかったです」

相変わらずですね。
私に言わせれば、国政を私物化し、反国民的、反民主主義的な悪政の限りを尽くしてきたアベ国葬などは、歴史の汚点となるだけです。参考までに、香山リカさん、葬儀場の掲示をみて、故安倍晋三国/葬儀場に見えてしまうとツイートしていました。宜なるかな。

下は、今日のしんぶん赤旗の記事。安倍政治の実像を詳細に告発しています。必読。


9月26日(月) 赤とんぼの大群

2022-09-26 18:09:27 | 日記

ずっと寝付きが悪く、ほとんど眠れない日が続いたために3ヶ月ほど前に医者で睡眠導入剤を処方してもらい、それからずっと服用していました。結構効き目があり、眠れるようにはなったものの、2時間ほどで目が覚め、そのあとは寝たのか寝ていないのか分からないまま朝を迎えて、結局午前中はどんよりとして身体が重たい。
薬が切れたので、今朝早くからかかりつけ医に出かけて、あとしばらく服用することにしました。別に習慣性の薬ではないので、この後は少しずつ薬に頼らないでもいいように努力するつもり。うまくいくかどうか。

***

昨日から秋晴れのよいお天気が続いているので、今日午後からは妻と畑に。まだまだ草との闘いは続いてはいるものの、キャベツ、白菜、ラッキョウは植え終わり、ニンニク、タマネギの畝にはマルチ掛けをして、10月中旬までには植え付けを終える予定。今日は、レタスの苗を植えて虫除けのカバーを掛けて一仕事終わり。少しずつではあるけれど、何とか冬から来年に向けての準備が進行中です。

一休みしていると、稲刈りが終わった田圃の上を秋風に乗って赤とんぼが風上に飛んでいく。だいたいやってくるのは夕方で、その数は「無数」といってもいいくらいのものすごさ。竿という竿には歌通りに止まって一休みしている。一体どこからやってきてどこに向かっていくのか、本当に不思議な光景です。

午前中は厚い雲に隠れて見えなかった北アルプスも、日が沈む頃にはすっかり晴れて全景が浮かび上がって見えます。まだ稲刈りの終わっていない田圃も結構残っているので、あと2,3週間もすれば、いよいよ秋深く、紅葉の季節に入っていくのでしょう。


9月22日(木) 地方自治が試されている

2022-09-22 11:38:30 | 日記

下は今日の各紙の報道。従来、市民タイムス、大糸タイムスはそれぞれ独自の取材で報じていましたが、現在は大糸が市民タイムスに吸収合併されたために、池田町の記事は全く同文になっており、取材元の大糸タイムスのみ掲載しています。

これらの誌面を見る限り、大糸は「不祥事など具体的な問題が浮上していない人事案件の否決は異例」とし、信濃毎日も、「こうした事態を招くような(議会側の)反応は事前になかった」との甕町長の発言を紹介し「異例の不同意」と書いているとおり、いかにも町民には唐突で、過半数の議員が何らかの感情的な反発で否決に回ったような印象を与えています。

ただ、信濃毎日は、不信任の背景には「(副町長)が補佐役の意識に欠け、実質的なかじ取りを担っている」という議員の評価も紹介しており、行政運営における副町長としての姿勢や言動が問題になってきたことを示唆している点は重要です。
今回の議員の評決までには、議員個々が相当に迷い、考え抜いた時間があったことは、私自身よく知っています。決して軽薄な対応ではなく、反対、賛成の立場にかかわらず、それなりに議員としての熟考をもとに行われたことは間違いないことです。

この問題の中で、見落としてはならないのは、地方自治における議会の役割の問題です。全国的に、議会は行政のチェック役というよりは行政の追認機関に陥りがちであり、議会より首長が圧倒的な力を持って自治体運営にあたってきたというのが実情です。
今回の副町長案件の否決は、ある意味で甕町政に対する議会からの不信任の意志表示でもあり、ややぎこちない形ではあれ、ノーの意思を突きつけたという意味は決して小さいものではありません。町長提出の案件については当然「否決」もあり得る。提案者は、それを踏まえて、提案理由を説明しなければならないのです。

「こうした事態を招く事前の反応はなかった、気付かなかった」というのは、町長の表向きの気楽な発言で、もしそれが本心であり事実であるなら、もはや町長の資格はないというべきです。甕町政の言わば番頭役だったわけで、予算編成のための査定から、さまざまな事業の執行まで、実際の実務を仕切ってきた人ですから、どのように振る舞ってきたかを知らないはずはありません。見ていながら、その意味を解していないとすれば、もはや言うべき言葉はありません。

