成毛滋(なるも・しげる)さんが亡くなった。
3月29日、死因は大腸がん。
60歳。東京都出身。
60~70年代にロック界で活躍し、つのだひろ、高中正義らと共演。
多くの後進を育てた成毛さん。
来日バンドと同じステージに上がる事を厭わなかったという点では、
モップスのヒロミツさんと同じだったなぁ。
70年代フリー来日の音源を聴くと、オープニングで司会がフリーを
紹介するとともに「フリーの後には成毛滋バンドも登場しますので、
皆さん、お楽しみに」とか名前が出てきて
その時の観衆のリアクションが良くて、「ああ、成毛さんって人気が
あったんだなぁ」と妙な感慨を覚えたものだが。
もちろん、残された公式音源の少なさから、成毛さんの演奏を聴いたのは
随分後だったし、国内ロックは余り聴いていなかったから、熱心な成毛
フリークってワケじゃなかった私ゆえに
アルバム「Dr.シーゲルのフライドエッグ・マシーン」
「地球に大烏が降りてきた日」聴いても、
「才能のとっ散らかった人だなぁ~」くらいしか思わなかった・・・。
※ELPのパロディ「桶貸す」があったり、角田ヒロが歌う「メリー・
ジェーン」が収録されてたりで「寄せ集め」感も凄かったし・・・
リアルタイムの70年代ロック人から聴いた話では
「ブリジストンの創設者の故・石橋会長の御曹司」(副社長の息子って話も)
「ボンボンだったから、日本で初めてマーシャル買った」
「とにかく、海外バンド並のPA持ってた」
※だから「10円コンサート」とか主催できたんだろうなぁ
「1969年のウッドストックを見に行った」
「でもジミヘンの生演奏の前に帰っちゃった」
「当時のロンドンにも音楽留学した」
「シンセにも早くから目を付けて、シンセ・インストもこなしてた」
・・・などなどの「伝説」も耳にした。
そして、少し前たまたま見つけた以下のサイトで
「凄い人だったんだなぁ・・・」と遅まきながら分かった次第。
Dr.Siegel's Archives/成毛滋のレア音源
http://www.ne.jp/asahi/chelseas/terrace/DSA/menu.html
海外情報が手に入らない時代、リスナーにロックを伝え、演奏法から
教えてくれた人だったんですね。
手が小さかった成毛さん、日本人にも弾きこなせるようにネックの細い
ギターを国産メーカーのグレコと共同製作、ステージで高価なギブソンと
弾き比べ、「安くて良いギター」を普及させたとか。
※後にグレコが高価版に商法を移行させて決裂
大手プロのバンドの所属プロダクションから「成毛滋が出演するならウチの
バンドは出演させない」とコンサートから閉め出され、音楽業界から干され
てしまったとか。
ムーグ・シンセの登場当時、多重録音で編集し「ライヴでは絶対に再現不能」
といわれた冨田勲氏の音を「じゃあ、コンサートで演ってやる!」と実演した
とか・・・。
YMOが流行った当時には
レコード会社から「あんなシンセ・インストやろうよ」と言われたものの、
クラシック曲の楽器音を機械分析して「タンホイザー」を再現しちゃって、
ピコピコ音を期待したレコ社から「こんな本格的なの使えないよ~」と
ボツにされたとか(後に佐川急便のCMで日の目を見た、あの曲)・・・。
景山民夫ちゃんと学生時代から交流あり、コントや放送作家みたいな事も
やってたとか
落語も上手かったとか(90年代のTV企画「ロック爆笑族」で職人姿で
薄くなった頭髪にてギターを弾きまくり、審査員一同「な、成毛さん・・・」と
絶句させてたもんなぁ)
ラジオのギター教室番組でメタル系のテクニックも披露。
楽器会社のギタークリニックでも海外アーティストと共演したり
※普通のオッサンが弾きまくるから、相手もビックリしたろなぁ・・・。
エピソードには事欠かない面白い人でもありました。
好事家の私は、このテの人、大好きです!!
