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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

追悼 星野由美子さん

2021-02-04 18:00:00 | 郷土史エピソード

1月25日、旭川の劇団「河」の主宰者で、演出家、俳優だった星野由美子さんが亡くなりました。
暮から体調を崩し、入院して治療を受けていました。
回復して、元気な姿を見せてくれると思っていましたが、93年の人生の幕を閉じて旅立たれてしまいました。

ワタクシが星野さんと初めてお目にかかったのは平成27(2015)年。
「河」の軌跡を追う本を書きたいという思いで、話を聞きに自宅に伺いました。
それから1〜2か月に一度はお会いして話をするようになりました。
平成29(2019)年からはワタクシが企画したイベントや講演の場で、さまざまな詩や散文の朗読を披露してもらいました。
また平成28(2016)年以降、星野さんは、「河」の復活公演や、星野さんを慕う若者たちとの舞台作り、ワタクシが総合プロデューサーをつとめる旭川歴史市民劇への参加など、さまざまな活動を行っていました。
このうち市民劇では、去年2月の予告編(プレ公演)で、主要な登場人物である画家、高橋北修の娘、星野由美子本人役を車イス姿で演じました。
しかし、これが最後の舞台となりました。
今回は、生涯現役の舞台人であり続けた星野さんの歩みを改めて振り返り、追悼としたいと思います。



画像1 最後の舞台となった市民劇プレ公演での星野由美子さん(去年2月・旭川市民文化会館小ホール)


                   **********


◆北修の娘


星野由美子さんは、昭和2(1927)年12月7日、画家、高橋北修の長女として旭川で生まれました。
このブログではおなじみですが、北修は、旭川生まれでは初めて帝展に入選した画家。旭川時代の詩人、小熊秀雄とは友人でした。
女学校を卒業後、小学校の代用教員をしていた星野さんは、終戦を期に、幼稚園で働き始めます。
その後、たまたま出場したNHK旭川放送局主催ののど自慢(当時は全国版とは別に、各放送局も独自ののど自慢を行っていました)で優勝、旭川放送局の専属歌手となります。
専属歌手としては、旭川放送局が行うさまざまなイベントに出演しましたが、その一つに当時あった放送劇団とともに地方を回る仕事がありました。
この時、大勢のメンバーが力を合わせて一つの舞台を作る劇団の姿に、星野さんは魅力を感じたそうです。
こうして演劇に興味を持った彼女は、国鉄職員の職場サークルが母体だった「北海劇場」という劇団を経て、昭和34(1959)年、のちに伝説の劇団となる「河」に、創設メンバーとして参加します。



画像2 高橋北修


◆劇団「河」の活動


発足当初の「河」は、北海道学芸大学旭川分校の教授だった和久俊夫さんが主宰者で、演出を担当。オーソドックスなリアリズム演劇を上演していました。しかし1970年代に入ると、病気がちだった和久さんに代わって、星野さんが演出を手掛けるようになります。それとともにレパートリーも、当時の演劇界に新風を吹かせていた小劇場演劇・アングラ演劇系の演目に変わっていきました。



画像3 初期の「河」の舞台(「夜の来訪者」1963年・旭川市公会堂)


中心となったのは、「現代人劇場」を舞台に、演出家、蜷川幸雄さんとのコンビで次々と話題作を世に放っていた清水邦夫さん、そして「状況劇場」を率いてアングラの旗手と称された唐十郎さんの作品です。
このうち清水作品は、昭和47(1972)年の「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」から始まって、「河」が活動を停止する昭和61(1986)年まで、数多く上演され、劇団を代表する演目となりました。
背景には、「河」が初めて清水作品に挑んだ際、旭川で育った劇作家、演出家の遠藤啄郎さんの仲介で作者自らが助言に訪れ、以来長きに渡り、深い関係が築かれたことがあります。



画像4 「鴉よ、おれたちは弾丸をこめる」の舞台(1972年・旭川市公会堂)


昭和51(1976)年には、上演予定だった劇団の空中分解で宙に浮いていた清水さんの新作「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」を、「河」が清水さん本人の演出で初演するという出来事もありました。
星野さん率いる「河」の舞台を、清水さんが高く評価していたことが裏付けるエピソードです。



画像5 「幻に心もそぞろ狂おしのわれら将門」の舞台(右が星野さん・1976年・旭川市民文化会館小ホール)


