ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

日野てる子

2009年10月23日 | 日記
日野てる子

 日野てる子が去年の秋に亡くなりました。死因は肺がん、昭和20年生まれで62才だったそうです。日野てる子といえば私が大学生の頃にヒットしていたハワイアンの歌手ですが、1番のヒット曲は「夏の日の思い出」といって、ハワイアンではなく歌謡曲でした。題名のとおり、冬になって去年の夏を思い出す内容の歌でしたがヒットしたのは皮肉にも夏でした。キャンプストアという私の所属するクラブの夏の海のイベントでも休憩時間には先輩達がギターやウクレレを片手に歌っていました。特に歌の最後の部分、「冬の浜辺は 淋しくて 寄せる波だけが 騒いでた」の「寄せる波だけが 騒いでた」のところはテンポが良く、波の寄せては返す様が胸に迫ってきたものです。

 日野てる子の私にとってのNO.1は「南国の夜」です。彼女の澄んだ、伸びのある、それでいて艶やかな裏声にアコースティックギターが付きまとい、絡みつきます。場面はハワイなのでしょうが夜の闇はあくまでも深く、そしてとにかく湿度が高くて蒸し暑い、寝苦しそうな南国の夜です。後年ハワイへ行ってみると、ハワイはカラッとした気候でアッケラカンとした雰囲気だったのでがっかりしたものです。私にとっては蒸し蒸しとして寝苦しいのが本物のハワイで、そこにあるカラッとしたハワイは受け入れ難いものでした。これはないだろう、こんなのハワイじゃないよ。

 結局、日本のハワイアンで歌われていたハワイは東南アジアの熱帯雨林地帯だったのですね。

 私が大学4年生、就職も決まって熊本の実家に帰省したあと、東京行きの特急寝台「みずほ」に乗り込んだ時、私は驚きました。私の正面に腰掛けた若い娘さんの容貌が日野てる子にそっくりだったのです。年の頃は18か19、こんなこともあるのかねです。ここでは彼女のことを日野てる子Ⅱと呼びましょう。私は彼女に挨拶をした後、自分はビートルズのファンであると言いました。彼女もそうだと言います。

 特急寝台「みずほ」は発車すると間もなく、座席をたたんで4人分の寝台に変わります。そうすると日野てる子Ⅱと私は寝台のカーテンを開けて声を掛け合う訳にもいきません。他の2人に迷惑ですからね。私は誘って、日野てる子Ⅱと一緒に扉を開けて列車の連結部へ出てそこにしゃがみこみ、さっきのビートルズ談義を再開しました。ビートルズ談義といっても大したものではありません。何の思想信条もないものですから、自分は「ラバーソウル」というLPの中では「ラン フォー ユア ライフ」が好きだとかいった他愛も無いものです。それでも若い2人は盛り上がりました。2人して声を潜めてビートルズの歌を次から次へと口ずさみ、深夜遅くまでそうしていました。

 日野てる子Ⅱにはカメラマンの友達がいて、彼女をモデルにした写真の展示を新宿の喫茶店でやっていると言います。これを2人で見に行くことにしました。新宿東口の新宿通りからかなり甲州街道の方へ入って行くと、当時のその辺はちょっと怪しい寂れた場所でした。喫茶店に入ると、日野てる子Ⅱのモノクロ写真がパネルになって何枚も壁に展示してありました。「すごいね、大したもんだ」と私はうなります。

 ある日、私は日野てる子Ⅱを誘って公園へ行き、2人でボートに乗りました。私が喫茶店のパネル写真を思い浮かべながらペンタックスの一眼レフで彼女に向けてシャッターを切っていると、彼女は突然ご機嫌が斜めになってしまいました、「ボートが楽しめないわ」。パネル写真を作った人と同じ事はなかなか出来ませんね。

 翌年の4月になって会社の入社式のあと、新入社員は大阪の中山寺というお寺に寝泊りして1週間程 研修を受けました。そして研修会最後の夜には全員に辞令が出ます。私は東京支店の営業部でしたが、いきなり地方支店配属の新人も大勢いて、彼等は大荒れに荒れたものです。