――ただ見切りの早かった人って気もする。
一時期シンセに乗り換えた時も日本の音楽界に否定的なコト仰ってたし。
「日本人にロックのリズムは無理だから。オレ、ロンドンとか行って
痛感したもん」
「テツ(山内)は、あっちでベースになったヤツだからビート感も何とか
イケるけど、日本で生まれ育った奴は、やっぱリズムが・・・」などと
かなり否定的な言葉を「ニュー・ニュージックマガジン」で述べられてて
それを後に古本で読んだ私は
「感覚良過ぎる人って大変だ。やっぱ売れるには鈍感でなくっちゃなぁ~」
「こんなコト言っちゃ、日本の音楽業界から嫌われるよ~」みたいな事を
思ったのものでしたが・・・。
最近は、腱鞘炎でギターが弾けない状況だった・・・なんて噂は聴いていたが
まさか、亡くなってしまうとは・・・。
誠に残念。日本のロック創生期に現れたユニークな鬼才、成毛滋さん。
心より、ご冥福をお祈り致します。
寂しいなぁ・・・・。
3月29日、死因は大腸がん。
60歳。東京都出身。
60~70年代にロック界で活躍し、つのだひろ、高中正義らと共演。
多くの後進を育てた成毛さん。
来日バンドと同じステージに上がる事を厭わなかったという点では、
モップスのヒロミツさんと同じだったなぁ。
70年代フリー来日の音源を聴くと、オープニングで司会がフリーを
紹介するとともに「フリーの後には成毛滋バンドも登場しますので、
皆さん、お楽しみに」とか名前が出てきて
その時の観衆のリアクションが良くて、「ああ、成毛さんって人気が
あったんだなぁ」と妙な感慨を覚えたものだが。
もちろん、残された公式音源の少なさから、成毛さんの演奏を聴いたのは
随分後だったし、国内ロックは余り聴いていなかったから、熱心な成毛
フリークってワケじゃなかった私ゆえに
アルバム「Dr.シーゲルのフライドエッグ・マシーン」
「地球に大烏が降りてきた日」聴いても、
「才能のとっ散らかった人だなぁ~」くらいしか思わなかった・・・。
※ELPのパロディ「桶貸す」があったり、角田ヒロが歌う「メリー・
ジェーン」が収録されてたりで「寄せ集め」感も凄かったし・・・
リアルタイムの70年代ロック人から聴いた話では
「ブリジストンの創設者の故・石橋会長の御曹司」(副社長の息子って話も)
「ボンボンだったから、日本で初めてマーシャル買った」
「とにかく、海外バンド並のPA持ってた」
※だから「10円コンサート」とか主催できたんだろうなぁ
「1969年のウッドストックを見に行った」
「でもジミヘンの生演奏の前に帰っちゃった」
「当時のロンドンにも音楽留学した」
「シンセにも早くから目を付けて、シンセ・インストもこなしてた」
・・・などなどの「伝説」も耳にした。
そして、少し前たまたま見つけた以下のサイトで
「凄い人だったんだなぁ・・・」と遅まきながら分かった次第。
Dr.Siegel's Archives/成毛滋のレア音源
http://www.ne.jp/asahi/chelseas/terrace/DSA/menu.html
海外情報が手に入らない時代、リスナーにロックを伝え、演奏法から
教えてくれた人だったんですね。
手が小さかった成毛さん、日本人にも弾きこなせるようにネックの細い
ギターを国産メーカーのグレコと共同製作、ステージで高価なギブソンと
弾き比べ、「安くて良いギター」を普及させたとか。
※後にグレコが高価版に商法を移行させて決裂
大手プロのバンドの所属プロダクションから「成毛滋が出演するならウチの
バンドは出演させない」とコンサートから閉め出され、音楽業界から干され
てしまったとか。
ムーグ・シンセの登場当時、多重録音で編集し「ライヴでは絶対に再現不能」
といわれた冨田勲氏の音を「じゃあ、コンサートで演ってやる!」と実演した
とか・・・。
YMOが流行った当時には
レコード会社から「あんなシンセ・インストやろうよ」と言われたものの、
クラシック曲の楽器音を機械分析して「タンホイザー」を再現しちゃって、
ピコピコ音を期待したレコ社から「こんな本格的なの使えないよ~」と
ボツにされたとか(後に佐川急便のCMで日の目を見た、あの曲)・・・。
景山民夫ちゃんと学生時代から交流あり、コントや放送作家みたいな事も
やってたとか
落語も上手かったとか(90年代のTV企画「ロック爆笑族」で職人姿で
薄くなった頭髪にてギターを弾きまくり、審査員一同「な、成毛さん・・・」と
絶句させてたもんなぁ)
ラジオのギター教室番組でメタル系のテクニックも披露。
楽器会社のギタークリニックでも海外アーティストと共演したり
※普通のオッサンが弾きまくるから、相手もビックリしたろなぁ・・・。
エピソードには事欠かない面白い人でもありました。
好事家の私は、このテの人、大好きです!!
――ただ見切りの早かった人って気もする。
一時期シンセに乗り換えた時も日本の音楽界に否定的なコト仰ってたし。
「日本人にロックのリズムは無理だから。オレ、ロンドンとか行って
痛感したもん」
「テツ(山内)は、あっちでベースになったヤツだからビート感も何とか
イケるけど、日本で生まれ育った奴は、やっぱリズムが・・・」などと
かなり否定的な言葉を「ニュー・ニュージックマガジン」で述べられてて
それを後に古本で読んだ私は
「感覚良過ぎる人って大変だ。やっぱ売れるには鈍感でなくっちゃなぁ~」
「こんなコト言っちゃ、日本の音楽業界から嫌われるよ~」みたいな事を
思ったのものでしたが・・・。
最近は、腱鞘炎でギターが弾けない状況だった・・・なんて噂は聴いていたが
まさか、亡くなってしまうとは・・・。
誠に残念。日本のロック創生期に現れたユニークな鬼才、成毛滋さん。
心より、ご冥福をお祈り致します。
寂しいなぁ・・・・。