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写真とコメントで紹介する旭川の郷土史エピソード集

番外・劇作家、清水邦夫さん逝く

2021-04-17 14:30:00 | 郷土史エピソード


劇作家の清水邦夫さんが、15日、他界されました。
演出家、故蜷川幸雄さんとの共同作業や、奥様だった故松本典子さんとの木冬社での活動など、演劇界に果たした功績は大きいものがありますが、劇団「河」とのつながりにより、旭川ともゆかりの深い演劇人でした。



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清水邦夫さんは、新潟県出身で、早稲田大学在学中から、戯曲の創作を始めた方です。
当時の若者の心情を反映した奥行きのあるドラマと、詩情あふれる台詞で、数々の名作を世に出しました。
2016年にワタクシが出版した「河」の軌跡を追った著書の取材では、インタビューをしたいというお願いに対し、「古い友人たちのために協力したいが、病気療養中のため対応は難しい」との丁寧な気持ちを寄せてくれました。
もとより、2014年の松本さんの死去のあとは、ほとんどの活動を停止し、施設に入られて療養に専念していると聞いていましたので、いわばダメ元での依頼でした。
が、思いがけず、代理の方から、清水さんからの伝言という形でメールをいただき、恐縮した想い出があります。



旭川を初めて訪れた際の清水さん(1972年)


清水さんと「河」とのつながりは、1972(昭和47)年、「河」が清水作品である「鴉よ、おれたちは弾丸(たま)をこめる」を上演した際、旭川育ちの劇作家、演出家の遠藤啄郎さんの仲立ちで、旭川を訪問し、アドバイスをしたのが始まりです。



「鴉よ・・・」の稽古で、助言をする清水さん(1972年)


その後も「河」は清水作品の上演を続け、4年後には、劇団の空中分解により上演のあてがなくなっていた清水さんの新作「まぼろしに心もそぞろ狂おしのわれら将門」を作者本人の演出で初演しています。
清水さんとはお目にかかる機会はありませんでしたが、「河」の主催者であった星野由美子さんからは、その人となりについて、さまざまな事を伺いました。
あれだけの実績を残した方なのに、物静かで謙虚。
でもお芝居にかける情熱はとびきり熱いものがあった。
そんなイメージがワタクシの中にはあります。



「河」による「・・・将門」の舞台①(1976年)


「河」による「・・・将門」の舞台②(1976年)



去年、今年と、若い頃から敬意を持っていた演劇人や、交流のあった演劇人が相次いで他界され、寂しい思いをしています。
93歳だった星野由美子さん(1月)、「河」のメンバーだった松井哲朗さん(去年2月)、清水さんと「河」を結びつけた横浜ボートシアターの遠藤啄郎さん(去年2月)、ワタクシがもっとも影響を受けた劇作家、別役実さん(去年3月)。

星野さんは、清水さんが蜷川さんとともに「櫻社」という劇団を結成していた時、稽古に立ち会ったことがありました。
厳しい稽古で知られる星野さんも驚くような、緊張感あふれる稽古場だったそうですが、その中心にいた4人のうち、蜷川さん、清水さん、蟹江敬三さん(2014年死去)は他界され、残るは石橋蓮司さんのみとなっています。

改めて、他界された方々のご冥福を祈りたいと思います。




「河」の公演でカーテンコールに登場した清水さん(1979年)