・・・・・・あわぞうの覗き穴・・・・・・

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怪語補検:憲法

2019年02月17日 | つぶやきの壺焼

手をつけたくない困った場面に遭遇する機会は、人間が生きていればかならず巡り会うものです。
手をつけたくなくても、どうにかしなければならないことも起きます。
そんなときにどうするか、判断基準の一つに法律というものが作られています。
法律以外にも判断基準は当然あります。
もし、それがまったくないとすれば、法律に触れなければ何をしてもよいとして、触れないぎりぎりのところで悪事を働くことも、多いばりで認められることになります。

地球上の国ごとに、判断基準の総元締めとされている憲法という重宝なものがあります。
重宝と言ったのは、それが強い制限力をもっていて、政府が、何かをしなければならないとき、大事なことでもせずに済ませるための言い訳道具として、大いに役に立っているということです。
まだあります、憲法を守ろうなどというと、さも崇高な精神のもとでの行いのように聞こえ、それを生活の糧にもできるという、魔法のような効果です。

憲法は文書の形にして示されますが、そんなものは書いておく必要がないと英智を示す国もなかにはあります。

私たちの日本も、百年余り前に、あまりに野放図ではと思われたかどうかはわかりませんが、憲法が定められました。
その後、まきこまれた戦争に負けた形で終わったとき、こう直せ、そうしなければ国民の心のよりどころも生活もなくなるぞと脅され、むりやり憲法の差し替えをさせられました。
着手後ひと月もかからずプレハブのように作られたこの憲法は、奇妙な性格を抱えながら、七十年余りも重宝に扱われてきました。

あらためて前文から読み直してみると、その奇妙さが浮かび上がります。

平和を念願し、理想を深く自覚し、どこの人かはっきりしない諸国民の公正と信義に信頼すると、安全と生存を保持できるだろう、そうしようと決意したというのです。
「決意した」という文面を見れば、これは法律ではなく宣言です。
宣言を判断基準にしたのでは、ご託宣を押し戴いてそれに従うというような、いかにも自律性のない、胸から腹にかけて何かモゾモゾとするような不快感に見舞われるのです。
さて、みなさんはどうお考えでしょうか。

 

 

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