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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

牧水来訪・手記に見るそれぞれの思い

2020-04-01 14:00:00 | 郷土史エピソード


久しぶりのブログの更新です。
今回、取り上げるのは大正の末年、15年10月の、歌人、若山牧水の旭川来訪です。
牧水の来訪については、このブログでも幾度か書いていますが、今回はそこに関わった3人が、どのような思いを持ったのか、それぞれが書き残した文章から見ていきたいと思います。


                   **********



若山牧水


まずは牧水について。
言わずと知れた国民歌人ですよね。


  幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく

  白鳥はかなしからずや空の青海のあをにも染まずただよふ


この2つの代表作。
牧水についてよく知らないという人でも、なんとなくそらんじることができるという方がいるのではないでしょうか。
牧水は宮崎県生まれで、早稲田大学に進学、23歳で第一歌集を出しました。
酒と旅を愛する歌人として知られ、43歳の若さで亡くなるまで、8000以上の歌を詠んだとされています。



石川啄木


北原白秋



牧水は、同じく国民歌人の石川啄木の友人で、その臨終に立ち会ったことでも知られています。
さらに早稲田時代には、詩・短歌・童謡などに優れた作品を残し「詩聖」と称された北原白秋と同期で、一時は同じ下宿に住んでいました(もちろん啄木と白秋も、同じ歌人として親交がありました)。
ちなみにこの3人、明治〜大正期にいずれも旭川を訪れています。

話が横道に逸れましたね。
牧水の話です。



齋藤瀏


すでに歌人として名前が知られていた牧水が旭川を訪れたのは、大正15年10月のことです。
出迎えたのは、当時、旭川にあった陸軍第七師団の参謀長を務めていた齋藤瀏(りゅう)でした。
人気歌人と軍人、どんな関係があったのか。
実は、瀏は佐々木信綱門下の歌人でもあり、牧水とはわずかですが、東京で面識がありました。
この年の8月、牧水が瀏に宛てた手紙です。


拝啓 先づ斯く突然お驚かし申します失礼を深くお詫び申します。実はおもひがけなきことにて或るお願ひごとを申し上ぐるのであります。今回或る必要に迫られ御地方に於て小生の揮毫品頒布会を催ほすことに相成りました。ところが小生はいまだ北海道を知らず親しく顔を合わせたといふ知人とても一人もありません。ただ僅かに歌の道に携はって居らるる人々をたよってこのことを行はうといふのであります。誠に突然にてあつかましきお願ですからこの無理なる企てに対し御援助下さいませんか。(中略)この催しはまことに苦しき催しにて考へても苦痛ですが、北海道に参りますこととあなたへお目にかかりますことは少なからぬ楽しみであるのです。(中略)たいへん失礼ですが右勝手なるお願のみ申上げました。  
八月八日                          若山牧水
齋藤 瀏 様

(若山牧水全集第12巻収録・「書簡 大正15年・昭和元年」)

 

当時、牧水は歌誌「詩歌時代」を創刊したものの資金難で廃刊となり、借金も抱えていました。
このため歌人仲間を頼って揮毫した色紙や短冊などを売る資金集めの旅行を考えたようです。
別の日の劉への便りにはこうあります。


 揮毫会は、実は一昨年、自分の住みます家を作りますために始め、昨年一杯でどうやらその目的だけは達したのでございました。ところが今年早々から運動を起し、五月に創刊しました「詩歌時代」が非常なる失敗にて負債だけにても数千円に上り「創作」(=明治44年に牧水が創刊した雑誌)の発行にもさしつかうる様な有様になって参りました。種々考へました末、「詩歌時代」をば残念ながら十月号までに廃刊し、その負債返済の一法として、もうこそやらないと思うてゐました揮毫行脚をもう一度企つることになったのです。心当たりの土地をばこの前の時に済ましてゐますので、今度はその目的地を北海道に選びました。

(若山牧水全集第12巻収録・「書簡 大正15年・昭和元年」)




