ぶらり紀行

宝塚市近郊の神社仏閣・祭り山車を中心に訪れた様子をレポート

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7 コメント

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偶然にも (地車狂)
2007-07-22 20:52:20
実は、この海老江の地車関係者の奥様が私の会社の某レディとして、その日私の実施した研修を受けておられました。宝塚にも地車があって、自分も関係者で仲間の地車好きが海老江にも出没してるでと話をしていたんですが、あにきはやっぱり行ってましたか。
ところで、給湯器が妙に機嫌よくてすいません。しばらくこのままでお願いします。
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OKです。 (あにき)
2007-07-22 23:39:11
久しぶりのコメント(嬉)

ダクト工事が以外とええ見積りきてたから、最終的には、うちの空調部にさせます。悪なったらいつでも言うて下さい。マメに掃除してたらまだ2・3年もつんちゃうかなぁ。

海老江は、ほぼ毎年ちょことは、行ってますが、じっくり彫物見れたのは、今年が初めてです。

西之町の地車が安政2年(1855)上棟・彫師、相野徳兵衛だそうです。

東之町が相野伊兵衛?川面東は?ちょと違うかな?どっちがどっちか解りませんが・・・・
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ぼちぼち祭り前 (地車狂)
2007-07-24 01:28:19
ほんまに給湯の件は慌ててしまってえらいお手数かけました。多分、偶然にツボを掃除したんでしょうね。嘘みたいに上機嫌です。でも、悪なったらすぐお願いします。
小生所蔵の彫り物の本には、天満市場のは彫師書いてありません。海老江東は伊兵衛、西には池田覚学という名前が出ています。よくわかりませんね、千早赤阪の二河原辺の獅子の子谷落としの構図はうちの脇障子に似てると思うんです。あと、吹田の川面の牡丹の木鼻もよく似てると思いますが。吹田まつりは見に行くの?
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だいぶ前から祭り前 (あにき)
2007-07-24 22:42:19
だいぶ前から毎週のように川面地車関連打ち合わせしております。(笑)

海老江東は、後の車板に伊兵衛の銘があるのですが・・・他の彫師も入っているような?
海老江西は、地車蔵内の地車由緒書きに相野徳兵衛となってますので、地区に古い文献が残っているのでしょう。
川面(かわづら)の木鼻は、私のあくまで推測ですが、同じ手じゃないかなと思ってます。うちの大屋根獅子噛が残っていれば、川面(かわづら)小屋根の獅子噛と比べれたらと思うと残念です。うちの地車原形の龍は、1頭も残ってないもんな。まぁ俺らの時代は、彫物にまったく興味なかったもんな~平気で屋根乗ったとき龍にぎっとたもんな。(笑)
川面(かわづら)の築造も嘉永7年ですので、天満宮と同年代です。同じ彫師が同年代に何台もの地車を同時に彫るのは、無理があると思いますので、多くの彫師が活躍していたと思われます。中には、まね彫の得意な人もいてたかもしれません。
吹田まつりは、今年は、7月29日(日)です。当日多忙のため事務所出れません。
二河原辺は、実物見てないのでコメントできません。ついでで行ける場所ちゃうからなあ(笑)
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何年か前・・・ (地車狂)
2007-08-03 23:02:13
ちょうどこの頃に安倉まで行きましたねえ。今の体力で行けるやろか?夏祭りで地車曳くとこは大変やろな、と改めて思います。うちらが宝塚まつりで曳いてた時期は夏の盛りが済んだころやったからまだましやったけど・・・。
ところで、10年ほど前に本家さんと一緒に川面の彫刻を鑑定に来られた某氏のコメントには、東の製作年代は嘉永、弘化の頃かも・・・とありました。もし、吹田の川面と彫師が同じなら推測年代も辻褄が合ってきて何かドキドキしますね。
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川面東築造 (あにき)
2007-08-05 10:30:29
明治14年購入は、間違いないとして既に出来ていたから、それ以前は間違いなし。
で、明治24年修理(文献残っていたけ?)地ちゃんが思っているように土台部分含めた大修理やったとして、当時は、地道やし、荒い曳行をしていたと考えられるので・・・前回の修理が昭和61年やから約80年後に大修理。それから推測して嘉永、弘化築造であれば、明治24年前約50年やから、彫物とてらしてもそのあたりの年代の築造じゃないかなぁ。あくまで推測です。
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明治24年 (地車狂)
2007-08-08 23:20:43
修繕受負金として40円90銭かかってます。続いて械金金物とか脇障子金物という文字が出てきます。推測ですが、かなりの金物が傷んでいたのと、脇障子は左右共破損していたのでは。脇障子の角金物を6枚も新調しているのは片側だけでは余ってしまいます。それに脇障子木代という文字もありますから。これに加えて、屋根の引金を6本新調、屋根の桁用に松の敷木5挺、椽(たるき)に板2枚とか、虹梁籠彫3本などを見ると、相当粗く使われていたのでは?と思われるような修理箇所です。あと、檀尻小椽代というのがあります。これは、「こたる」ではないか?と前から推測しています。脇障子や屋根は直し手間とあるのにこれには何も書いていないので新調と思います。これらを総合計して72円73銭かかってます。他に、大小折釘40本というのは、提灯用だけでは多すぎるので、恐らく縁葛から垂らす幅の狭い幕用に使ったのではないでしょうか?
これ、木元氏が最初の頃に作成していた資料です。おそらく今後製作されるであろう地車誌に掲載されるものと思います。あにきに渡しましょか?
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