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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

和歌山観光

2022年12月20日 | 日記
和歌山観光

 全国旅行支援を利用して和歌山へ観光に行って来ました。パッケージツアーでしたが参加者は78名、こんなに大勢のツアーは初めて、客達は2台のバスに分乗し、そのバス毎に1人の添乗員がついてガイドもしてくれます。

 1日目、曇り、強風。昼食のあと和歌山の海岸線の観光、そしてホテルへ。白崎海洋公園は雪のように白い石灰岩に囲まれた広大な広っぱで、私達は展望台に向かって坂道を登って行きますが凄い風、風に身体を持って行かれそうです。手摺りの向こう、右手下の波打ち際では、こんな所で新婚さんとカメラマン数人が結婚の記念撮影をしています。岩の上で寒かろうし、ウエディングドレス姿の新婦さんが風で吹き倒されるのでは無いかと心配しました。

 2日目、晴。熊野三山巡りをしました。熊野本宮大社(主祭神はスサノオ)、熊野速玉大社(主祭神はイザナギ)、熊野那智大社(主祭神はイザナミ)を順に参拝します。伊勢神宮が天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祭っていますから、ここでは天照大御神は主祭神を外れているのでしょうか。

 熊野本宮大社へは参道の石段を158段登りますが、結構きつかった。主祭神はスサノオだそうですが拝殿は5つあり、好きな神様を拝めば良いそうです。私達夫婦は5つの拝殿に2礼、2拍、1礼しました。皆さんは八咫烏(やたがらす)の画を写真に撮っていました。

 熊野速玉大社への参道に石段は無く、気持ちも軽く歩く事が出来ました。拝殿の手前左には樹齢1000年と言われる梛(なぎ)の御神木が有りました。主祭神はイザナギだそうですが拝殿は4つ有り、どれでも好きな神様を拝めば良いそうで、私達夫婦は4つの拝殿で2礼2拍1礼をしました。面白いと思ったのはイザナギの拝殿よりイザナミの拝殿の方が大きかった事です。女性の神様の方が人気が有りそう。

 那智の滝。落差133mの日本一の滝だそうです。スマホで写真を撮っていましたら滝に虹が掛かり、虹を背景に写真を撮りました。メンバーの1人が玉串を捧げると言うので、皆が神主さんの祝詞を拝聴しました。

 熊野那智大社は凄い所に有りました。参道は400段の石段になっており、これを登るのです。杖も用意されていて妻はこれを使います。休み休み登るのですが、キツイのなんの。この日の夜には右膝裏の外側の筋が痛み、ホテルの階段を降りるのに難儀しました。腰も痛んだ。なんとか400段を登り切りますと拝殿は5つ有り、主祭神はイザナミだそうですがどの神様を拝んでも良いそうで、私達夫婦は5つの拝殿で2礼2拍1礼をしました。展望台からは左前方に三重塔、右前方には那智の滝を望み、これを背景に写真を撮りました。

 熊野古道を約20分程歩きました。熊野古道に入りますとすぐに南方熊楠が3年間滞在したと言う旅館跡が有りました。苔の菌を研究し、また神社やお寺の静謐さと清潔さを大切に思い、その面積が小さくなるのが耐えがたく廃仏毀釈に猛反対した南方熊楠の面目が熊野古道を歩いていると良く分かります。鈴木大拙も、神道には独自の哲学は無いけれど神社の静謐さと清潔さは評価に値(あたい)すると言っていましたね。

 熊野三山巡りで感じた事。夫々に主祭神は有るものの、好きな神様を拝めば良いと言うのはインドの信仰にも通じるところが有ります。そして、昔の人達は余程に階段を登るのが好きだったようです。長い長い階段を登ると言う苦行の先に拝殿が有るので達成感を得る事は出来ますが、これはブッダの教えに反していますよと愚痴を言いたくもなりますし、もう1度は行きません。

