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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

鈴木大拙の解脱体験

2013年11月08日 | 日記
鈴木大拙の解脱体験

 私は若い頃から今日まで禅についての本は随分読みました。そして私にチューニングが合ったのは道元と鈴木大拙と盤珪と安谷白雲の4人なのですが、ここでは盤珪と安谷白雲については触れない事とします。

 鈴木大拙は欧米人に禅を理解してもらう為に英語で多くの本を書き、それを日本語に翻訳したものが日本でも多く出版されています。鈴木大拙は明治から昭和への人なので私の知らない漢字を多用しますし、また多くの禅の先人達の本を引用しますのでなかなか読みにくいけれども何とか読めない事は無いと言う、現代人にはちょっと面倒な所も有ります。道元や親鸞ですと現代への訳文も有りますのにね。

 「現代日本思想体系 鈴木大拙」では禅の基本概念、禅の生活、禅と日本文化、そして東と西と言う風に禅の全般について分かり易く解説していますし、「禅の思想」では禅思想、禅行為、禅問答を解説し、「禅問答と悟り」では先人達の禅問答を詳しく説明しています。また「日本的霊性」では浄土真宗の往生について独自の解釈を見せ、また一方では、この本が戦時中に書かれた事もあって、神道にも言及しています。

 これ等の本の中で鈴木大拙は仏教がインドに興り、それが中国に伝わって中国風の禅になり、そしてそれが日本に渡って日本独自の禅へと変遷した事を何度も説明します。鈴木大拙はインド人と中国人の国民性に触れ、インド人が静かで抽象概念の整理を好む事、そして中国人が会話と詩的表現を好む事を挙げており、鈴木大拙は中国人の詩的表現を好むようです。そしてこの詩的表現を好む事が鈴木大拙への理解を決定的に難しくしているのだと私は思います。解脱体験の構造が明確に書かれていないのです。

 解脱体験と言いますか解脱の境地と言いますか、それについて鈴木大拙は独特の表現をします。「無分別の分別」、「無作の作」、「絶対矛盾の自己同一」等と言われて「そうか、そうだったのか」とすんなり分かりますでしょうか。鈴木大拙は間違いなく解脱体験をしていますのに、こう言った表現では理解が遠のくばかりです。惜しい事です。

 道元は「正法眼蔵」の中で「生と死」「時間論」「空間論」を明確に説明していますが鈴木大拙にはそれが有りません。道元は日本人にはめずらしく解脱の構造をきちんと表現していますのに。

 鈴木大拙が自身の解脱体験について詳細に表現する事は無いのだろうかと思っていましたら、それが、有りました。角川書店発行、鈴木大拙著の「無心ということ」の、ほとんど最後のあたりに解脱体験の詳細が書かれていました。それはなんと、サーンキヤ哲学の、プラクリティ(物質原理)の展開の、結果の方から原因の方へと逆に遡る、あのラマナマハリシのやり方と殆ど同じなのです。そして解脱体験は「光である」とまで書いて有りました。

 鈴木大拙は明治の人ですので表現は仏教用語を使います。「意識(想念)のもうひとつ下に末那識(マナス)というものがある。意識(想念)はこの末那識(マナス)を内に顧みつつ、五識を外に纏(から)めて、そうしてここに自分、すなわち我という識を立てるのである。」「我識というのは、それは我執のまたの名にすぎぬ」。

 ここで末那識(マナス)とは「器官反応を言語化したもの、感情、意欲」の事であり、五識とは器官反応の事です。我執をインドではアハンカーラと呼びます。

 「末那識(マナス)は無自覚性のいわゆる阿頼耶識(アラヤシキ)なるものを捉えて自我と認識しているのである」。

 阿頼耶識(アラヤシキ)とはサーンキヤ・ヨーガで言うサムスカーラ(行、経験した事の記憶が潜在意識化したもの)の事です。そして鈴木大拙はプラクリティ(物質原理)からプルシャ(精神原理)への飛躍の事を「般若の知恵」と呼んでいます。そしてプルシャ(精神原理)は光で した。

 器官反応→マナス(意欲)→アハンカーラ(自我意識)→ブッディ(統覚)→プラクリティ(物質原理)と遡り、そしてプルシャ(精神原理)へと飛躍する。そしてプルシャ(精神原理)は実に光であったという訳で、これはまさにサーンキヤ哲学の構造です。鈴木大拙はブッディ(統覚)のところにサムスカーラ(記憶)を置いていますが、これはたいした問題では無いでしょう。

 「転回の前にあっては、分別『我』の世界が心の全部であるが、転回という体験があってからは、般若の知恵が光り、分別『我』に無分別性のあることが明らかにせられる。」、「この光明が意識を通じて五識の上に働いているのであるから、この光明をさえ捕え得るなら、今までの世界は全然その趣を変えることになる」、これはまさに解脱体験の有様を切り取った言葉です。

 そして更に鈴木大拙は、解脱体験は「空間的なものでなくて、時間的である」、「『アッ』という間もなく『過也!』ということになってしまう。神秘的直観または瞑想などと言って、流を停止してじっと、それを見つめているような考えを、ここに持ち出したら、見性体験は台なしになる。」と言います。解脱体験自体は光であって、解脱体験のあとに思い返して見れば解脱体験の構造とはこう言う事だったのだと証明する訳です。

 鈴木大拙がインドのサーンキヤ哲学を勉強していたのかどうか私には分かりませんが、サーンキヤ哲学の構造図の上に鈴木大拙の言葉をひとつひとつ置いて見ますと、鈴木大拙の解脱体験の様子がありありと見えてきます。




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