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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

ヨハネ・レノン?

2024年09月28日 | 日記
ヨハネ・レノン?

 私は2年前の5月からこのブログの英語版をやっています。Facebook 友達の15才年上の大先輩が翻訳ソフトのDeepL を教えて下さったので早速始めました。DeepL の左の画面に元原稿を貼り付けますとすぐに右の画面にその英語訳が現れます。そこで英語文の重複や欠落をチェックし(これはとても大事、重要な主張が抜けていたりします)、固有名詞や専門用語を確認し、作文が出来ますと今度は知らない単語をGoogle で日本語に訳戻ししてちゃんと翻訳されているかどうかを確認、そして投稿しています。私は英作文は本当に苦手で、翻訳してみますと、なるほどこう言う風に表現するのかと感心してしまいます。そして最近ではこの英語版の読者も少しずつ増えて来つつ有ります。

 日本語を英語に翻訳していますと、思わずこれは?と言う表現に出会います。例えば新約聖書について。福音書を書いた4人の名前、マルコはMark、マタイはMatthew 、ルカはLuke 、ヨハネはJhon。更にはキリスト教の礎になったパウロはPaul 、ペテロはPeter と出て来ます。

 なんだ、そうするとビートルズのジョン・レノンはヨハネ・レノン?ポールはパウロ・マッカートニー?また私の学生時代に流行っていたPPMと言うフォークグループのピーター、ポール&マリー、これはペテロ、パウロ&マリアなんですね。欧米人の名前は聖書から取っているとは聞いていましたが、実際にこれを見ますと笑ってしまいますね。他にダビデはDavid 、デボラはDeborah 、バラクはBarak 、サムエルはSamuel 、エリザベトはElizabeth 、シモンはSimon 、マルタはMartha 、ヨセフはJoseph、ミカエルはMichael 等、聖書由来の名前は沢山あるようです。

 また欧米人だけで無くインド人にも神様の名前を持った人は居ます。現在のインドの外務大臣はジャイシャンカルさんだそうですが、ジャイは万歳!でシャンカルはシヴァ神の事ですからシヴァ神万歳!外務大臣となります。私のヨガの先生の先生はヴィシュヌ・チャラン・ゴーシュ先生なのでそのままヴィシュヌ神。古くはインドのヴェーダーンタ思想不二一元論のシャンカラはシヴァ神、仏教で空の思想を説いた龍樹はナーガアルジュナ。ナーガは龍の神様でアルジュナはインドの叙事詩マハーバーラタの英雄です。また近代のインドの聖者ラーマクリシュナのラーマはインドの叙事詩ラーマーヤナのラーマ王子でクリシュナはヴィシュヌ神のアバタラ(化身)。

 そうしますと何故日本人には神様の名前の人が居ないんでしょうかね。

 さて、DeepL で色々な翻訳表現を見ましたので、これは英語では何と言うのかなと言う難しい言葉を試しに翻訳してみました。

人生観:Outlook of Life
梵我一如:Brahma-Self-Unity
宗教と信仰:Relijion and Faith
瑜伽行派の唯識説:The Yogcara School of Consciousnes-only  DeepL、やりますね。

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後期高齢者運転技能教習

2024年09月21日 | 日記
後期高齢者運転技能教習

 自動車の運転免許更新の為の技能教習を自動車教習所で受けて来ました。いつもは12時に寝て8時半に起きますのに教習は8時30分開始と有りましたので前夜は11時に寝て6時に起き、眠い目をこすりながら妻の運転する車で教習所へ送って貰いました。教習の内容は2つ、運転実技教習と視力検査でした。今日の受講者は8名の高齢者と何だか少な目、教習予約の取り方が難しかったのでしょうか。

 実際の運転は教官の見本運転のあとすぐに私でしたが運転はすいすい、気持ち良く走れました。以前は無かった段差登り(段差に前輪をつけて停止、アクセルを踏んで段差を登るとすぐにブレーキを踏んでストップ)も楽にクリア。そして3年前には有った車庫入れは今回は有りませんでした。あの時は皆さん失敗、教習では無く試験だと思って皆さん緊張されたのでしょうね。さて教官の私の運転の評価はよろしい、強いて言うならばウインカーはもう少し早めに、そして左折の際に少し膨らみすぎ、でした。

 次に教習室に戻って目の検査。以前2回の検査結果が私のFacebook に残っていましたので並べて書いてみましょう。

今回2024年(78才直前)
静止視力:0.9でやや優れている
夜間視力:0.3でやや優れている
動体視力:0.5で30~59才平均に相当
視野測定:155°で年齢的には平均のやや上

2021年(75才直前)
静止視力:0.8
夜間視力:0.3
動体視力:0.2
視野測定:180°

2016年(70才直前)
静止視力:1.0
夜間視力:0.3
動体視力:0.5
視野測定:170°あたりで40才代

 こうして見ますと年を取っても視力にはあまり変化は無いようですね。変化が有るのは筋力?