旭川停車場


北海道への旅は、9月下旬から11月下旬までの2か月に及んでいます。
9月21日、上野を発って列車で北上。
青函連絡船に乗り換え、函館に着いたのが9月24日。
その日の夜に札幌に入り、札幌、岩見沢で揮毫会や講演会を開いて旭川に着いたのが10月2日です。
瀏は、旭川では自分の住む官舎に泊まるよう勧めていました。
それに応え、札幌滞在中の牧水が送ってきた手紙について、瀏は「手紙には次のことが認めてあった。是が私に気に入って牧水がなほなほ好きになった」として、その内容を紹介しています。


 なをお言葉に甘え御宅に御厄介になりましてもよろしうございませうか。甚だ厄介なる人間でございますが酒を毎日一升平均いただきます。これは朝大きな徳利のまま小生の側にいただきおきこれを適宣に一日中に配分して頂戴致します。おさかなは香の物かトマト(生のまま塩にてたべます)がありますれば充分でございます。食事の時もたいていさうしたもので結構でございます。可笑しうございますが右申しあげておきます。

 牧水の面目の躍如たるを覚えた。私はなつかしい思で牧水の来旭を待った。

(齋藤瀏「悪童記」より)




第七師団司令部


参謀長官舎での牧水(前列中央)と喜志子(その左)、齋藤瀏(その右)、キク(後列左)、史(後列右)



旭川に着いた翌朝は日曜日。
瀏は、妻のキク、一人娘の史とともに、牧水を散歩に誘います。
牧水に同行している喜志子夫人を加えた5人が向かったのは、官舎に近い春光台でした(当時、齋藤一家が住んでいた参謀長官舎は、今の春光6条4丁目辺りと思われます)。
この3日朝の散策については、のちに史がこう書き残しています。


 わずかの時間を得て、私たちは散歩に出た。官舎町のつづきの、春光台と呼ぶ丘。一日ずつ秋の深まる北海道の、白いすすきの中の道を、例の裾をはしょった牧水と和服の父を先に、喜志子夫人と母と私。片手の上に、紫の山ぶどうと、拾ったどんぐりをのせて、牧水は歩きながら朗詠い出した。若い日の友人、その死の床を見守った石川啄木の「ふるさとの山に向かいて言うことなしー」という歌であった。足元に見つけた一本のきのこを、夫人の掌に載せると、「何というきのこ?」「ぼりぼり、といいます」。その素朴な名前に、私たちは声を合わせて笑った。

(齋藤史「遠景近景」より)




瀏と史


同じ朝についての牧水の回想です。


 五人は柏の林のなかへ随分と深く入っていった。一帯に平らかだが、ところどころにおほらかな窪地があった。其所には柏の代りに種々の潅木が茂り、白膠木(ぬるで)の紅葉が美しかった。それにもまして眼にたつのは、野葡萄の紅葉であった。野葡萄の葉といっても、まず団扇(うちわ)に似た広さを持ってゐるのである。或る窪地からひょっこりと一人の老婆が籠を負うて這い出てきた。見れば野葡萄の黒紫のみずみずしいのを入れている。十銭銀貨を出して所望すると、五人の手に分けてなお余る程であった。
 野は一帯に霜どけの湿りを帯びていた。そして柏の枯れ葉が落ち散り、落葉の間には、どん栗の愛らしいのが散ってゐた。どんぐりの落つる音は、われらが歩いてゐる間にも断えず聞こえてゐた。落葉の上にも落ち、熊笹のうへにも落ちた。すべてがいかにも静かなので、お互ひにあまりものも言わず、ただむきむきにひっそりと歩いてゐた。ひとつは道のわるいせゐもあった。その間にお嬢さんの史子さんがお父さん似の身体をいかにもしなやかにしこなしてぬかるみを避けながら、落葉や枯草の間をぴょいぴょいぴょいぴょいと跳んで歩かるる姿が何とも言へず優しく美しかった。

  枯野原霜どけみちを行く時し君が手のふり美しきかな 

(若山牧水「北海道行脚日記」より)




