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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

日露戦争と旭川・前編

2022-02-20 10:46:24 | 郷土史エピソード



久々の原稿アップです。
今回は、旭川で昨秋から始めた連続歴史講座の準備や開催に加え、ブログネタの仕込みと執筆にもかなりの時間がかかってしまいました。
忘れずに覗いていただき、本当にありがとうございます。

ということで、新たに取り上げるのは日露戦争です。
今回から3回に渡り、旭川や陸軍第七師団との関わりについて見ていきます。
前編は、第七師団の出動と二〇三高地奪取までの旅順攻略戦についてです。



                   **********




画像01 旅順攻略などで使われた28センチ砲(「図説 日露戦争」より)


このブログで扱っているのは、ワタクシの好みもあって、大正から昭和にかけての話が多くなっています。
そんな中、明治、しかも日露戦争を扱うのは、以下のような理由があります。


◆その1…

日露戦争についてのこれまでのワタクシの知識ですが、実は以前熱中した司馬遼太郎の「坂の上の雲(小説とドラマ)」に多く依っていました。
ところが、実態は「坂の上の雲」で描かれたものといろいろと違っているようなんです。
史実に沿って書かれているとはいえ、「坂の上の雲」はやはり小説であること、またその後の歴史的な研究が一段と進んだためです。
なので、一度きちんと正しいところを押さえておきたいと考えました。
これが最大の理由です。

◆その2…

北海道の常備師団だった旭川第七師団は、乃木希典(まれすけ)大将率いる第三軍に途中から加わります。
そして以降、常に最前線で重要な任務を果たしました。
その具体的な動きを確認しておきたいと考えました。
合わせて第七師団の一兵士として従軍したワタクシの祖父が、どのような形で戦闘に関わったのかについても、分かる範囲で確かめたいと思いました。

◆その3…

日露の開戦は、札幌から旭川への第七師団の移駐が完了してわずか1年余りの時期の出来事です。
その後、旭川は国内有数の軍都と称されるようになりますが、部隊を送り出した当時の旭川の街にどのような動きがあったのか、これも押さえておきたいと考えました。



画像02 旅順攻略後、水師営で会見した乃木・ステッセルの両司令官(「図説 日露戦争」より)


画像03 バルチック艦隊の迎撃に向かう連合艦隊(「図説 日露戦争」より)



(日露戦争とは)


ここから本題です。
まず日露戦争とはどんな戦争だったのか、押さえておきたいと思います。



画像04 砲撃する奉天会戦の第三軍(「図説 日露戦争」より)


日露戦争は、明治維新後、近代国家として歩み始めた日本が、日清戦争に続いて戦った対外戦争です。
開戦は明治37(1904)年2月、講和の調印が翌年9月です。
日本が攻勢を保った中での講和でしたが、日本側の死傷者はおよそ12万人、費やした戦費はおよそ15億円の巨額に達しました。

一方、その位置づけについては、さまざまな見方があります。
基本的に日本という国家の存亡をかけた戦いだったという解釈。
韓国および南満州の支配権をめぐる日本とロシアの争いだったとする解釈。
この対立する2つの考えに代表されるようです。

前者は、南下の野望を持つロシア帝国の影響力が満州から朝鮮半島に及べば、やがて日本も危機に瀕することになる。
それに抗するための「祖国防衛」の戦争だったとする見方です。
「坂の上の雲」は、まさにこの立場で描かれています。
後者は、列強各国による帝国主義の時代に遅れて参入した日本が、その代表格であるロシアとの間で行った「朝鮮半島と満州の支配権をめぐる争い」とする見方です。
戦争で被害を受けた立場から見れば、当然このようになりますよね。

ともあれ、日清戦争後のいわゆる三国干渉を機に、日本とロシアは加速度的に緊張を高めていました。
そして国交断絶を通告した2日後の日本による旅順港奇襲攻撃により、戦端が開かれることになります。



画像05 旅順港奇襲攻撃に向かう連合艦隊(「図説 日露戦争」より)


(第七師団の出動)


こうして始まった日露戦争。
開戦以降、日本は陸軍、海軍とも総力戦を繰り広げます。
ただ旭川第七師団への動員命令は半年後の8月、さらに第三軍への編入は11月と大きく遅れます。
それは何故だったのでしょうか。