 3日目、雪と雨。高野山の観光。昨日は神道、そして今日は仏教の聖地です。奥の院、金剛三昧院、壇上伽藍を拝観しました。

 奥の院(空海のお墓が有る所)への長い参道の両側には古来からの有名な政治家や企業家のお墓が並んでいます。現地ガイドが嬉しそうに案内をするのですが、面白くは有りません。高野山のお墓に入るのが政治家や企業家のステイタスなのでしょうか。私には人間の欲が聖地を汚しているようにしか見えません。奥の院は写真撮影は禁止でした。そして折角の奥の院参拝でしたが、俗臭ぷんぷんの現地ガイドの解説にはうんざりでした。空海が泣いておるぞ。まあしかし、有名な高野山ですから俗人達を集める力も有るんでしょうね。

 金剛三昧院。本堂では源頼朝と北条政子の位牌が特別公開されていました。でも、あまり有難く無かった。そして国宝多宝塔、雨が降っているので本堂のひさしの下で雨を避けながら国宝多宝塔の写真を撮りました。金剛三昧院はインドの言葉ではヴァジュラ サマーディ バーヴァンになるのかなと思ったりしました。

 壇上伽藍。空海が高野山で初めてお寺を建てたのがここだそうです。朱色の根本大塔の写真を撮ろうと雨を避けて本堂のひさしの下でスマホを構えていましたら突然の大きな鐘の音にびっくりしました。私の右前に鐘楼が有り、そこでお坊さんが鐘をついたのでした。

 高野山の参拝で感じた事。奥の院では俗臭ぷんぷんの現地ガイドの解説にうんざりしましたし、金剛三昧院では源頼朝と北条政子の位牌の写真を撮り、本堂のひさしの下で国宝多宝塔の写真も撮りました。そして壇上伽藍でも根本大塔の写真を撮りました。しかし。しかし。この3か所を巡っていて、空海の教えはちっとも沁みて来ませんでした。福井に有る道元の永平寺の方が俗から離れていて良いですね。空海の教えは本で勉強しましょう。

 まあしかし、全国から観光客を集め、またそのお相手を生業とする人達を生かす、そんな力量が今も空海には有るのですね。そう思いましょう。









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世界は認識論で出来ている

2022年12月03日 | 日記
世界は認識論で出来ている

 哲学とは詰まるところ認識論のようですね。

 認識には認識の主観と認識の対象と認識の表象が有りますが、人は見たいようにものを見ますので認識の対象と認識の表象とは別物。そこでこの認識の主観と対象と表象の3つの関係について人々は長く悩んで来ました。真実はどこに有るのか。

 古典的な西洋の哲学では認識の対象に神を介在させて絶対的なものとし、この絶対的な認識の対象に対していかに認識の表象を近づけて一体化させるかの努力をして認識の対象と認識の主観の一致、つまり神と人間の合一(神を知る事)を目指したのでしょう(レヴィ=ストロース以降認識の対象は神とは切り離されますが)。

 一方でインドでは認識の主観にも対象にも表象にも神を介在させません。認識の対象が西洋哲学では絶対的なのに対してインド哲学では相対的と言えますね。また西洋哲学は推理哲学ですがインド哲学は体験哲学です。

 ヨガはインド思想の根本で有り、インドではヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解しどう説明するかで色々と思想を展開します。

 インドのサーンキヤ哲学はヨガの哲学で有り、ヨガの実践方法を示すヨーガスートラはこのサーンキヤ哲学を背骨にしています。サーンキヤ哲学は二元論です。世界の大元にプルシャ(絶対主観、真我、魂)とプラクリティ(物質原理、現象世界)を立てます。プラクリティはプルシャに対して現象世界の展開を踊って見せ、あなたはプラクリティでは無くてプルシャなのよと教え、プラクリティの展開を見ているだけのプルシャは自分がプラクリティでは無くプルシャである事を知ります。そしてこれを解脱と言います。

ここで大切なのは、心と身体と環境世界は全てプラクリティ(現象世界)の範疇に有り、それとは全く別にプルシャ(絶対主観、真我、魂)が存在すると言う事です。サーンキヤ哲学は「有」の哲学です。お話を先程の認識論に戻しますと、認識の主観も対象も表象も全てプルシャとプラクリティの範疇に入り、そして実在すると言う事です。ここでは心は身体の一部である事を押さえておきましょう。