 無事に教習も終わって費用は8,000円(前よりずいぶん高い)でしたが8,000円をおつり無しで払ったのは私だけ、他の7名は1万円札を出してお釣りを貰っていました。また教習室を出る時に教官に「有難うございました」と挨拶をしたのも私だけ、皆さんそそくさと出て行きました。やはりこういう事はピシッとしましょうね。

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神様にお願い

2024年09月14日 | 日記
神様にお願い

 日本には学問の神様を祀る神社と言うのが有りまして、受験シーズンになりますとそこにお参りをする受験生やその保護者達が「どうか私が受験に受かりますように」とか「うちの息子(娘)が試験に合格しますように」等と神様にお願いをします。また宝くじを買っても「1等賞に当選しますように」とついお願いをしてしまいますね。しかし神様はそれらのお願いを叶えてくれるでしょうか。受験生全員が合格祈願をし、また全員が宝くじの当選祈願をした時に神様がその全てを叶えますと受験生全員が試験に合格し、また宝くじを買った全員が1等賞に当選する事になりまして、そもそも入学試験制度の前提は崩れ、また宝くじ販売の胴元は破産と言う事になりまして宝くじ自体が意味をなさない事になります。そもそも1個人対神様と言う設定が間違っていましたね。神様は全ての人に光を与えます(合格でも1等賞でも無く)。

 もっとお話を大きくしまして、世界中の人が神様にお願いをするとどうなるでしょうか。地球上には80億人が生活しているそうでして、それらの人達の利害は相反する事が多いようですから、神様が80億人のお願いを聞きますと、結局のところは世界の現状に帰結してしまいますでしょう。

 ウクライナはそもそもロシアの一部だ、いや、ウクライナは独立国家だ。ハマスを全滅させるまで戦おう、いや、イスラエルと言う国家が消滅するまで戦うのだ。神様が両方の主張(お願い)を聞ける訳が有りませんね(ヤハウェVSアッラー?馬鹿を言ってはいけません)。

 しかしそれでも人々は祈ります。神様にお願いをします。これはどう言う事でしょうか。

 どうもここには根底に宗教と信仰の違いが有るようです。

 宗教とは自己の探求(Who am I ?)であり、そして信仰とはその自己の探求を神様にお預けする事でしょう。これを日本の仏教で言いますと禅宗が宗教で浄土宗が信仰と言えるようでして、キリスト教もその信仰に相当するでしょう。

 自己の探求は大変難しく、そのどうにもならない事を神様にお預けしてしまう。そしてお預けしてしまう事でひとときの心の平安に浸る。

 一方、日々の生活で一生懸命努力はしました、しかし結果がどうなるかは分からない。その時に神様にお祈りしお願いしてどうにもならない結果については神様にお預けしてひとときの心の安らぎをいただく。神様へのお願いにはそんな効果が有るんでしょうね。



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始めに言葉有りき

2024年08月31日 | 日記
始めに言葉有りき

 世の始めに、すでに言葉(ロゴス)はおられた。言葉(ロゴス)は神とともにおられた。言葉(ロゴス)は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの1つもない。この方は命を持ち、この命が人の光であった。この光はいつも暗闇の中に輝いている。しかし暗闇のこの世の人々は、これを理解しなかった。そこで1人の人がこの世に現れた。神から遣わされたのである。その名はヨハネ(このヨハネはバプテスマのヨハネでしょうね)。 ヨハネ福音書(岩波クラシックス 新約聖書 福音書)

 私は「始めに言葉有りき」の文言だけを憶えていまして、それはそうなんだろうねと思っていました。しかし最近、おや?と思い至ります。

 言葉は人と人のコミュニケーションに使うもの。ですから言葉よりも先に何かが有る筈、だから言葉が最初じゃ無いよね。では言葉よりも先に有るものとは何?まず言葉よりも先に記憶が有りますよね。人は記憶を言語化して家庭や社会で人に伝えようとしますでしょう。言葉を持たない犬だってご主人の顔や声や雰囲気を記憶していて、それでご主人に懐きますでしょう。記憶が言葉よりも先ですよね。では記憶よりも先に有るものとは何?それは認識ですね。認識の主観は認識の対象を認識し、そこで認識の表象を作ります。そして認識の表象を記憶し、それを更に言語化して家庭や社会で人に伝えます。ですから

 認識→認識の表象→記憶→言葉、の順でしょうね。

 それではどうして「始めに言葉有りき」となっているのでしょうか。これを翻訳の問題とするならば。

 「言葉(ロゴス)」を「意識」に置き換えるとどうなりますでしょうか。

 世の始めに、すでに意識はおられた。意識は神とともにおられた。意識は神であった。この方は世の始めに神とともにおられた。一切のものはこの方によって出来た。出来たものでこの方によらずに出来たものは、ただの1つもない。この方は命を持ち、この命が人の光であった。この光はいつも暗闇の中に輝いている。しかし暗闇のこの世の人々は、これを理解しなかった。そこで1人の人がこの世に現れた。神から遣わされたのである。その名はヨハネ(このヨハネはバプテスマのヨハネでしょうね)。 これでだいぶん分かり易くなりましたね。

