三木の干し殺し・三木合戦 三木市HPより
秀吉は、播磨の武将をまとめる別所氏との直接対決で、兵力が消耗することを避け、三木城を領内の播磨内陸部との連絡を絶ち孤立化させるため、三木城の北側に付城群を築き、別所氏に味方する播磨各地の城攻めを行いました。
別所方は三木城に新城をあらたに築き合戦に備えていましたが、周辺の城が落とされ兵糧も十分に確保できなくなり、毛利氏、荒木村重などからの兵糧補給を頼りとしていました。荒木氏は丹生山の明要寺を経由し密かに兵糧を補給し、毛利氏は海路明石魚住から補給していました。
三木城周辺での戦は、天正6年(1578)10月に平井山の合戦があったほか、天正7年2月魚住からの補給をめぐる戦いが、5月には丹生山での戦が、9月には平田での戦があったことが記録に見えます。これらの戦いは兵糧をめぐる攻防だったと思われ、戦いのたびに兵糧の搬入路を失っていきました。なかでも天正7年2月の戦いの後、織田信忠によって三木城の南側に付城が築かれ、魚住からの搬入が思うようにいかなくなり、迂回して大村坂より搬入することとなって、平田の戦へとつながっていきます。
別所方にとっては兵糧を確保する重要な戦であったのですが、そのたびに多くの武将と兵糧の搬入手段を失い、食料が尽きた城内の領民や兵は餓えに苦しみ悲惨な状況であったと云われ、城主長治は領民の命を救うため、天正8年(1580)1月、一族とともに自刃し開城しました。この合戦を別名「三木の干し殺し」と呼ばれています。
三木市細川町細川中 大日神社
戦国時代・三木城主別所氏の支城のひとつであった中村城跡に享保10年(1725年)大日神社築造
中村城は天正7年(1579)羽柴秀吉軍三木攻めにて落城
創設は、天禄年間(970~973)とあるので元々は別地にあったのか?
中村城内にあったのか?
中村城自体が、別所氏が勢力拡大時において急造した城と考えられている。
現社殿は、昭和18年5月築造
飾磨彫刻ですね。銘の確認できませんでしたが、初代小河義保師か?
彫刻は比較的あっさりです。
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