 次にヴェーダーンタ思想。ヴェーダーンタのンタは最後のとか終わりのとか言う意味だそうでして、ヴェーダの最後の思想と言う事になります。先程のサーンキヤ哲学はクシャトリアの思想でしたがバラモンはこの思想を取り込んでバラモンの思想と認定し、更にはサーンキヤ哲学を叩き台にしてヴェーダーンタ思想に発展させます。ヴェーダーンタはウパニシャッドとも言いまして、「有」の哲学の一元論です。

 ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解してどう説明するか。ヴェーダーンタ思想では認識の対象、つまり現象世界をマーヤー(幻)であるとして退けます。現象世界は幻で有ってその本質はブラフマン(梵)、そしてブラフマン(梵)が個人に内在する時、それをアートマン(絶対主観、真我)と呼びます。ヴェーダーンタ思想はブラフマン=アートマンの一元論です。そしてアートマンはサーンキヤ哲学のプルシャの事です。

 お話を先程の認識論に戻しますと、ヴェーダーンタ思想では認識の対象(現象世界)はマーヤー(幻)ですので実在しません。そして認識の対象がマーヤー(幻)ですから認識の表象もマーヤー(幻)と言う事になります。実在するのは認識の主観だけ。そして認識の主観とは言いますがこれは心の働きでは無くここでは絶対主観、魂、アートマンの事です。ヴェーダーンタ思想では意識(霊性)が心を作り心が現象世界を作りますから意識(霊性)だけが実在です。

 私はヴェーダーンタ思想よりサーンキヤ哲学が好きですね。

 ヨガのサマーディ(解脱体験)をどう理解してどう説明するか。原始仏教の肝は縁起説法と無常説法です。縁起説法とは縁によって起こる、つまりAによってBが起こりBによってCが起こり・・・EによってFが起こる。ここでFは苦で有り、Aはそもそもの苦の原因です。因縁の因(直接の原因)と縁(間接の原因)とによって世界は作られる、つまり現象世界は因と縁とで編み上げられた仮の姿と言う事になります。ここで因と縁とによって編み上げられた手毬を想像して見ましょう。因と縁とで編み上げられた手毬の中は空っぽ、これを空の思想と言います。そして恐ろしい事に、手毬の中には魂(霊性、絶対主観)も有りません。

 そして仏教の無常説法、これは私の考えでは認識の過程をも示しています。時間とは経過では無く変化。認識作用は一瞬の事ですがそこには変化(時間)が有り、認識作用が止まると世界は一瞬にして消滅します。

 お話を先程の認識論に戻しますと、仏教の縁起説法や無常説法によりますと認識の対象は因と縁とで編み上げられた仮の姿ですから実在はしません。ですから認識の表象も実在せず、そして恐ろしい事に認識の主観も(手毬の中は空っぽですから)実在しない事になります。これはヴェーダーンタより一歩踏み込んだ考えですね。

 ここでインドの3大思想のサーンキヤ哲学とヴェーダーンタ思想と仏教とを認識論で整理して見ますとサーンキヤ哲学は認識の主観も対象も実在するとする二元論の「有」の思想、ヴェーダーンタ思想は認識の主観だけが実在するとする一元論の「有」の思想、そして仏教は認識の対象も主観も実在しないと言う「空」の思想と言う事になります。

 ここでお話を変えましょう。輪廻転生の考えはインド思想の前提として有ります。そうしますと、「有」の哲学であるサーンキヤ哲学やヴェーダーンタ思想では輪廻転生をすんなりと理解出来るのですが「空」の哲学である仏教では何が輪廻転生するのでしょうか。

 大乗仏教がタントラ化する直前の頃だと思うのですが、仏教には瑜伽行派の唯識説と言うのが有ります。それによれば認識の主観も対象も実在せず、認識の表象のみが実在する、そして認識の表象と阿頼耶識(記憶の倉庫)との永遠の循環だけが輪廻転生すると言う主張のようです。これはどう考えても頭の使い過ぎ、考えすぎ、やりすぎだと思うのですが、これが認識論の行き着くところなんでしょうか。

 サーンキヤ哲学をバックボーンに持つヨーガスートラはこの唯識説を否定していますが、瑜伽行派の唯識説は認識論としては大変面白く、認識論に大きな興味を持たせてくれます。