 ヨガでは解脱体験をしますと、それは真っ白な光であり、またその光を見る者です。それをサット(有る事)チット(有る事を知る事)アーナンダ(有る事を知る事で湧き上がる歓び)と表現します。そこで先程の「意識」を「霊性」と置き換えても良いでしょうね。

 ヨハネ伝、その「始めに言葉有りき」の「言葉(ロゴス)」を「意識」に置き換えますとそれはそのままインドのヴェーダーンタ思想になります。ヴェーダーンタ思想では意識(ブラフマン=アートマン)だけが実在し、意識が心を作り心が世界を作ると言います。

 結局、宗教はひとつなんですね。

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失楽園?

2024年08月17日 | 日記
失楽園?

 旧約聖書の創世記に有るのだそうですが、原初の人間であるアダム(男)とエバ(女)は蛇に騙されてエデン(歓喜)の園に生えている(善悪を知る)知識の木、その木の実を食べ、お互いが男女であることを知り、恥ずかしさの余りイチジクの葉で陰部を覆ったと言います。これは性欲を覚えたと言う事なのでしょうが、それが人間の原罪であるとして2人はエデンの園を追放されたと言います。ここで原罪とは(知識の木の実を食べるなと言う)神の命令に背いた事なのか男女の別(SEX)を知った事なのか分かりませんが、まあ、性欲を覚えたと言う事なのでしょう。しかしこれが善悪の悪?そして罪?

 食欲も性欲も神に与えられた本能でしょう、それが罪とは如何なものでしょうか。最近思うのですが食欲と性欲と良い睡眠の3つが人生の根本でして、その根本を罪として否定するなんてひどい話ですよね。性欲の抑圧を主張するヨーロッパのキリスト教(イエス・キリストでは無く)や精神分析、これは間違っていますね。

 翻ってインド思想はどうでしょうか。ヨガの哲学であるサーンキヤ哲学ではプルシャ(霊性、意識)とプラクリティ(現象世界)の2つが世界を構成します。ここでプルシャは男性名詞、プラクリティは女性名詞だそうです。人間の心も体も環境世界も全てプラクリティ(女性)の範疇に入り、そしてそれとは全く別にプルシャ(男性)が有ると主張します。このようにインド思想では男性と女性の両性が世界を構成します。そしてそれは決して罪なんかでは有りません。

 女性であるプラクリティ(現象世界)は男性であるプルシャ(霊性、意識)に対してダンスを踊って見せて「あなたはプラクリティ(現象世界)では無くプルシャ(霊性、意識)なのよ」と教え、プルシャ(霊性、意識)がそれを理解したところで解脱に到ります。そうしますとサーンキヤ哲学ではプルシャ(霊性、意識)が主演男優でプラクリティ(現象世界)が助演女優で有ると言えますね。

 そしてサーンキヤ哲学はタントラへと発展するのですが、タントラにはシャクティ信仰と言うのが有ります。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。シャクティをクンダリニーとも言いまして、クンダリニーは人体の1番下のチャクラに眠っていまして、クンダリニーが目覚めますと7つのチャクラを突破して上昇し、頭のてっぺんに居るシヴァ(シヴァ神、男性)と合体し、そこで恍惚が実現します。そうしますとタントラではシャクティ(女性パワー)が主演女優でシヴァ(シヴァ神、男性)が助演男優になっているようです。

 さて、インドの3大思想と言えばサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教でして、ヴェーダーンタ思想にも仏教にもプルシャ(霊性、意識)やプラクリティ(現象世界)と言う概念は無いのですが、その思想を説明する時にはサーンキヤ哲学の用語を駆使します。ですからインド思想では男性と女性の両性が世界を構成するのだと言っても間違いでは無いでしょう。

 ちなみにサーンキヤ哲学はプルシャ(霊性、意識)とプラクリティ(現象世界)が世界を構成すると言う二元論ですが、ヴェーダーンタ思想はブラフマン(梵、個人に内在する時にはアートマン、霊性、意識)だけが実在すると言う一元論、そして仏教は霊性も現象世界も実在しないと言うゼロ原論です。

 ところでインドの神様はだいたい男女のペアになっていますね。シヴァ神にはパールヴァティー(別名ドゥルガー、カーリー、ウマー)、ヴィシュヌ神にはラクシュミー、ブラフマー神にはサラスヴァティー、ラーマ王子にはシーター、クリシュナにはラーダーといった具合です。こんな宗教が他に有りますでしょうか。

 私は本能を善悪の悪、罪とする考えには納得出来ませんで、インドのサーンキヤ哲学こそが世界の構成を説明する1番の思想だと思っています。


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