史が通った北鎮小学校


牧水が史子と呼んでいるのは、瀏が時折そうした呼び方をしていたからと思われます(もともと瀏は「史子」として役所に届け出ましたが、係が間違って「子」を忘れて記載してしまったそうです)。
史は小学校1年から6年までの幼児期も旭川で過ごしました。
なので春光台はいわば遊び場。
ましてこの時の史は17歳、少々の悪路などお手の物だったのでしょう。
生き生きとした姿が目に浮かびます。



春光台から見た第七師団(第七師団西比利亜出征凱旋記念写真帖)


牧水はよほど春光台が気に入ったようで、5日と6日にも早朝一人で訪れています。
6日はあいにくの雨でしたが、5日は、前日見ることができなかった雄大な景観に目を見張っています。


 朝、わたし一人、早く眼が覚めた。こっそり玄関をあけ、未練の残ってゐる春光台に出かけた。朝闇の残ってゐる草原には蟋蟀(こおろぎ)の声が澄んで、親愛なる柏の木の梢には淡い霧が迷うていた。めづらしく歌ごころが湧いて、二首三首と作って歩いてゐるうちに、霧晴れ、日光がさしてきた。そして、一昨日、見ることのできなかった大雪山の大山塊が旭川平野の向こうに見えてきた。思わずも頭を下げたい位ゐの厳かさが、その立ち並んだ高山のいただきからいただきにかけて漂うてゐた。ましてや数日前に降ったであらう新雪がそのいづれにも輝いてゐるのであった。

(若山牧水「北海道行脚日記」より)



旭川の土地っ子にとって、街からのぞむ大雪の山々、ましてや雪のかぶった荘厳な姿は、見慣れていても改めて惚れ惚れしてしまうような美しさです。
それを牧水が眼に焼き付け、文章として残していてくれたことを嬉しく思うのはワタクシだけではないはずです。



大雪の山並み(2020年3月鷹栖町より撮影)


この旅で、牧水は齋藤家に4泊しています。
その間、販売するための揮毫をしたり、市内で講演をしたりしています。
また夜はほぼ毎晩、宴席が設けられました。
その際の牧水の様子を史が書き残しています。
少し長くなりますが、お付き合いを。


 牧水を囲むもよおしは、札幌につづいて旭川はことに好調。講演会、歌会にも多くの人が集まった。このころ、もう牧水の酒は断てないものになっていて、夜も枕元へ一升瓶を置かなければ、安心して眠りに入れない。講演の中途でも酒気が切れてくると調子が落ち、口も鈍くなる。ソレっと土瓶に酒を入れ、お茶に見せたものを演壇に運ぶと、一口舌に乗せただけでたちまち回転が戻り、満場に向かって、「何かご質問はありませんか」と胸を張った。会のあとは、我が家で客たちと飲む。興がのると、立ち上がって朗詠をする。すこしあごを上げ、眼を閉じて、しずかな美しい調子で、自分でも楽しんでうたった。(中略)
 そのような酒の席がいよいよ賑やかになったさい中に、「ちょっと―」と牧水が左右の人々のおしゃべりを押さえた。何事かと話を止めると、「聞いてごらん。いま向こうの方で話をしている齋藤さんの声ね、うつくしい―低くて、美しい声だ―」言われて人々は急にそちらの方に耳をたてた。座敷の末席の方で、他の人々と話していた瀏は、牧水の回りが突然しんとなって、自分の方を見ているのに気付くと、話を中断して、此方を振り向いた。きょとんとしている。「いやいや―」何でもない、と牧水は手を振って見せ、あたりはまた元に戻ったが、そのとき、わたくしは騒がしい酒席にまぎれない牧水の神経を見たような気がした。事実、あまりに一同の調子が上がってくると、いつの間にか、席から消えている。気付いたわたくしが奥の部屋をのぞいてみると、一人であぐらを組んで、銚子ひとつと盃ひとつ、膝の前においてゆっくりと飲んでいるのであった。にこにことしながら少し間の悪そうに。「あのね、ひとやすみ―」ほんとうは、静かなお酒がお好きなのだ―と思ったものである。(中略)
 揮毫は、毛布をのべて、喜志子夫人が助手。墨をすったり紙を運んだりのお手伝いがわたくし。大き目の筆に墨を含ませて、一字ずつ、丸い字を書いてゆくのだが、半さいの時は、まず「あやしき格好をいたします」とことわって、着物の裾を上げ、帯にはさんで、じんじん端折りをする。ラクダ色の木綿のズボン下の膝がたるんで、ぶかぶかしたのが現れるが、―気にしない、気にしない―そのまま紙をまたいで、中腰で書く。「僕の字は、小学生のようで―誰にでも読めます―」などと言いながら。あたたかい、気取り気のない、肉太の卑しくない字が生まれてくるのであった。