 研修が終わって私は東京に戻り、それまで住んでいた渋谷のアパートから会社の独身寮へ引っ越すことになりました。下北沢で小田急線に乗り換え、登戸駅で国鉄(JRではなかった)南武線に乗り換え、1つめの中野島という駅の近くに寮はありました。それまで渋谷に住んでいたので、なんだか都落ちの気分です。アパートから独身寮へ引っ越す時に、私は日野てる子Ⅱに途中まで付き合ってもらいました。小田急線でも2人の話ははずみ、登戸で国鉄に乗り換える時に私は彼女に別れを告げて電車を降りたのはいいのですが、網棚のスーツケースをすっかり忘れてしまい、手ぶらで寮に入ってしまいました。

 今の私にとって日野てる子Ⅱは謎の人です。彼女についての記憶が少ししかなく、それも断片的で繋がりが無く、ストーリーにならないのです。日野てる子Ⅱについての記憶は確かに4つあります。
①特急寝台「みずほ」で知り合い、一緒にビートルズを口ずさんで盛り上がったこと
②新宿の喫茶店で彼女のパネル写真を一緒に見たこと
③公園でボートに乗り、写真を撮っては彼女のご機嫌を損ねたこと
④アパートから会社の寮へ引っ越すときに途中まで付き合ってもらったこと

 ①②③は分かりますよ。よくある話でしょう。④が分からないのです。自分の引越しに付き合ってもらう程に私は彼女とは親しかったのだろうか。私は登戸駅で降りたのだけれども彼女は小田急線でその後どこまで行ったのだろう。第一彼女はどこに住んでいたのだろうか。彼女は私が網棚に忘れたスーツケースに気がつかなかったのだろうか、確かにスーツケースは翌日小田急線のどこかの駅へ自分が取りに行ったのだし。そしてそれから2度と日野てる子Ⅱに会った記憶が無いこと。楽しく別れたのに、これがやはり1番の謎です。そして何よりも私は彼女にどういう気持を寄せていたのだろうか。わからん。

 日野てる子の歌に「別れの磯千鳥」というのがあります。

 「会うは別れの始めとは 知らぬ私じゃないけれど 切なく残るこの思い 知っているのは磯千鳥」。






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8 コメント

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佳境 (太郎)
2009-10-23 10:13:24
蒙古斑氏は、かくも恋多き青春だったのかと、オクテの私は舌を巻いています。
もっと、あるでしょう。書いちゃえ、書いちゃえ、ぜーんぶ書いちゃえ。すっきりするから。
おしまい (Ananda Bhavan)
2009-10-23 11:54:03
蒙古斑としてはもう限界のようです、すみません。
Unknown (小田原)
2009-10-23 20:30:39
マー、よく書くね。こんなに活躍していたとは知りませんでした。立派ですね。尊敬します。
太郎さんと全く同じ気持ちです。
日野てる子。懐かしいですね。昭和40年の夏の大ヒット曲は、加山雄三の「お嫁においで」でした。日野てる子は、地味でしたね。どちらかと言うと。
きっと、まだある。 (太郎)
2009-10-23 20:50:26
逆さに振れば小粒のやつもあるでしょ。来週金曜までの宿題。・・・ですよね、センセ?
構想 (Ananda Bhavan)
2009-10-24 09:45:09
「生と性の躍動感」を旨とする私としては来年4月くらいをピークに構想があります。内容は見てのお楽しみ。
気の長い・・・ (小田原)
2009-10-24 19:52:36
ほんとにピークなの?枯れちゃうんじゃないの?
枯れそう (Ananda Bhavan)
2009-10-25 09:00:29
ブログでリタイアに失敗するかも。
大げさ (太郎)
2009-10-25 09:57:35
何だかブログごときで、大げさな気もするけど、まあ「人生の芯」だからな・・・
心待ちにしとります。

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