 哲学には認識論だけで無く色々なアプローチが有るのでしょうが、宗教と哲学と認識論の関係は大変面白いですね。西洋の宗教は神を絶対的存在として人間と切り離しますがインドの宗教では神は自然の中にも人間の中にも普遍的に存在しますから「私とは何か」を追及する事で神を追及します。そして私はこのインドの考え方が好きです。












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木原不動尊

2022年11月13日 | 日記
木原不動尊

 木原不動尊、正しくは木原不動尊 雁回山 長寿寺と言います。平安時代の末期、保元・平治の頃、源為朝(鎮西八郎為朝)が熊本は木原山に城を築き、木原山の空を飛ぶ雁を弓矢で射落としていました。それが余りにも命中するので空を飛ぶ雁達は射落とされまいと木原山の上空を迂回して飛ぶようになり、雁が迂回して飛ぶ為に木原山は雁回山と呼ばれるようになったと言います。

 木原不動尊はおよそ1,200年前伝教大師最澄の御作と伝えられる不動明王を御本尊としており、千葉の成田不動尊や東京の目黒不動尊と共に日本三大不動と称されているようです。

 さて、私の父方の祖父前田十次郎は雑貨問屋を営む一方多趣味で、野鳥の餌付けをしたり絵を描いたりしていたそうで、この木原不動尊の本尊の画を描き、それを小さな掛け軸にしていました。私の父前田正二はこの掛け軸をうちの壁に掛け、毎朝それに向かって般若心経を唱えていました。平成10年に父が84才で亡くなりますと私はこの小さな掛け軸を自宅に持ち帰り、祭壇の中に24年間保管していました。そして最近、

 私が死んだあとにこの掛け軸はどうなる事だろうと思うようになり、これはやはり木原不動尊に奉納するのが良いだろうと心に決めました。

 10月も末になり、インターネットに木原不動尊の電話番号が有りましたので電話してみました。電話を取った方に事の次第をお話ししますと「いついらしても良いですよ」と言われます。本人はご自分を住職だとは言われませんがきっとお寺のご住職でしょう。これで後戻りは無し。

 10月11日から全国旅行支援が始まると言うので私は前日の10日に、11月7日から3泊4日で熊本へ行くよう楽天トラベルに飛行機とホテルの予約を入れました。そして翌11日の朝にインターネットを開きますと「募集は終了しました」の文字が。なんだこりゃ!まるで詐欺のような仕組みのようです。まあ、値引きのサービスが無くても熊本には行きたいし、また政府も予算の追加を検討していると言うので予約はそのままにして毎朝ネットをチェックする事にしました。

 そして何の変化も無く時は過ぎましたが、11月2日、楽天トラベルから「もう1度申し込みボタンを押して下さい」とのメールが入り、私は個人ページで申し込みのボタンを押しました。すると翌朝個人ページを開きますと「値引き完了」と表示が変わっています。そして画面を下に降ろしてみますと当初金額の64,400円が39,900円に値引きされているでは有りませんか。やったあ!待ってみるものですね。そして更にはホテルのフロントでは9,000円のクーポンをくれる筈です。木原不動尊が私を呼んでいる、何の因果関係も無いのに私はそんな気がしました。

 11月7日の夕刻、熊本のホテルにチェックインしますと翌日13時のタクシーの予約をお願いしました。観光タクシーはクーポンを使えないけど一般のタクシーはクーポンが使えるそうで、一般のタクシーをお願いしました。

 11月8日午後1時、若いタクシーの運転手は「私は経験が浅いのでカーナビを使っても良いですか」と聞きます。勿論!タクシーは南へ向かい、白川を渡り更に2つの川を渡って田園風景の中を走ります。前方に丘のような小山が見えますのであれかな?と思っていますとそこが木原不動尊でした。正門をくぐり正殿の前でごめん下さいと声を掛けますとご住職が現れました。あの日電話を取ってくれた方でしたので説明は不要、お寺に上がりご住職に持参した小さな掛け軸をお手渡しし、運転手さんに写真を撮って貰いました。そして掛け軸を広げて画が写るようにもう1枚。

