京都楽蜂庵日記

ミニ里山の観察記録

方丈記と京都の災害リスク

2017年10月07日 | 日記

『方丈記』と京都の災害リスク

  京都糺の森、下鴨神社のそばに河合神社がある。そこには鴨長明(1155-1216)が住んでいた「方丈の庵」が復元されている。これは一丈(約3メートル)四方の組み立て式茅葺小屋で、長明はそこで和歌を作り、琴や琵琶を楽しんでくらしていた (写真1. 2)。

 

 

(写真1)

 長明の著『方丈記』の書き出しである「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみにうかぶうたかたはかつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人と栖(すみか)と又かくのごとし」は、無常観を表したものとして有名だが、この無常観の背景には、長明が二十代から三十代にかけて経験した様々な災害がある。『方丈記』はそれを子細に描いた災害文学と言われている。

  『方丈記』に記された災厄とは「安元の大火」「治承の辻風」「福原遷都」「養和の飢饉」と「元暦の大地震」の五大災害の事である。この中で福原遷都だけは平清盛による暴挙で、一種の人災だが、この時は、家屋や屋敷が次々と解体され材木を淀川に流して福原に運んだので、京都の町は打ち壊しにあったように殺伐たる景観だったそうだ。

「安元の大火」の原因は人為的な失火によるが、たまたま強風が吹き荒れたために、都の三分の一が灰になったと書かれている。「治承の辻風」は、想像し難い事に京都で巨大な竜巻が発生し、三、四町をすさまじい勢いでとうり過ぎ、楼門や屋敷を含めて大小を問わず家屋を倒壊したという。「養和の飢饉」は養和元年から翌年にかけて日照りや洪水なので天候異変が起こり、たいへんな飢饉が起こったものである。現代のように冷蔵設備による食料の備蓄ができなかった時代の事だから、天候不順が続けばたちまち深刻な飢饉が起こった。

   これらの災厄は、当時の都の人々にとって、恐るべき試練であっただろうが、それにも増して元暦2年(1185年)の大地震(なゐ)は驚天動地の出来事であった。この地震は現代の暦で言うと、8月の中旬に起こり、平家が滅びた壇ノ浦の合戦の約四カ月後の事である。長明は、それを新聞の報道記事のようにリアルに記述している。

 おびただしき大地震(おおなゐ)ふること侍りき。そのさま世の常ならず。山崩れて、川を埋み、海はかたぶきて、陸地をひたせり。土さけて、水湧き出で、巖割れて、谷にまろび入る。都の邊には、在々所々、堂舍塔廟、一つとして全からず。或は崩れ、或は倒れぬ。塵・灰立ち上りて、盛んなる煙の如し。地の動き、家の破るゝ音、雷に異ならず。家の中に居れば、忽ちにひしげなんとす。走り出づれば、地割れ裂く。おそれの中に、おそるべかりけるは、たゞ地震なりけりとこそ覺え侍りしか。

  まさに 最近の様々な震災で目撃したままの光景がえがかれている。さらに長明は、地震のあとの余震についてもたいへん正確に書き残している。この地震の震源については、琵琶湖西岸断層帯南部説と南海トラフ巨大地震説があるようだ。

 尾池和夫先生の本などによると、京都はもともと地震で出来た盆地で、歴史的にも震源の浅い大きな地震が多発するところのようである。最近は大きな地震が少ないので、これは意外に思うが、この地の大地震は、1185年の元暦地震以降、1317年、1449年に発生し、1596年には「慶長伏見地震」で、豊臣秀吉が築いた伏見城の天守閣が大破し約600人が圧死するなどした。そして、1662年、1830年と続くが、以後180年以上、大地震は起きていない。東山沿いに花折断層という有数な断層が走っている。

 

(写真2)

 「天災は忘れた頃にやってくる」というから、油断する事なくそれなりの準備が必要であろう。鴨長明の「方丈の庵」は、いかなる災害をもやり過ごせる究極の防護ハウスだったかも知れない (楽蜂)。

    

 

 

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