◆演出家として


このように、当時、中央の演劇人にも注目されていた「河」の圧倒的な熱量の舞台は、多くの作品で演出を担った星野さんの厳しい姿勢を抜きに語ることはできません。
激しい稽古で知られる蜷川幸雄さんにちなみ、「女蜷川」という異名が付けられた星野さんの演出は、とことんまで俳優を追い込むことが特徴です。それは、自分自身をさらけ出してはじめて、他者に何かを伝えることができると彼女が信じているからでした。
星野さんは、当時のワタクシの取材に、「声が良いわけもなく、容姿が優れているわけでもなく、演技も下手くそだった私達が、お金をもらって観客に見せることができるのはなにか。それは魂の根底から絞り出す自分自身しかないと思っていた」と話していました。



画像6 稽古場での星野由美子さん(1975年)


◆俳優として


一方、俳優としての星野さんも、やはり熱量あふれる役者でした。代表作をあげるとすると2つ。
一つは、昭和40年代から50年代にかけて上演された唐十郎作の「二都物語」のヒロイン、リーランです。
昭和49(1974)年には、常磐公園を舞台に野外公演が行われ、クライマックス、星野さん演じるリーランは、公園の池の中を、ずぶぬれの男優4人がかついだ戸板に乗って闇の中に消えていきました。



画像7 「二都物語」での星野さん(1973年・アサヒビル)


もう一つは、日本でもっとも数多く上演されているという清水邦夫作の「楽屋」です。4人の女優が登場するこの芝居で、星野さんはベテラン女優である女優Cを演じました。「河」による「楽屋」は、昭和50年代、道内各地で20回以上上演され、観客を魅了しました。
この「河」の「楽屋」について、「河」と交流のあった詩人の吉増剛造さんは次のように書いています。


 女優の亡霊あるいは怨霊の声が幾重にも重層化され、やがて舞台という虚構の場が不思議なよじれをみせはじめる芝居である。出演は四人の女優。チェーホフの「三人姉妹」、シェイクスピアの「マクベス」の台詞が奈落の亡霊のような影二人、それに加わってゆくもう一人の影、彼女たちの台詞となって、速射砲のようにくりだされてくる。(中略)
 その声もしぐさも舞台の底へ底へと、引きこまれてゆく。おそらく演じていた四人の女優さんにも、あるいはこの劇をみに集まった四十人ほどの観客にもみえないもののかたちが、あらわれようとしていたのだろう。
(「雪の旭川で見た劇団「河」」より・1978年)




画像8 「楽屋」での星野さん(左から2人目・旭川「河原館」)


◆「河」復活公演


そんな「河」の活動も、さまざまな要因で劇団員が減少したことから、昭和61(1986)年の公演を最後に、休止状態に入ります。
その長い眠りを破ったのは平成29(2017)年。元劇団員と呼びかけに応じた若者たちが集まり、31年ぶりの復活公演「詩と劇に架橋する13章」が上演されました。星野さんもアドバイザーとして舞台づくりに力を注ぎ、自ら舞台にも立ちました。



画像9 復活公演の稽古(2017年)


◆若手との舞台


さらに翌年には、復活公演の参加メンバーのうち、星野さんを慕う若者たちが「河」のレパートリーだった詩人、小熊秀雄の長編詩の群読公演、「劇団『河』✕小熊秀雄 群読『長長秋夜』&『飛ぶ橇』」を企画。星野さんの演出により2作品が披露されました。



画像10 若手公演の舞台より(2018年・まちなかぶんか小屋)


ワタクシは、支援者、協力者の立場で、61〜62年の2つの「河」の公演に関わりましたが、30年近い年月を経て演劇の現場に戻ってきた星野さんは(星野さんは「河」の活動停止後も、数年間は、子ども劇団などの活動を行っていました)、実に生き生きとして見えました。



画像11 通し稽古での星野さん(2018年・まちなかぶんか小屋)


◆朗読活動


61〜62年の2つの公演は、ともに詩を素材にした舞台でした。このうち61年の「詩と劇に架橋する13章」は、様々な現代詩の朗唱や群読をベースに劇的な空間をかたち作るかつての「河」のオリジナル作品で、星野さんは「河」の良き理解者でもあった吉増剛造さんの詩を朗唱しました。
平成31(2019)年から本格化した私と星野さんの朗読の活動は、「詩と劇・・・」の際の朗唱に「凄み」を感じたワタクシが、星野さんに提案したのがきっかけです。