 広げた掛け軸の画を見たご住職は「足の形と言い手の形と言い、またお顔もご本尊にそっくりですね、これはコピーに違い有りませんね」と言われます。でもこれ、明治時代の画ですよ。あの頃に精密な写真は無かったでしょうし、コピー機だって無かったでしょう。私が入社した昭和44年でもコピー機と言えばリコピーと言う湿式の青焼きでした。私は敢えてご住職に反論はしませんでした。

 インターネットで見ましたが奥の院が有るそうですねと聞きますとご住職は「はい、どうぞ行って下さい」とタクシーの運転手さんに道を教えてくれました。車がやっと1台通れるような、しかも危うく脱輪しそうな細道を登って行きますと奥の院は有りました。そこには野ざらしの諸仏が沢山並んでいます。諸仏の写真を撮っていますと横には祠が有って引き戸が閉まっていました。運転手さんと2人で開けてみましょうねと開けて見ますと色彩豊かな諸仏が5体並んでいます。上がってみましょうねと2人で上がり、2人で写真を撮りました。

 ご住職にいただいたパンフレットによりますとこの5体は阿弥陀如来・脇士観世音菩薩・勢至菩薩・不動明王・毘沙門天だそうです。

 祖父の描いた画を木原不動尊に奉納出来た私は達成感と共にタクシーでホテルへ戻りました。そして往復のタクシー代は9,310円、なのでクーポンを使って私が払ったお金は僅か310円でした。

 さて、翌9日の夜には小中学校からの友人UKと4年ぶりに会いました。そして今回私が熊本へ来たのは祖父の描いた画を木原不動尊に奉納する為だったのだと言いますと友人UKは意外な事を言います。彼の家は曹洞宗なのだが何故かおじいさんの代から代々毎月28日には木原不動尊にお参りしているのだそうです。不思議な縁ですね。









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オンベレブンビンバ

2022年10月02日 | 日記
オンベレブンビンバ

 9月25日放映のNHK大河ドラマ「鎌倉殿の十三人」の題は「オンベレブンビンバ」でした。

 北条時政は若い妻に煽られて源実朝を廃して自分達の娘婿を鎌倉殿に就かせようと謀反を決意するのですが、若い妻も好きだが今ではおじさんおばさんになっている子供達との縁も大切、そこで事を起こす前に子供達の所へ酒と肴を持参して思い出話に盛り上がります。そこで時政が「オンベレブンビンバ」と謎の言葉を発し、子供達が「なにそれ」と聞きますと時政は今は亡き源頼朝と政子の娘の大姫が爺様(時政)にこれを唱えれば良い事が起きると教えてくれた呪文だと言います。子供達の義時、時房、政子、実衣達は「それは違う、確かこれこれだった」と皆が大外れ、そこに長澤まさみのナレーションが入り、「正しくはオンタラクソワカ、である」。時政の謀反前の、もう2度とは取り返せない穏やかなひと時でした。

 さて「正しくはオンタラクソワカ」、これ、正しくはオーム タラク スヴァーハーですね。オームはインドの聖音、タラクは虚空蔵菩薩、そしてスヴァーハーは供物を火にくべる時の合図ですから「オーム 虚空蔵菩薩様 供物をご嘉納あれ!」の意となります。スヴァーハーは造物主プラジャーパティーの娘で火神アグニと結ばれますので、バラモンはお祈りの最後に供物を火にくべる時にスヴァーハーと唱えます。

 私の日本ゴーシュ・ヨガ道場ではシヴァ神の事を先生はタラクナートと呼んでいました。タラクナートのナートは神ですが、タラクとは何だろうと梵字手帳と言う本で調べた事が有ります。そこにはタラクとは虚空蔵菩薩の種子文字と有りました。

 しかし何故シヴァ神の事をタラクナートと呼ぶのでしょうか。私は34才の時に初めてインドを訪問しましたが、ヴァラナシ(ベナレス)で現地ガイドのK・K・シンさんに何故シヴァ神の事をタラクナートと呼ぶのか聞いてみました。シンさんはしばらく考えたあとに教えてくれました。ラーマクリシュナがヴァラナシ(ベナレス)を訪れた時にガンジス川のマニカルニカ・ガート(死体を焼く川岸の石段の場所)に居ましたらそこにシヴァ神が現れ、シヴァ神がタラクのマントラを唱えると死者達が天国へ昇って行くのをラーマクリシュナが見た。それ以来シヴァ神の事をタラクナートと呼ぶようになったのだそうです。