通常、戦争では、最初から全ての兵力を前線に投入するのではなく、戦況によって追加投入する予備戦力を置くそうです。
第七師団の動員の遅れについて、ワタクシは予備戦力として位置付けられたためと考えていました。
ただ詳しく見ていくと、そうした単純なものではないことが分かりました。
実は開戦直後、北海道がロシアによって攻撃される可能性があったことが背景にあったのです。



画像06 奈古浦丸撃沈を伝える記事(明治37年2月14日・函館新聞)


画像06は日本がロシアに宣戦布告した翌日の2月11日、津軽海峡にいた日本の商船がロシアの軍艦に撃沈されたことを伝える記事です。
実は開戦直後、ロシアの太平洋艦隊の一部は日本海に面したウラジオストックにいて、北海道近海に出動できる体制にあったのです。
これに対し、日本海軍はロシア太平洋艦隊の主力を、彼らが停泊していた遼東半島の旅順港に釘付けにするために全力を注いでいました。



画像07 ウラジオ艦隊の航跡図(児島襄「日露戦争」より)


画像07は戦史研究家で作家でもあった児島襄の大著「日露戦争」に掲載された当時のウラジオ艦隊の一部艦船の航跡図です。
津軽海峡はおろか東京近海にまで進出している様子が分かります。
このように、この時期、津軽海峡などの制海権はロシア側にあったわけです。

2月の商船への攻撃の意図は、あくまで日本の通商航路の妨害と見られます。
ただロシア軍による函館などへの艦砲射撃もありうるのではと、道民の中には動揺が広がったようです。



画像08 函館の状況を伝える記事(明治37年2月16日・北海タイムス)


画像08は当時の新聞記事です。
ロシアの軍艦と函館要塞との間で砲撃戦があったというデマが広がったこと、その結果、函館で住民が動揺し、多くの人が避難の準備を始めたことなどが書かれています。
また同じような状況は小樽でもあり、こちらは実際に札幌方面に避難しようと多くの人が駅に押しかけたと伝えています。

動揺する道民の様子も考えますと、予備兵力とはいえ、第七師団が北海道を離れることができなかったことが分かります。
こうした状況は、日露の新たな海戦の結果、ロシアが津軽海峡などの制海権を失うまで続きました。



画像09 黄海海戦での連合艦隊(「図説 日露戦争」より)


画像09はその海戦の一つ、8月にあった旅順沖の黄海海戦に臨む日本海軍の写真です。
詳しい内容は省きますが、この黄海海戦と、続く蔚山(うるさん)沖海戦でウラジオのロシア艦隊は打撃を受け、結果、北の制海権は日本側に移ります。
このため第七師団の出動がようやく可能となったわけです。

一方、陸の戦いでは、7月から始まった第三軍による旅順要塞の攻略が難航し、膨大な数の戦死者、戦傷者が出ていました。
このため陸軍は第七師団を第三軍に投入することを決め、10月下旬、戦地に派遣します。



画像10 旅順要塞を砲撃する第三軍(「図説 日露戦争」より)


(遼東半島上陸まで)



画像11 第七師団司令部(明治44年「東宮殿下行啓記念」より)


では第七師団の実際の出動の様子はどうだったのでしょうか。
8月の出動命令を受け、第七師団は戦地に赴く野戦師団と、北海道に残る留守師団に分かれます。
このうち野戦師団は、歩兵が12個大隊、騎兵が3個中隊、砲兵6個中隊、工兵3個中隊などの編成でした。
師団長は、そのまま第七師団長である大迫尚敏(なおはる)中将が務めました。



画像12 日露戦争に出征する第七師団(先頭は大迫師団長・旭川市立中央図書館蔵)


第1陣が旭川を発ったのは10月26日。
鉄道で室蘭に向かい、船で青森へ。
そこからまた鉄道に乗り、東京を経由して大阪に入ります。
そこでいったん待機をし、大陸に向かったのは11月13日から16日にかけてです。
そして第1陣が遼東半島の大連に上陸したのは20日。
まもなく全部隊が戦地に入りました。

画像13は、作家の半藤一利さんの「日露戦争史」に掲載された満州軍各軍の上陸地および進軍路です(第七師団の上陸地、進軍路は第三軍の先行部隊と同じ)。



画像13 日本軍の上陸地・進撃路(半藤一利「日露戦争史」より)


画像14 大連到着時の第七師団主力(「第七師団写真帖)より)