信濃毎日は「副町長不在が町政に与える影響に対し、町議会の責任も問われる」と書いていましたが、それはその通りでしょう。
同時に、議員を送り出しているのは住民の側ですから、住民自身の行政への関心やチェックが必要になります。来年には議員選挙が行われ、すでに病気などで継続できないだろう議員も存在することから、果たして立候補が定数を満たすのかどうか、二元代表制の片方を担うに相応しい地方議会を作り上げられるのかどうかがすぐに問われる。

先日も紹介した例の、議会攻撃「正体不明」ビラのように、議員個々の行状をあげつらって、議員数も1/3削減しろという程度の「反発」からは何も生まれない。生まれないどころか、地方自治を投げ捨てドブに捨ててしまうことになりかねません。

議員個々に対する、事実に基づく節度ある批判はむしろ必要だし、お互いに切磋琢磨して議員としての力量を高めていく力になるでしょう。
まず議会側が、住民の中に入り、意見を聞く努力を重ねることから始めるべきです。気に入らないような批判もあるでしょうが、それを恐れていては何も始まらない。兼ねてから、くどいほど指摘されながら、池田町議会はそれを怠ってきたのです(今年については、やろうとしてコロナの影響でできなかった面がある)。その他の議会改革の課題についても、似たような現状にある。

年数回の住民懇談会、説明会や、テーマを決めての討論会を制度化し、それをフィードバックする努力を2,3年続けるだけで、町の雰囲気は変わるはずです。
議会での一般質問も、町政の問題点に深く切り込むものでなければならないでしょう。単に態度を聞くような質問はやめて、具体的な数字や資料を駆使して行政の実情を明らかにし、政策課題への対応・方針を明らかにさせていかなければならない。
あらかじめ質問を出しておいて、それに対する回答が事務部局で準備され、議会ではそれをお互いに読み上げるだけでは、少しも発展性がない。質問通告が不要だとは思いませんけれど、それから逸脱する質問を遮るような議会運営は改めるべきです。

この事態は、議員にとってだけではなく、住民の側にとっても、地方自治をどう作り上げるのかを試す、大きなきっかけなのです。


9月21日(水) この寒さは異常です

2022-09-21 23:52:31 | 日記

急に寒くなって、いつものTシャツだけでは過ごせないほどです。
急激な気温の変化も、気候変動の1つの現象なんでしょうか。暑い暑いが、2、3日で寒い寒いに変わるのですから。太平洋には、気がかりな雲のかたまりがあり、どうもまた台風に変わるのではないかという、いやな予感が。

妻が東京に出かけるというので、朝安曇野インター近くの高速バス乗り場まで送っていったのはよかったけれど、後から乗り場が松本だったという連絡がありビックリ。何とか、松本までの普通バスに乗ることができて間に合ったらしいが、そそっかしいことこの上ない。

午後からは、畑で作業の続き。4時を過ぎると雲行きも怪しく、寒さも加わって作業半ばで引き上げてきました。その後は自分の好きな料理をつくって、1人でゆっくり。
友人が、収穫したばかりの新米をプレゼントしてくれたので、妻には申し訳ないが、さっそく豆ご飯にしていただきました。真っ白で、つやつやした新米は実にうまい。

***

午前中は、池田町議会の最終日だったので、テレビ中継(ケーブルテレビ)で視聴していました。最終日には、人事の承認案件があり、副町長人事が1つの焦点でした。
町長の提案が賛成4、反対6で否決されるという、町政でもあまりない事態になり、さて、このあと副町長はどうなるのか。
人事案件ですから、質疑・討論はなし。議員個々の判断で賛否を問うだけです。普通は十分に議会とも意見交換も行って、承認されるように努力するものですが、今回は不調だったらしい。

ここ数年の経験からいえば、否決された最も大きな理由は、財政危機の責任にあるのではないかという気がします。ただ、池田町議会では異例の事態だけに、庁内や議会の事情が分からない町民の目にはどのように映るのか。明日の新聞報道が注目されます。


9月20日(火) 現世の問題

2022-09-20 22:52:22 | 日記

昨夜から今朝にかけて、相当雨が降ったようでしたが、朝にはその気配はほとんどなし。午後には畑に出かけて、3時間ほどこれまでの続き(草取りと耕耘)の作業をしました。土が湿っているので、大きな草も割と取りやすいので結構はかどりました。それでも、まだ予定の半分くらい。あと1日は同じような作業をしなければなりません。
草取りが終われば、肥料を撒いて耕運機で耕し、それから畝を作ってマルチがけ。イチゴの苗を早く定植したいので、ここ2、3日はこの作業で追われそうです。