 私の頭の中でオンベレブンビンバからオンタラクソワカ、そしてオーム タラク スヴァーハーへと展開して「オーム 虚空蔵菩薩様 供物をご嘉納あれ!」となり、更には何故シヴァ神の事をタラクナートと呼ぶのかに至ったのが面白く、事の次第をFacebook に書いてみましたらまあまあ評判が良い。

 そこで調子をこいて今度はLine 友達のSIにこの話をし、お友達にも教えて下さいねと送信したところ、「あの~、この話題オンタラクソワカは小生の家族含め興味を持つ知人はゼロなんだけど(ゴメン)。そう言えば政子とか北条一族がそれぞれ適当に言っていたっけ。」とつれない返事。そして更には「あなたの奥様も関心無いでしょ!」と追い打ちを掛けられてがっくり。あまりに淋しいので「サイの角のように独り行け(by スッタニパータ
、原始仏典)」と送信したら「私をノイローゼにさせないで!」の返事で万事休す。

 まあ、元々がお遊びなんだから と気を取り直しております。



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宗教と信仰

2022年09月11日 | 日記
宗教と信仰

 宗教とは自己の探求(私とは何か)で、信仰とはそれを神様にお預けする事ですね。

 中東や西洋では宗教とは人間の力や自然の力を超えた存在を神として敬う事のようで、神の指示に従う事で望みを聞いていただくと言う、ある種、契約のようなもののようですが、インドや日本のように緑豊かな地域では宗教の概念が異なりまして、自然の中にも神は有り自己の中にも神は有る、なので宗教(神を求める事)とは自己の探求(私とは何か)となるのですね。

 宗教には救いを求めるのだと言う人も有るようですが、これはどうでしょうか。貧困、病気、不仲に新興宗教は付け入るのだそうですが、宗教によってお金持ちになったり病気が治ったり不仲が解消する事は有りません。良く働いて貧困を脱し、病院で病気の手当てをし、不仲の人とは縁を切り、穏やかな気持ちになりリラックスしてから自己の探求は始まります。おなかが空いている時、あちこち痛い時、喧嘩をしている時には自己の探求等思い付きもしませんね。

 また以前に自分は仏教に帰依していると言う人が利他の行いを続けて徳を積むのだと言うのを聞いて何だか違うなと思いながらも何が違うのか言葉に出来ずにもやもやしていました。が、今は分かります。

 覚者は自我意識が消滅しますから、ラマナマハリシが言いますように一人称が無くなれば二人称も三人称も無くなって世界はひとつ、なので利己も無ければ利他も無い、覚者にとっては利他も無くそれは我が事なんですね。ですから利他と言う言葉には意味が有りません。利他の行いと言う鼻につく偽善がやっと分かった次第です。さて、それでは信仰とは。

 信仰とは自己の探求(私とは何か)を神様にお預けする事です。

 鎌倉時代の道元と親鸞を思い出して見ましょう。道元は曹洞宗、禅の人、そして親鸞は浄土真宗、念仏の人ですね。道元は只管打坐によって自己の探求をしました。毎日毎日座禅を組むのですから一般の人にとってはなかなか難しい難行と言えますね。そして本当はこれしか道は有りません。しかし親鸞は念仏を唱えれば阿弥陀仏が西方浄土へ連れて行ってくれるのだと念仏の効用を唱えました。禅の修行は難しくて肩の荷が重い、その肩の荷を阿弥陀仏に背負って貰おう、自己の探求は難しくて肩の荷が重い、その肩の荷を神様にお預けてしまおうと言う訳ですね。これを親鸞は易行と言います。

 私は解脱を得ると言う事では達成可能な禅の方が易行で念仏の方が難行だと思っていましたが、肩の荷を下ろすと言う意味では念仏も有効、これを信仰と言うんでしょうね。インドのヨガではすべてを尽くしたあと神様にお任せする事をイシュワラプラニダーンと言います。



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