そして24日、いよいよ戦いに臨む将兵に大迫師団長は以下のように訓示します。


「顧うに、旅順の攻略は世界の耳目を一新し、我が帝国将来の作戦上至大の関係を有すべきものなり。即ち本師団をして特に此大攻撃に参与せしめらるる所以のものは、之が成功を需(もと)むるに急にして、時運は実に一日を緩うすべからざるを以てなり。是故に軍が我師団の将校下士卒は新来精鋭を以て自ら任じ、一歩も他に譲ることなく、率先健闘多年の教養を現実にし、誓て大勝を期せざるべからず。」


当時、いかに旅順攻略戦の成否が世界的にも注目を集め、日本の運命と直結していたのか。
それを戦いの当事者もよく認識していたことが分かります。



画像15 大迫尚敏師団長(「第七師団写真帖」より)


(旅順攻略)


ではその旅順戦です。
ここでは第七師団との関わりを中心に見ていきます。



画像16 乃木大将と東郷元帥(「図説 日露戦争」より)


日露戦争の序盤において、陸軍は満州と旅順という2つの場所で戦いを繰り広げました。
このうち旅順は、すでに書いたようにロシア太平洋艦隊の主力がいた場所です。
当時、ロシア海軍は、遠く本国からバルチック艦隊を極東に向かわせることにしていました。
日本としては、その到着の前に太平洋艦隊を壊滅する必要がありました。
2つの艦隊を相手に勝てるほどの力は、連合艦隊にはないからです。
このため海軍は、旅順港を守るロシア軍を攻めるよう陸軍に要請しました。
ロシアの守りを突破すれば、港にいる艦隊を殲滅することができるからです。
これが日露戦争の前半の大きな焦点となった旅順攻略の持つ意味です。



画像17 開戦直後の旅順港(「図説 日露戦争」より)


ただ旅順攻略は、思惑通りには行きませんでした。
港を囲う山々に設置されたロシア側の要塞は、20万樽ものセメントを使って作られた極めて堅固なものでした。
さらに要塞には、おびただしい数の重砲や最新鋭の機関銃が配備されていました。
これに対し乃木は8月と10月、2度に渡る歩兵の強襲を中心とした総攻撃をかけます。
もちろん先に重砲による砲撃を加えた上での突進です。
ただ日本の砲弾は壁の厚さが1点3メートルにも及ぶロシアの要塞には大きな打撃を加えることはできませんでした。
このため突進した歩兵はことごとく敵の機銃掃射や地雷、手榴弾などで撃退されてしまいます。



画像18 旅順のロシア軍堡塁要塞の位置図(「図説 日露戦争」より)


画像19 砲台を備えたロシアの要塞(「図説 日露戦争」より)



このうち1回目の総攻撃について、中尉として戦闘に参加した櫻井忠温(ただよし)がのちに書き、世界的なベストセラーとなった「肉弾」には、次のように書かれています。


「(敵の)砲台の上では我が砲弾が愛嬌よく砂煙を揚げているに過ぎなかった。流石の我が重砲、夜山砲、海軍砲を揃えて打っても、砲台のベトン(注=コンクリートのこと)は痛いとも痒いとも思っていなかったようである。守兵はしきりと機関銃の引鉄をいじって、いつでも御出なさいといった風に待っていた。(中略)その死骸は二重三重と重なり、四重五重と積み、ある者は手を敵の銃台にかけて斃れ、ある者は既に乗越えて、敵の砲架を握れるままに死したるあり。(中略)勇壮なるこの突撃隊が、味方の死屍を乗り越え踏み越え、近く敵塁に肉薄して、魚鱗がかりに突き入ると、たちまち敵の機関銃で、攻め寄る者ごとにいちいち撃殺されたため、死屍は数層のなだれをうって、敵塁直下にかくは悲惨なる死骸を積んだのである。」(櫻井忠温「肉弾」より)



画像20 第1回総攻撃の様子(「日露戦役写真帖」より)


この1回目の総攻撃は6日間続き、第三軍は戦死者5039人、戦傷者1万823人というおびただしい数の犠牲を出しました。
また10月の2回目の総攻撃では、工兵を動員して前進のための坑道を掘りましたが、坑道を飛び出した歩兵はやはりロシア側に狙い撃ちにされました。
この時の攻撃は1日のみで中止となりましたが、戦死者は1902人、戦傷者は2738人に上りました。



