図説 ヨーガ・スートラ
出版新社発行、伊藤武著の「図説 ヨーガ・スートラ」を約1ヶ月掛けて、ちびちびと読み進めて大晦日に読み終わりました。伊藤武さんは仏教用語を駆使して解説しますので当初は戸惑いましたが、どうやら伊藤武さんには仏教とサーンキヤ哲学を統合したい意図が有るようで、まあ、バガヴァッド・ギーターもヴェーダーンタ思想とサーンキヤ哲学の統合を主張しているのですからそれも有りなのでしょう。しかし伊藤武さんが主に仏教とサーンキヤのどちらに与(くみ)するのかと読んでいましても最後までそれは分かりませんでした。ヨーガ・スートラとサーンキヤ・カーリカーはヨガの2大根本経典であり、サーンキヤ・カーリカーがヨガの解脱体験の構造を説明し、ヨーガ・スートラはサーンキヤの構造を土台にしてヨガの実修を教えるのですから、そこに仏教がどう関与してくるのか興味は有ります。ゴータマ・ブッダもヨガの実修を通してニルヴァーナ(涅槃)を体験したのですからヨガと仏教の関係は深い筈ですが夫々の主張はまる反対ですから、伊藤武さんはそこをどう落とすのだろうかと読み進みましたが、結果として仏教とサーンキヤのどちらにも落ちていないと感じました。
インドの3大思想であるヴェーダーンタ思想と仏教とサーンキヤ哲学は夫々異なる事を主張していますので、それを簡単に整理してみましょう。
自己と環境世界について。ヴェーダーンタ思想では環境世界を環境世界と見るのはマーヤー(幻)であり、環境世界の本質はブラフマン(梵)であると言います。そして真の自己をアートマン(真我)と呼び、ブラフマン(梵)とアートマン(真我)とは同一だと言います。梵我一如ですね。ですからヴェーダーンタ思想では自己をアートマン(真我)として肯定し、環境世界をマーヤー(幻)として否定します。
仏教では現実世界を因縁(因と縁)が編み出したものであるとし、因縁(因と縁)が編み出した球状の世界の中は空っぽ(空:くう)でそこに永遠の自己等と言うものは無いと言います。ですから仏教は(永遠の)自己を否定し、環境世界(因縁)を肯定しています。
サーンキヤ哲学は二元論です。プルシャ(真我)と言う精神原理とプラクリティ(自然)と言う物質原理を立てます。現実世界をプラクリティ(自然)の展開と見、そしてそれとは全く別にプルシャ(真我)が存在すると主張します。ですからサーンキヤ哲学は自己と環境世界の両方を実在すると肯定します。
このようにヴェーダーンタ思想と仏教とサーンキヤ哲学は相反し相矛盾していますが、それは理屈の上の事で、私はそれ程問題だとは思いません。言葉ではなかなか説明出来ない解脱体験を言葉でどう表現するかの違いだと思うからです。
伊藤武さんはハタ・ヨガの人です。マッツェンドラがゴーラクシャに教えそのゴーラクシャが完成させたハタ・ヨガは密教です。タントラです。仏教も密教の時代になりますとヒンドゥー化していますから、伊藤武さんが仏教とサーンキヤを統合しようと意図するのも自然の成り行きなのでしょう。
ところで伊藤武さんはこの本の中で岸本英夫さんや佐保田鶴治さんの翻訳や解説を取り上げて否定し、「それは違う、それはこうだろう」と言いますが、「それはあんまりな」と私は思いました。特に佐保田鶴治さんのヨーガ・スートラは40年前のヨガを志す日本の若者達に大きな確信と目標を与えてくれたのですから佐保田鶴治さんを否定されるのは辛い。こうなると「あなたは誰のファンですか?」の世界になって来まして、伊藤武さんのファンならそれをそのまま受け入れれば良いし、そして私は佐保田鶴治さんのファンです。佐保田鶴治さんがヨーガ・スートラを書いてくれたおかげでヨガをやる人達にとってヨーガ・スートラは普通の本になっていますがサーンキヤ・カーリカーはまだまだ知名度が低い、ここは是非、伊藤武さんに「図説 サーンキヤ・カーリカー」を書いて欲しいものです。
さて、伊藤武さんの「図説 ヨーガ・スートラ」を読んで、私は2つ拾い物をしました。ヨーガ・スートラにはハタ・ヨガの概念であるシャクティ(女性の性的なパワーを神格化したもの:シャクティ女神)やチャクラ(エネルギーの輪)は出て来ないと思っていたのですが、シャクティは「能力」として数回出て来ますし、チャクラも臍(へそ)のチャクラとして1つだけ登場していました。ハタ・ヨガではチャクラは7つですから、ヨーガ・スートラには後(のち)のハタ・ヨガの基礎が既に芽生えていたのでした。
そしてもう1つはサムスカーラの概念です。サムスカーラは「経験した事の記憶が潜在意識化したもの、潜在意識」ですが、伊藤武さんはサムスカーラ(潜在意識)がカルマ(行為)を生み、カルマ(行為)がサムスカーラ(潜在意識)を生む、サムスカーラ(潜在意識)とカルマ(行為)の永遠の循環を指摘しています。そうしますと、輪廻転生でカルマ(業)が継承されるのであれば、当然サムスカーラ(潜在意識)も輪廻転生で継承される事になります。これは大変に腑に落ちました。
最後にもう1度申し上げます、伊藤武さんには是非「図説 サーンキヤ・カーリカー」を書いていただきたい。