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MNEMOさんが、私の記事について「刺激を受けて」として、一文を載せていらっしゃいました。嬉しいですね。
私はMNEMOさんの考え方は好きですよ。豊かな教養に裏打ちされて、世界をとりまくあらゆる事象に思索を巡らしていらっしゃる姿は、魅力的です。
それはともかく、MNEMOさんの一文に私も「刺激を受けて」、もう少し書いてみようと思います。

MNEMOさんからは、私を唯物論者であり、共産党支持者だと紹介していただいています。全くその通りなので、むしろ有り難いと思いつつ、また自分でもそう言いながら、「唯物」という、何とも即物的で翻訳的な言い方はあまり好きじゃないんですね。唯物論という用語自体がその概念を正確に表してはいないと思っているのですが、今のところは仕方がありませんかね。

人知を超えた”神秘的”な光景や不可思議な現象はいくらでもあり得えます。宇宙の無辺の広がりも、幼い頃から私の心を捉えて放さなかったものの1つです。そのために理系をえらび、一時は本気で宇宙物理を志したことすらあるのです。

また、一方で、朝の北アルプスの美しさや大空の広がり、花々の可憐さを、掛け値無しに素敵だと思う気持ちも人並みに持っています。
人間の価値を認め、人々の繋がりを大切にし、力を合わせて生きることも宗教的信条としてではなく、70年以上生きてきた経験から素直にそう思う。そうした生き方の問題でも、その考え方を私に駆動させるのは、人間として求められる社会的倫理感や道徳観のみです(そう言いつつも、かなり危ういものですけど)。

”私にとって”そうした人間の意識や認識を説明するために万物の創造主は必要ないだけの話です。それらはそれ自体としてあるのであって、イヌやネコにとって外界は外界であるように、人間にとっても同様だと考えているだけです。私の基本的立場はただそれだけですから、改めてそれを「唯物論」というには隔たりがありすぎますね。

地球上に住む多くの民族の中では、宗教が人々の生きる糧となり、力となっていることは事実であり、エリザベス女王の国葬での色濃い宗教色は、まさにその証左でしょう。人々は何の疑問もなくそれを受け入れています。日本の葬式仏教とは雲泥の差です。
私だって「宗教的心情」が全くないわけではありません。今は亡き父母の遺影の前では頭を垂れて手を合わせますものね。孫たちには「ばあちゃんは、天国から見ているのだからね」と脅してさえいるのです。ハルちゃん、天国から戻ってきてくれとさえ思う。

しかし、なのです。イランでのシーア派とスンニ派というように、政治勢力が宗教で分けられ対立することもごく普通ですから、個人のものの見方としての宗教のレベルと集団としての宗派のあり方とは区別して見ないと混乱が生じます。

この点での私の基本的立場は、第二次大戦下でナチスとたたかったヨーロッパの人々の「神を信じるものも信じないものも」の統一戦線の立場。”現世の問題”では手を結ぶことができるし、ともに闘うことにおいてはどんな障害もないというものです。たとえ民族が異なろうと、宗教が異なろうと、宗教を信じまいと、人間としては同等であり同等の権利を持っている。逆に、現世において、思想・信条による差別や偏見については、それをなくするために断固として闘う必要があると思っています。

人間の生き方を考える際に、さまざまな宗教やそれに近い精神的営みから、学ぶべきことは沢山あるはずです。
その学びを血肉にできるかどうかは、自然や社会についての科学的知識と批判的精神にかかっているのではないか。現在の私に言えることは大体そんなところです。
そう言う自分の言葉に近付けるにはまだまだ程遠いものがありますが・・・。

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以下は余談です。

日本共産党も、綱領と規約を認めて活動することを是とするなら、たとえどんな宗教的信条を持っていたとしても党員として認めているのです。日本共産党は、現世での問題について認識が一致さえすれば、一緒に活動できる。私がこの党を支持する1つの理由でもあります。

その昔、このブログでも書いたことがあった気がしていますが、かつてお付き合いしていたある党員(お寺の住職)に、軽い気持ちで「あなたは東か西か?」と聞いたことがありました。富山は浄土真宗王国で本山の本願寺にも西と東があるからです。するとその党員は「オレは左本願寺だ」とかわしていたことを思い出します。仏教徒党員は何人もいましたね。

「あなたは神を信じますか」「キリスト教について学びませんか」などと、ときどき布教に来るグループの皆さんには、「私が神です。うちにはカミさんもいるから間に合っている」と煙に巻いてお引き取り願っているのですけど、別に差別しようとか、論破しようとしているわけではなく、時間がもったいないと思ってそう言っているだけです。
「安保法制についてどう思うか。一緒に反対の行動をしないか」と私から逆に聞いても、怪訝な顔をされるだけなので、当のグループのみなさんは、さぞ、変なヤツだと思ったことでしょうね。