画像21 「白襷隊」の将兵(「図説 日露戦争」より)


こうした中、新たに第三軍に投入された北海道の第七師団。
乃木は、直後の11月26日に第三回の総攻撃の敢行を決めます。

この攻撃では、第三軍傘下の各師団から選び出された3000人余りの特別予備隊による夜襲部隊が組織されました。
彼らは、暗闇の中で敵味方を識別するために全員が白い襷をかけ、「白襷(しろだすき)隊」と呼ばれました。
第三回総攻撃で、戦地に入って間もない第七師団は、全軍の総予備隊とされました。
このためワタクシは「白襷隊」への第七師団の参加もなかったものと考えていましたが、実は主力であったことを知りました。



画像22 「白襷隊」の損害(児島襄「日露戦争」より)


これは児島襄の「日露戦争」に載っている「白襷隊」の損害です。
第七師団の4つの歩兵連隊のうち、唯一札幌にあった歩兵第二十五連隊の2つの連隊からの参加者が1565人、全体の半数以上を占めています。
また戦死者、戦傷者も全体も半数を超えています。

この表からも分かる通り、「白襷隊」の攻撃も失敗に終わります。
午後9時前に始まった戦闘では、早々にロシア側が探照灯を利用して要塞に近づく日本兵に銃火を浴びせます。
夜襲部隊はなおも前進を続けますが、目標には至りません。
指揮官(支隊長)である第二旅団長、中村覚中将が重症を負うなど、多数の死傷者を出した結果、未明には退却を始めます。
中村が戦線を離脱した後、指揮官を任された第二十五連隊長の渡辺水哉(みずや)大佐は、撤収後「中村支隊長以下将卒の死傷者算なく、携行の爆薬は已に尽き、如何ともなし難く、遂に攻撃中止命令を発したのである。生きてこの憂いを見たるは、一期の不覚なり」と述べています。

一方、この日の攻撃では、第七師団の残りの3つの連隊も苦戦する他の師団(白襷隊以外)の応援に回る形で前線に投入されました。
結果、第七師団はすべての連隊がこの第3回総攻撃に参加することとなりました。



画像23 児玉源太郎総参謀長(「歩兵第廿八連隊概史」より)


ドラマ「坂の上の雲」では、この後行われる二〇三高地の奪取戦の最中、高橋英樹演ずる児玉源太郎満州軍総参謀長が、品川徹演ずる大迫第七師団長に語りかけるシーンがあります。
児玉が「北海道の兵は強いそうだな」と言いますと、大迫は「さようでございます。強うございました。15000人の兵が1000人になってしまいました」と答えます。
品川さんは旭川出身の道産子。
台詞を語りながら、こみ上げてくるものがあったのではないでしょうか。



画像24 二〇三高地(保坂正康「最強師団の宿命」より)


その二〇三高地の奪取は、第3回総攻撃の後、乃木が自ら打ち出したものです。
二〇三高地は旅順の北にあって港を一望できる位置にありました。
ですから、もともと海軍や東京の大本営には、要塞を攻略せずとも、ここさえ押さえれば旅順艦隊への攻撃は可能であり、優先すべしとの意見がありました(つまり要塞越しに旅順港に砲撃を加えることは、日本の重砲の飛距離から可能であり、あとは二〇三高地からの目視による観測で、砲弾の軌道をコントロールすれば、命中させるのはたやすいということです)。

ただ第三軍の参謀たちはこれに耳を貸さず、あくまで正面突破に固執しました。
しかし3回の総攻撃はいずれも失敗。
それまで参謀が立てる作戦に異議を唱えなかった乃木も、さすがに方針の変更を指示したわけです。



画像25 二〇三高地を攻める第七師団の将兵(「第七師団歩兵第二十五連隊征露記念写真帖」より)


この二〇三高地奪取戦で中心を担ったのが、第七師団の将兵です。
11月29日、第三軍は第七師団を主力とした二〇三高地の新たな攻撃案を決めます。
翌30日、第七師団に東京第一師団の残存部隊を加えた攻撃隊が、二〇三高地に迫ります(第一師団は27日の二〇三高地攻撃で大きな打撃を受けていました)。
この日の攻撃では、まず130門の重砲による砲撃を加えた後、歩兵が突撃。
激しいロシア側の応戦に死傷者が続出しますが、なんとか頂上の一角の占拠に成功します。
ただ占拠した突撃隊はわずか数十人で、後に続くものはおらず孤立無援の状態でした。
このためたちまちロシア軍の反撃にあって奪還を許してしまいます。