出版新社発行、伊藤武著の「図説 ヨーガ・スートラ」を約1ヶ月掛けて、ちびちびと読み進めて大晦日に読み終わりました。伊藤武さんは仏教用語を駆使して解説しますので当初は戸惑いましたが、どうやら伊藤武さんには仏教とサーンキヤ哲学を統合したい意図が有るようで、まあ、バガヴァッド・ギーターもヴェーダーンタ思想とサーンキヤ哲学の統合を主張しているのですからそれも有りなのでしょう。しかし伊藤武さんが主に仏教とサーンキヤのどちらに与(くみ)するのかと読んでいましても最後までそれは分かりませんでした。ヨーガ・スートラとサーンキヤ・カーリカーはヨガの2大根本経典であり、サーンキヤ・カーリカーがヨガの解脱体験の構造を説明し、ヨーガ・スートラはサーンキヤの構造を土台にしてヨガの実修を教えるのですから、そこに仏教がどう関与してくるのか興味は有ります。ゴータマ・ブッダもヨガの実修を通してニルヴァーナ(涅槃)を体験したのですからヨガと仏教の関係は深い筈ですが夫々の主張はまる反対ですから、伊藤武さんはそこをどう落とすのだろうかと読み進みましたが、結果として仏教とサーンキヤのどちらにも落ちていないと感じました。
インドの3大思想であるヴェーダーンタ思想と仏教とサーンキヤ哲学は夫々異なる事を主張していますので、それを簡単に整理してみましょう。
自己と環境世界について。ヴェーダーンタ思想では環境世界を環境世界と見るのはマーヤー(幻)であり、環境世界の本質はブラフマン(梵)であると言います。そして真の自己をアートマン(真我)と呼び、ブラフマン(梵)とアートマン(真我)とは同一だと言います。梵我一如ですね。ですからヴェーダーンタ思想では自己をアートマン(真我)として肯定し、環境世界をマーヤー(幻)として否定します。
仏教では現実世界を因縁(因と縁)が編み出したものであるとし、因縁(因と縁)が編み出した球状の世界の中は空っぽ(空:くう)でそこに永遠の自己等と言うものは無いと言います。ですから仏教は(永遠の)自己を否定し、環境世界(因縁)を肯定しています。
サーンキヤ哲学は二元論です。プルシャ(真我)と言う精神原理とプラクリティ(自然)と言う物質原理を立てます。現実世界をプラクリティ(自然)の展開と見、そしてそれとは全く別にプルシャ(真我)が存在すると主張します。ですからサーンキヤ哲学は自己と環境世界の両方を実在すると肯定します。
このようにヴェーダーンタ思想と仏教とサーンキヤ哲学は相反し相矛盾していますが、それは理屈の上の事で、私はそれ程問題だとは思いません。言葉ではなかなか説明出来ない解脱体験を言葉でどう表現するかの違いだと思うからです。
伊藤武さんはハタ・ヨガの人です。マッツェンドラがゴーラクシャに教えそのゴーラクシャが完成させたハタ・ヨガは密教です。タントラです。仏教も密教の時代になりますとヒンドゥー化していますから、伊藤武さんが仏教とサーンキヤを統合しようと意図するのも自然の成り行きなのでしょう。
ところで伊藤武さんはこの本の中で岸本英夫さんや佐保田鶴治さんの翻訳や解説を取り上げて否定し、「それは違う、それはこうだろう」と言いますが、「それはあんまりな」と私は思いました。特に佐保田鶴治さんのヨーガ・スートラは40年前のヨガを志す日本の若者達に大きな確信と目標を与えてくれたのですから佐保田鶴治さんを否定されるのは辛い。こうなると「あなたは誰のファンですか?」の世界になって来まして、伊藤武さんのファンならそれをそのまま受け入れれば良いし、そして私は佐保田鶴治さんのファンです。佐保田鶴治さんがヨーガ・スートラを書いてくれたおかげでヨガをやる人達にとってヨーガ・スートラは普通の本になっていますがサーンキヤ・カーリカーはまだまだ知名度が低い、ここは是非、伊藤武さんに「図説 サーンキヤ・カーリカー」を書いて欲しいものです。
さて、伊藤武さんの「図説 ヨーガ・スートラ」を読んで、私は2つ拾い物をしました。ヨーガ・スートラにはハタ・ヨガの概念であるシャクティ(女性の性的なパワーを神格化したもの:シャクティ女神)やチャクラ(エネルギーの輪)は出て来ないと思っていたのですが、シャクティは「能力」として数回出て来ますし、チャクラも臍(へそ)のチャクラとして1つだけ登場していました。ハタ・ヨガではチャクラは7つですから、ヨーガ・スートラには後(のち)のハタ・ヨガの基礎が既に芽生えていたのでした。
そしてもう1つはサムスカーラの概念です。サムスカーラは「経験した事の記憶が潜在意識化したもの、潜在意識」ですが、伊藤武さんはサムスカーラ(潜在意識)がカルマ(行為)を生み、カルマ(行為)がサムスカーラ(潜在意識)を生む、サムスカーラ(潜在意識)とカルマ(行為)の永遠の循環を指摘しています。そうしますと、輪廻転生でカルマ(業)が継承されるのであれば、当然サムスカーラ(潜在意識)も輪廻転生で継承される事になります。これは大変に腑に落ちました。
最後にもう1度申し上げます、伊藤武さんには是非「図説 サーンキヤ・カーリカー」を書いていただきたい。