社会に貢献?
既に会社をリタイアして20年近く経っているFacebook 友達がいまして、私の出来ないゴルフやマージャンを楽しみ奥様とは旅行や外食をし、また孫達との楽しい時間も持っている様子は喜ばしいものです。ところが私より15才年上で93才のFacebook 友達の大先輩が時々「高齢者施設に入っていて朝昼夕の食事をしているだけで何も社会の役に立っていないのが空しい」とコメントされますと、そのゴルフやマージャンの友達が「私の悩みも同じで、孫のお世話をしている時の他は何も社会の役に立っていなくてそれが空しく、なにかボランティアでもやった方が良いのだろうか」とお返事のコメントを書いています。
この2人の友達は現役時代には八面六臂の活躍をして社会に貢献し、社会に影響を与えた人達なのにリタイアするとこんな悩みが重くのしかかっているようです。これは何故でしょうね。リタイア後には給料は少なくて仕事が単純でも良いから仕事をしなさいとか、コミュニティに参加してそこでボランティア活動をしたらどうですか?と週刊誌等が提案していますね。
しかし、それが悩みの解決になるのでしょうか?私は仕事もボランティア活動もなんだか嫌です。社会の役に立っていないと個人としての価値が無いと言う押しつけがましい考え、それが今の社会の常識なのでしょうが、なにか忘れているような気がします。仕事で成功した人がその後も更に悩んでいる。この問題を解かないといけないようです。
私は30才の時にヨガに出会い、それからほぼ毎日会社が始まる前に道場へ行きヨガの練習をしてから出勤していましたが、39才の終わりの頃にヨガのサマーディ(解脱)を体験しました。私は真っ白な光で有り、またその真っ白な光を見る者である。その境地をヨガではサット(在る事)チット(在る事を知る事)アーナンダ(在る事を知る事で湧き上がる歓び)と表現しています。そしてそれが自己の本質。
これはいわゆる自己の探求ですね。しかし、この自己の探求では何が得られるのでしょうか。なんでヨガの練習をするのか。また日本仏教ではなんで坐禅をするのか。自己の本質を知った時に何が得られるのか。鈴木大拙は、得られるのは「安心」だと言っています。これ以上なにも探求する事が無いと言う「安心」。これです。
世の中には社会的な価値の他に独創の価値、存在の価値が有ります。そしてそれが分かりますと社会の役に立っていないと言う悩みも消えてしまいます。
ヨガの練習も日本仏教の坐禅も社会の役には立ちませんが、人類の役には立ちます。哲学とはそういうものでしょう。人類は何が欲しいのか、人類はいつになれば安心出来るのか。これが分かると定年後の仕事もボランティア活動も気にならなくなりますよ。
これをアメリカ風に言うならばマテリアルワールドからスピリチュアルワールドへ、なんでしょうかね。
既に会社をリタイアして20年近く経っているFacebook 友達がいまして、私の出来ないゴルフやマージャンを楽しみ奥様とは旅行や外食をし、また孫達との楽しい時間も持っている様子は喜ばしいものです。ところが私より15才年上で93才のFacebook 友達の大先輩が時々「高齢者施設に入っていて朝昼夕の食事をしているだけで何も社会の役に立っていないのが空しい」とコメントされますと、そのゴルフやマージャンの友達が「私の悩みも同じで、孫のお世話をしている時の他は何も社会の役に立っていなくてそれが空しく、なにかボランティアでもやった方が良いのだろうか」とお返事のコメントを書いています。
この2人の友達は現役時代には八面六臂の活躍をして社会に貢献し、社会に影響を与えた人達なのにリタイアするとこんな悩みが重くのしかかっているようです。これは何故でしょうね。リタイア後には給料は少なくて仕事が単純でも良いから仕事をしなさいとか、コミュニティに参加してそこでボランティア活動をしたらどうですか?と週刊誌等が提案していますね。
しかし、それが悩みの解決になるのでしょうか?私は仕事もボランティア活動もなんだか嫌です。社会の役に立っていないと個人としての価値が無いと言う押しつけがましい考え、それが今の社会の常識なのでしょうが、なにか忘れているような気がします。仕事で成功した人がその後も更に悩んでいる。この問題を解かないといけないようです。
私は30才の時にヨガに出会い、それからほぼ毎日会社が始まる前に道場へ行きヨガの練習をしてから出勤していましたが、39才の終わりの頃にヨガのサマーディ(解脱)を体験しました。私は真っ白な光で有り、またその真っ白な光を見る者である。その境地をヨガではサット(在る事)チット(在る事を知る事)アーナンダ(在る事を知る事で湧き上がる歓び)と表現しています。そしてそれが自己の本質。
これはいわゆる自己の探求ですね。しかし、この自己の探求では何が得られるのでしょうか。なんでヨガの練習をするのか。また日本仏教ではなんで坐禅をするのか。自己の本質を知った時に何が得られるのか。鈴木大拙は、得られるのは「安心」だと言っています。これ以上なにも探求する事が無いと言う「安心」。これです。
世の中には社会的な価値の他に独創の価値、存在の価値が有ります。そしてそれが分かりますと社会の役に立っていないと言う悩みも消えてしまいます。
ヨガの練習も日本仏教の坐禅も社会の役には立ちませんが、人類の役には立ちます。哲学とはそういうものでしょう。人類は何が欲しいのか、人類はいつになれば安心出来るのか。これが分かると定年後の仕事もボランティア活動も気にならなくなりますよ。
これをアメリカ風に言うならばマテリアルワールドからスピリチュアルワールドへ、なんでしょうかね。