実は二〇三高地戦では、27日の第一師団の攻撃でも、頂上の一角の占拠に成功したものの、同様の理由ですぐに失っていました。



画像26 二〇三高地への砲撃(「旭川市街の今昔 街は生きている」より)


これに激怒したのが満州軍総参謀長の児玉です。
12月1日、乃木と会った児玉は、作戦の不備を指摘し、矢継ぎ早に第三軍の参謀たちに変更を指示します。
実はそれぞれの軍の指揮権はあくまで司令官にあり、総参謀長といえども、直接、作戦を指示することはできません。
乃木と児玉の会見は2人だけで行われたため、実際のところははっきりしません。
ただ児玉が乃木に助力を申し出、乃木も一時的に第三軍の参謀に命令することを認めたのは間違いのないことのようです。
児玉と乃木は同じ長州藩出身で、古くからの友人でした。



画像27 日本軍による二〇三高地の攻撃(「第七師団写真帖」より)


このあと4日に再開された二〇三高地奪取戦。
児玉の指示により、以下のような作戦の変更がありました。
それまで他の要塞に向けられていた重砲を移動し、二〇三高地への集中砲撃が
できるようにしたこと。
3つに分けられていた突撃隊を一本にまとめ、一方向から厚く攻撃する体制に変えたこと。
そして高地の占拠に成功した際は、日本軍が持つ最大の重砲、28センチ砲で一昼夜山頂付近を砲撃し、ロシアによる奪還を阻止することです。



画像28 村上正路第二十八連隊長(「第7師団写真帖」より)


4日はまず威力を増した日本軍の砲撃が二〇三高地と周辺のロシア要塞に執拗に加えられ、翌5日朝、歩兵による突撃が始まります。
午前9時、先陣を切ったのは、第七師団歩兵第二十八連隊長である村上正路(まさみち)大佐率いる選抜隊です。
歩兵、工兵の180人がロシア軍の銃火を浴びつつ進撃し、何とか山頂に達したときは50人ほどになっていたそうです。
彼らはロシア軍の反撃に耐え、さらに後続の部隊が後に続きます。
このときの模様を、第七師団司令部編の「師団歴史」はこのように書いています。


「午前九時迄に突撃を準備し、一方には決死隊を四回に分つて二〇三高地西南角に向い突撃せしめ、次で歩兵第二十七連隊の一中隊、歩兵第二十八連隊の二中隊、歩兵第二十五連隊の一小隊、工兵第七大隊の大部を逐次高地上に攀登(はんと)せしめ、(中略)午後二時頃西南角は全く之を占領す。鞍部の敵は頑強に抵抗し、東北角頂も亦敵によりて妨げらる。偶々攻撃隊長の意見具申に依り東北角占領に決したり。此実行は意外に行われ、午後四時頃全く該地を占領せり。続て敵は数回逆襲を企てしも皆之を撃退せり」(「師団歴史」より)


なお余談ですが、このとき頂上にひるがえった二十八連隊の連隊旗は、のちの太平洋戦争のガダルカナルの玉砕戦で、敵の手に渡らぬよう焼かれたことが知られています。



画像29 日本軍奪取後の二〇三高地(半藤一利「日露戦争史」より)


さて、ドラマ「坂の上の雲」では、占拠した二〇三高地にすぐさま砲兵の観測班が有線電話を持って向かい、その観測班から第三軍司令部に連絡が入ります。
受話器を取った児玉総参謀長が「そこから旅順港は見えるか」と問いますと、しばらくののち「見えます。丸見えであります」と答えが返ります。
それまでの旅順攻略戦に大きな犠牲があっただけに、ついに目的を達したと感動を呼ぶ場面です。
史実でも、二〇三高地からの観測に基づき、第三軍はただちに28センチ砲による旅順艦隊への攻撃を行います。

ところがこの日露戦争の勝利に大きく貢献したと伝えられてきた二〇三高地の戦い。
実は戦いの前に旅順港のロシア太平洋艦隊の主力はすでに壊滅状態にあったことが、近年の研究で明らかになっています。