(齋藤史「遠景近景」より)




牧水と喜志子


飾らない人柄の牧水と寄り添う喜志子。
2人を迎えるため、揮毫販売の予約を取るなど、あれこれ奔走する人情家の瀏。
そして平日の日中は師団に出てしまう瀏の替わりに夫妻をもてなす史とキク(この時期、瀏は演習が直近に迫っていて、休暇を取ることができない事情がありました)。
短い滞在ではありましたが、5人の気持ちが自然に通じ合ってゆく様子を、残された文章から感じることができます。

その中で、最も重要なエピソードが、牧水が史にかけた言葉です。
齋藤史は、昭和15年に出した第一歌集「魚歌」で新進歌人として注目され、平成14年に93歳で亡くなるまで、日本歌壇のトップランナーであり続けました。
「読売文学賞」、「現代短歌大賞」など数々の文学賞を受賞し、平成5年には女性歌人として初めて日本芸術院会員となっています。



当時の旭川の街並み


春光台への散策の翌日、史と牧水は官舎の縁先にいました。
その言葉は、史が歌を始めるきっかけとなりました。


 このような人柄の牧水に、まじめに、「史子さん、歌をずっとやるつもりは無いんですか、―それはいかん。あなたが歌をやらないというのは、いかんな」と言われると、わたくしは返事に困った。歓迎歌会に出した一首にしても、から手で出てもつまらないと、取りあえず作ったまでのこと、自分の将来も才能も見当さえつかめず、目標もない。しかしこの言葉は、ふしぎと耳の奥にしみついた。今になって思うのである。あの言葉がなかったら、短歌を書いてきたかどうか―と。 

(齋藤史「遠景近景」より)



史は、晩年、旭川を訪れ、このような歌を作っています。


  牧水も来て宿たる家のあと大反魂草(おおはんごんそう)は盛り過ぎたり
                     (歌集「渉りかゆかむ」より)

  さらに十年記憶ずらせばこの道をゆく牧水の後姿(うしろで)も見ゆ 
                      (歌集「秋天瑠璃」より)



齋藤史


牧水は旭川訪問の2年後の昭和3年9月、急性腸胃炎と肝硬変により、43歳の若さで亡くなります。
瀏はその前年、旭川から異動した九州で、牧水と再開しています。


 その後私は旅団長として熊本に転じたが、部下大分連隊の視察のため別府へ宿つた時、牧水が朝鮮旅行から体を痛めて此処に来て居たので、その宿所を訪問した。非常にやつれて居て気の毒な位元気がなかった。面会を断って居た所だが、喜んで逢って機縁機縁と繰り返した。そして牧水の発言で史に宛て寄せ書きのはがきを出した。これが牧水との最後の逢ひであった。そして永訣であった。 

(齋藤瀏「悪童記」より)



旭川訪問の時、牧水は40代とはいえ、人生の最晩年にいたわけです。
後の名歌人の誕生につながった国民的歌人の言葉。
私には、史の感性のうちに才能の煌めきを感じた牧水が、表現者のバトンを受け渡した、そんな気すらしてしまう歴史のエピソードです。





参謀長官舎での5人