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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

市民劇 関連地図・実在の登場人物生没年比較表

2021-08-15 17:30:00 | 郷土史エピソード



前回、ページ数の関係で、旭川歴史市民劇の本に掲載できなかった原稿(架空の登場人物の裏設定)をアップしましたが、今回も引き続き、同様の資料を見ていただきます。
今回掲載するのは、市民劇の関連地図(郊外・中心部の2種類)と、実在の登場人物の生没年の比較表です。
それではどうぞ!



                   **********



◆市民劇関連地図(郊外)



画像01 市民劇関連地図(郊外)


まずは関連地図(郊外)です。
ベースにしたのは、旭川市が作成した大正15年の市全図です。
その上に、市民劇の関連スポットを書き込んであります。
まず目に付くのは、激しく蛇行し、流路も一定していない川の様子です(このため流域にはおびただしい数の川の中州が存在しています)。
このうち牛朱別川は、昭和5年からの切替工事の前ですので、今より市の中心部よりを流れています。



画像02 市民劇関連地図(郊外)拡大その1


北側の拡大図です。
ここではまず第七師団の敷地の広さが目に付きます。
このうち「第七師団練兵場」と書かれている部分が、今の自衛隊の駐屯地に当たります。
軍の施設はその周りに建ち並んでいます。
劇の中で齋藤史が通ったと語る北鎮小学校は、今と同じ位置にあります。
瀏と史が住んでいた参謀長官舎はその少し南です。
冬の撮影ですが、参考に官舎があったと思われる場所の写真を載せておきます。



画像03 参謀長官舎の跡地と思われる場所


そしてそのさらに南、ヨシオとタケシが通った師範学校も、今の教育大学がある場所と同じところにあります。
佐野文子が廃娼運動のため乗り込んだと語られる中島遊郭は、今の東1〜2条2丁目にありました。



画像04 市民劇関連地図(郊外)拡大その2


南側の拡大図です。
ヨシオとタケシは、オリジナル脚本では師範学校の生徒ですが、上演台本では商業学校に通っているという設定です。
なので、商業学校の位置も表示しておきました。
師範学校も商業学校もゴールデンエイジの直前、それぞれ大正12年と11年の開校です。



画像05 市民劇関連地図(郊外)拡大その3


画像03・04と一部重なりますが、東側の拡大図です。
中心部から師団や師範学校のあった近文地区に行くには、今のロータリーの位置で牛朱別川に架かっていた常盤橋、さらに旭橋を渡る必要があったことがよく分かります。
さらによく見ると、旭橋の下流に新橋ができているのが分かります。
新橋はこの地図が作成された前年、大正14年に誕生しています(その詳細については、近くこのブログでも紹介する予定です)。
常盤橋下流の牛朱別川には、常磐公園に通じる相生橋、そしてさらにその下流の蓬莱橋の2つの橋がありました。
ですので、このうちの蓬莱橋を通って今の新町辺り、さらに新橋を通って近文地区に行くルートも、大正14年以降はあったわけです。



画像06 旭川歴史市民劇の舞台その1


◆市民劇関連地図(中心部)


続いては、中心部の関連地図です。



画像07 市民劇関連地図(郊外)


これも大正末〜昭和初期の地図に、市民劇の関連スポットの位置を書き入れてあります。
駅前から北に延びるのは今の平和通にあたる師団道路(師団通)です。
多くの関連スポットがこの通りの周辺にあることが分かります。



画像08 市民劇関連地図(郊外)拡大その1


北側の拡大図です。
4条通8丁目に、劇の主な舞台であるカフェー・ヤマニがあります。
オープニングで炎上する第一神田館、ヨシオ、タケシが美術展準備のアルバイトをした旭ビルディング百貨店、北修が齋藤瀏、史親子を見かけたと話した北海ホテルは、いずれもヤマニのご近所です。
佐野文子や酒井廣治、高橋北修も街なかの住人ですね。
北海タイムス旭川支局はアクト3に登場した竹内武夫の勤務先です。



画像09 市民劇関連地図(郊外)拡大その2


南側です。
小熊が勤めた旭川新聞社は3条通9丁目にありました。
同じ3条通の6丁目に事務所のある旭粋会は、劇に登場した極粋会のモデルにした団体です。
神田館の大将こと、佐藤市太郎も街なかに住んでいました。



画像10 市民劇関連地図(郊外)拡大その3


東側です。
小熊秀雄は旭川では複数の場所に住みましたが、この地図には、9条通15丁目右8号の借家の位置を示してあります。
昭和3年6月に、小熊が妻子とともに3度目の上京をする直前まで住んでいた家です。
少し前のものですが、この場所のいまの様子を撮影した写真がありますので、掲載しておきます。



画像11 小熊が住んだ住宅があった場所


切替工事前の牛朱別川のほとりにあったこの住宅ですが、以前紹介した小熊の友人、小池栄寿(劇の登場人物でもあります)の手記「小熊秀雄との交友日記」にも度々登場します。


(昭和2年)5月8日。日曜。小熊秀雄氏を初めて九条十五丁目の自宅に訪れる。眼鏡の奥さんにも息子の焔さん(オンリー二歳)にも初めてお目にかかる。十一時半すぎ辞して牛朱別川の堤防に出ると、小熊氏が髪をふり乱して追ってきた。俺の持っていった「白山詩人」を持って来たのだ。(中略)二人は牛朱別川ぶちを鉄橋の向ふまで歩き養鯉場の所から日の出橋に出て堤防を歩きまだ芽を出さぬ天をつくポプラ林を通り、氏の家の前で別れる。(小池栄寿「小熊秀雄との交友日記」より)


手記に出てくるポプラ林。
昔ワタクシが通った常盤中学校(現在の中央中学校)の周辺にもポプラの林がありましたが、同じものかもしれません。



画像12 旭川歴史市民劇の舞台その2


◆実在の登場人物の生没年比較表


最後は、劇に登場する実在の人物の生没年をグラフ化した表です。
人物名の後の()内の数字は、劇に初めて登場したときの年齢です。
また没年の後ろは亡くなったときの満年齢です。



画像13 実在の登場人物の生没年比較表


こうしてみると、やはり小熊(39歳)、今野大力(31歳)、スタルヒン(40歳)という上京組の死亡時の年齢の若さが目立ちます。



画像14 小熊・大力・スタルヒン


これに対し、旭川に残ったり、戻ったりした北修、鈴木政輝、町井八郎らは、いずれも70代後半まで生きています。
特に長寿だったのは前述の小池栄寿ですね。
晩年は本州で暮らしたと聞いていますが、2003年に97歳で亡くなっています。



画像15 小池栄寿


長寿と言えば、劇のヒロイン、齋藤史もそうです。
栄寿没年の前の年に93歳の人生を終えています。
三浦綾子は1999年に亡くなっていますので、市民劇の実在の登場人物のうち2000年代を経験したのは栄寿、史の2人だけです。



画像16 齋藤史・三浦綾子


この比較表、以前、講演の際に、参加者から「こうした資料もあったら良い」と提案をいただいた事を受けて作成しました。
ともに平成の世も生きた齋藤史と三浦綾子がもし対談したとしたら、どんな話になっただろう、などと想像するだけで楽しくなります。




画像17 旭川歴史市民劇の舞台その3


画像18 旭川歴史市民劇の舞台その4


画像19 旭川歴史市民劇の舞台その5


*舞台写真提供 ㈱アイディアサンタ 竹内正樹(でじたるパパ)