画像12 イベント「『語り』捲くれ!小熊と北修」での筆者と星野さん(2019年・まちなかぶんか小屋)
 

はじめは小熊秀雄の代表作から始まり、小熊が書いたアイヌ伝説や、旭川で小熊とも交流のあった歌人、齋藤史のエッセー、小熊との暮らしを振り返る妻、つね子の手記など、さまざまな作品を、講演会やイベントなどの場で星野さんに披露してもらいました。



画像13 小熊秀雄朗読会での星野さん


◆市民劇への参加


一方、ワタクシの方は、平成30(2018)年から、のちに「旭川歴史市民劇」と名付けられるプロジェクトを立ち上げる行動を始め、星野さんとの活動と並行して、さまざまな根回し、組織づくりに奔走する毎日が始まりました。
星野さんには、地元演劇人のレジェンドとして実行委員会の顧問になっていただくとともに、役者としても舞台に上がっていただくようお願いしました。



画像14 市民劇の稽古に立ち会う星野さん(右端・2019年・スタジオスクラッチ)


星野さんは、車椅子姿で稽古に参加。無事、令和2(2020)年2月のプレ公演の舞台を踏みました。そして本公演でも何らかの形で舞台に関わってもらおうと考えていましたが、それを実現させることはできませんでした。



画像15 旭川歴史市民劇プレ公演のカーテンコール(2020年・旭川市民文化会館小ホール)


◆ありがとう星野さん


ここにはドラマがある。星野さんの朗読を聴く時、いつも感じていたことです。それは長年の俳優経験に裏打ちされているからなのでしょうか。また、やはり長年、舞台の演出に関わってきた感性によるものなのでしょうか。そんな星野さんの朗読を、ワタクシは「劇的朗唱」と名付けました。
「星野由美子 劇的朗唱の世界」と題したイベントを予定していたのは去年3月のことです。朗読の対象を、旭川に関連するいろいろな文学者の作品に広げ、その解説と朗読を聴いてもらう試みです。
しかし新型コロナウイルスの感染拡大で、イベントは中止。若い頃に結核を患い、肺機能が普通の人の半分ほどの星野さんとは、なかなか会うことさえできなくなりました。その間、手紙で星野さんに候補の作品を送り、一人で稽古をしてもらっていました。
さらに星野さんは、三島由紀夫の戯曲「近代能楽集」の「卒塔婆小町」を最後に演じたいという思いを持っていました。
「卒塔婆小町」は能の同名作品を下地にした三島の傑作です。もともとは老婆、そして詩人という2人の登場人物を中心とした舞台ですが、ワタクシが車椅子に乗って演ずる一人語りが主体の台本に脚色、時折2人で本読みをしていました。
新たな「劇的朗唱」を披露できなかったこと、そして星野さんの舞台人としての最後の願いを叶えてあげられなかったことが、心残りです。



画像16 小熊秀雄朗読会での星野さん


星野さんと芝居の話をしたり、朗読の稽古をしたりするのは、本当に楽しい時間でした。
星野さんは、亡くなったワタクシの母とはほぼ同年代で(しかも同じ旭川市立高女卒)、稽古場で車椅子を押しているときなどは、よく「親子みたいですね」と言われました。
ただ、かつて「河」の芝居を見て、演劇の道を志したワタクシにとっては(中途半端な関わり方しかできませんでしたが)、やはり星野さんは飛び抜けた舞台人であり、最後まであこがれの存在でした。
短い期間でしたが、そうしたあこがれの存在と密度の濃い関係を築けたことは、とても幸せでした。
星野さん、本当にありがとうございました。



画像17 劇団「河」展の際のトークショーの様子(2016年・旭川文学資料館)


なお、星野さんのここ数年の活動は、一部が動画や録音などの形で残されています。コロナ禍が落ち着いたら、そうした「遺産」を使い、星野さんを偲ぶ催しを行いたいと思っています。具体化したときは、またこのブログなどでお知らせします。



画像18 ロータリー商店街主催のイベント「古いことは新しい 我ら常盤人」の出演した際の星野さん(2019年・旭川市公会堂)