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   ある日のできごと、心の呟き、よしなしごとetc

20191110 湊川隧道通り抜け

2019年11月13日 | 

2019年11月10日、土木の日(11月12日)のイベントとして「新湊川ウォーク~湊川隧道通り抜け~」が開催されました。

年に一度だけ隧道内部の通り抜けができる日です。

 

湊川隧道通り抜けの情報を初めて知ったのは数か月前。

「神戸にそんなところがあるのかぁ、通り抜け、一度行ってみたいなぁ」と思いました。

 

2019年11月10日は良い天気でした。

神戸電鉄湊川駅から750メートルほど(約12分)歩いて、湊川隧道の受付・入口に到着したのは10時過ぎでした。

たくさんの人が訪れているのに驚きました。湊川隧道は人気スポットのようです。

 湊川隧道は、現在の新湊川トンネルの直ぐ隣りに位置し、会下山(えげやま)の下を貫通しています。

早速トンネルに入りました。

壁の展示物を見て、湊川隧道のことをいろいろ学びました。

 

 

  

湊川隧道                                    新湊川トンネル 

内 空 幅:7.3m  内 空 高:7.6m  内空断面積:45㎡           内空断面積:105㎡

 

 

かなり下って奥へ進みます  

 

コンサートのための椅子でしょうか  

 

 

 

この辺りは板張りの上を歩きます  

 

イギリス積みのレンガ   レンガの下は花崗岩

 

上の方のレンガは長手積み  

 

 

この辺りからは一列で歩きます  

 

 

         

 

隧道の終点が見えてきました   

 

          

 

階段を上がります  

 

この階段を降りると、新湊川トンネルとの合流地点です  

 

                

 

トンネルの外へ  

 

                 

 

振り返ると、門には「天長地久」の扁額  

 

 

                 

  

                          

 ここから上に上がるようです    赤い橋は長田橋です

ゴールでアンケートを書いて、「みなとがわずいどう」せんべいをいただきました。

みなとがわずいどう  明治34年(1901)完成  

 

 

レンガ造りの「湊川隧道」、新しい「新湊川トンネル」、「新湊川」の川辺、いろいろな表情の湊川を楽しませてもらいました。

 

 

 

 

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★「湊川隧道」については、http://minatogawa-zuido.com/about/に詳しく書いてあります。

 

http://minatogawa-zuido.com/about/ より引用

流域面積30km、延長10.6km。兵庫県神戸市を流れる現在の湊川は、再度山北麓に発した天王谷川が菊水橋の上流で石井川と合流した地点をスタートして、すぐ下流の洗心橋付近でその流れを西寄りに変え、会下山の下をトンネルで抜けて長田区の北部から流れてきた苅藻川と合流して大阪湾に注ぎます。

六甲山系の急峻な山から湧き出た水が川の流れとなり、平地をくだって海に注ぐ、のたうつように流路が定まらないもともとの湊川は、この流域に暮らす人々の知恵と努力によって何度も手が入り、治水の工夫がなされて近代に至り、明治34年(1901)、神戸における明治期の大土木工事といわれる「湊川の付け替え」が完了し現在の形となりました。

付け替えがなされる以前、明治の半ば頃までの湊川は、石井川と天王谷川との合流点から南東方向へ、つまり現在の湊川公園を経て新開地を通り、市街地の中心部を貫いて海まで流れていましたが、水尾筋もなく砂が堆積している河原でした。しかし、ひとたび大雨が降ると六甲山から流れ出る土砂とともに氾濫を繰り返し、大きな被害がもたらされてきました。

当時の湊川は上流から押し流された土砂により、堤防の高さが8mにもなる天井川で洪水の危険性が非常に高く、その上、この堤防によって神戸と兵庫の町が分断され、東西交通に支障をきたしていました。

また、湊川から流出する大量の土砂が神戸港に流れ込むため、港の機能が低下することを防ぐ必要も指摘され、明治の初めから付替えの議論がおこなわれていましたが、あまりにも規模の大きな工事になるため容易に実行されませんでした。

ところが、そんな改修の議論が高まっていた明治29年(1896)8月。台風による猛雨によって湊川の堤防が100mにわたり決壊し、福原町、仲町などに濁流が押し寄せ、死者38名、負傷者57名、多数の家屋も流失・浸水するなどの大きな被害となりました。
この大水害がきっかけで、当時の新聞にも「災害対策が神戸市目下の急務」と報じられるなど、世論が盛り上がり付替え工事が具体化します。