画像30 日本の砲撃を受けた旅順港のロシア艦隊(「第七師団写真帖」より)


そのきっかけとなったのが、二〇三高地奪取のはるか前、9月の攻撃での日本軍による海鼠山(なまこやま)の占領でした。
海鼠山は二〇三高地に近い海抜170メートル余りの高地です。
海軍がここに高倍率の望遠鏡を持ち込んだところ、旅順港内の大半を見ることができたというのです。
このため海軍はここに観測所を設け、9月末から海軍陸戦重砲隊、および設置されたばかりの28センチ砲による攻撃を行っていました。



画像31 28センチ砲による砲撃(「図説 日露戦争」より)


この結果、港にいたロシア艦隊の軍艦はいずれも砲撃を受け大破し、沈没こそしなかったもののほぼ廃艦状態になっていたというのです。
しかしそのことを陸軍は知りませんでした。

作家、半藤一利さんは、その著書「日露戦争史」の中で、次のように書いています。


「旅順艦隊が浮かべる鉄屑となっている事実を、日本の大本営も満州軍総司令部も察知することはなかった。あるいは遠くにあるゆえやむを得ないこととしても、第三軍司令部がぜんぜん認識していなかったことは、いまとなると不可思議としかいいようがない。」
「歴史というものは、人間の必死の思いや知能や努力を嗤(わら)うかのように、皮肉な事実を用意するものである。とくり返しかくわけはここにある。この時点で敵艦隊が浮かべる鉄屑になっていたとは!? さらにつづく旅順要塞攻略作戦とはいったい何であったのか。ほとんど言葉を失ってしまう。」(半藤一利(日露戦争史」より)

 

半藤さんの感慨は、至極もっともです。
さらにワタクシは、状況を把握していたはずの海軍からなぜ陸軍に情報が入らなかったのか、と思います。
そもそも旅順攻略が海軍の要請によって始まり、攻撃には前述した海軍陸戦部隊や軍艦による艦砲射撃も加わるなど、陸海が共同で行っていました。
さらに海鼠山の海軍の観測に基づく砲撃には、陸軍の28センチ砲も使われていました。
それなのになぜ、このようなことが起きたのでしょう。
海軍は砲弾を当てたものの、敵艦を壊滅したとは思っていなかったのでしょうか。
不可解の極みです。

北大の前身である札幌農学校の出身で、外交顧問や通訳として第三軍に同行した志賀重昴(しげたか)は、日本軍占拠のあとの二〇三高地の様子について次のように書いています。


「二〇三高地は元来素直なる二子(ふたご)山なりしに、二子の上に幾百の極小なる山が出来て、凹凸の多い醜い山となり、その形を一変した。もっとも初め七日間はこの凹凸も判然と見えたるが、味方の屍の上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、その上に敵の屍が累なり、その上に味方の屍が累なり、敵味方の屍が五重になって赤毛布(げっと)を敷き詰めたる様になり、(中略)味方が山の西南嘴(し)を占領して陣地を作らんとせし時は、土嚢がなくなりたる故、屍を積みに積みて累々と高く胸墻(きょうしょう=壕壁のこと)を築きたるなど、ほとんど小説を読むの感がする」(志賀重昴「日記」より)


旅順攻略戦で、第三軍が投入した兵力は約6万4000人。
戦死者は5052人、戦傷者は1万1884人に達しています。
このうち第七師団の戦死者は2081人、戦傷者は4676人とそれぞれ約4割に及んでいます。
第三軍の主力は、第七のほかは、第一(東京)、第九(金沢)、第十一(善通寺=香川)の各師団でした。
ドラマに出てきた1万5000人が1000人になったというのは、原作の小説にそうした記述があるにしろ誇張に過ぎますが、第七師団の死傷者はやはり突出しています。
一方、旅順攻略戦では、ロシア軍の損害も戦死者615人、戦傷者3837人に及んでいます。

日本側は戦いの途中ですでに作戦の目的を達していることに気づかず、ロシア側もすでに守るものは失っていたなかでなおも続いた皮肉な戦い。
亡くなった多くの魂の悲痛な叫びが聞こえてきそうです。




画像32 双方の戦死者の遺体が散乱する二〇三高地(「図説 日露戦争」より)


画像33 203高地奪取後の七師団の兵士たち(「歩兵第二十五連隊史」より)


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