水害が発生した翌年の明治30年(1897年)5月。大阪の藤田伝三郎や地元の小曽根喜一郎、東京の大倉喜八郎といった豪商や実業家らが発起人となって「湊川改修株式会社」が設立され、湊川の付替え事業はいよいよ動き始めます。

 

当初、予定されていた付替え工事は、洗心橋の上手で湊川を締め切り、そこから新湊川を開削して、会下山の南側に新しい川を掘り進む計画となっていましたが、兵庫の住民の間から「川床の高い湊川を持ってこられては、今以上に危険な状態になる。」という反対意見も多く、会下山の下にトンネルを通す案に変更されました。そうして西へと向かう湊川の流路は長田神社八雲橋下手で苅藻川と合流、ここより下流は苅藻川の川幅を広げて東池尻の海岸へ注ぐこととなります。

明治34年(1901)、湊川隧道は近代土木技術を用いた日本最初の河川トンネルとして誕生し、その後新湊川の水を100年間にわたって流し続けます。

 


湊川隧道の断面形状は馬蹄形になっており、側壁と天井のアーチが煉瓦造り、地山とトンネルの間には栗石が裏込め材として充填され、底の部分(インバート部)は、流れる水や土砂が川床を洗い流したり削ってしまったりすることを防ぐために、3、4段に積まれたレンガの上に花崗岩の切り石が並べられるなど、河川トンネルとしての機能が損なわれることのないよう、構造や材料にさまざまな工夫が施され、効果的な洗掘摩耗対策がとられています。
また、湊川隧道の坑口は、呑口(上流側)が古典様式、吐口(下流側)はゴシック様式と、異なった二種類のデザイン様式を採用しており、大変凝った造りとなっています。
トンネル建設の記念碑とも言える扁額(坑口の上部に懸ける長方形の額)は、当時の陸軍大将、小松宮彰仁親王の揮毫によるもので、吐口部に「天長地久」、呑口部に「湊川」と記され、トンネルの効用を願うとともに、大変な難工事を克服した 喜びが表されています。「天長地久」の言葉は中国の古典である「老子」の中に見られ、大地の悠久の営みに対する畏怖の念が込められています。

 

 

平成7年(1995年)1月17日午前5時46分、淡路島北部を震源とするマグニチュード7.2の兵庫県南部地震、いわゆる阪神・淡路大震災により新湊川も護岸の一部が倒壊し多くの亀裂が発生するなど、大きな被害を受けました。また、湊川隧道も下流側坑門が崩壊し、隧道内部の一部で煉瓦の剥離、亀裂などが発生しました。復旧にあたっては、周辺の地域が市街地として高度に利用されていることなどを考慮して、単に被災前の原型に復旧するだけではなく、河道断面積の拡大を図るほか、安全で快適な水辺空間の整備もあわせておこなう「河川災害復旧助成事業」による改良復旧工事が行なわれることになりました。

 


明治34年(1901)に完成した湊川隧道は、新湊川トンネルの建設により、平成12年(2000)12月、100年に渡る河川トンネルとしての役目を終えました。河川トンネルの役割を終えた湊川隧道は、系譜的価値、技術的価値、意匠的価値について高い評価がなされ、連絡通路や照明設備の設置など、新たな展開に向け、保存と活用のための整備がおこなわれました。新湊川トンネルの坑門には、再び湊川隧道の扁額が掲げられています。坑門の復旧にあたっては、呑口坑門は昭和初期の増築時のイメージを、吐口坑門は明治期の完成当時のイメージをデザインし、先人の遺業を後世に伝えています。

 

湊川隧道に使用されているレンガと石材について
隧道の内壁はレンガ積みで、側壁はイギリス積み、アーチ部は長手積みとなっており、天井の一部には「堅積み」という技法が採られていて、覆工背面は栗石が裏込め材として充填され、地下水の排水の役目を担ったり、地山からの土圧を均等に受け持つように工夫されています。使用されているレンガの産地は表面の刻印などから泉州地方とされ、当時は大阪湾を船で運び、湊川の川尻あたりから陸送されたと推定されます。覆工の厚みは、レンガの長手方向に3個分(約70cm)あり、全周の列数は239列となっていて、このことから隧道全体で、少なくとも450万個以上のレンガが使用されていることがわかります。
また、インバート部分の石材は、通常時は水の流れに、洪水時は土砂の流れにさらされるため 洗掘、摩耗に耐えることを目的に、凹状に湾曲して敷き詰められています。使用された石材は、岩質や当時の石材産地の状況などから、岡山県の北木島をはじめ瀬戸内海の複数の産地から運ばれたと推定されます。

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以下の写真もhttp://minatogawa-zuido.com/about/ より引用

 

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