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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

アーサナの効用

2022年08月28日 | 日記
アーサナの効用

 佐保田鶴治さんがヨガのアーサナ(ヨガのポーズ)の効用について述べておられました。瞑想だけをしていると体を壊す、病気になる。なのでアーサナで体を健康に保ち、病気にならないようにしながら瞑想をするのだと。それは全くその通りですね。

 しかし意地悪に見方を変えると別の面が見えて来ます。佐保田鶴治さんの説ですとここでは健康は体の範疇で、瞑想は心の範疇のように見えますね。英語でボディ アンド ソウル(身も心も)とかボディ アンド マインドと言いますし日本語でも心と体と言いまして心と体を対立させて考えますが、それで良いのでしょうか。そしてまた私達は何となく、心は体より上位に有ると思っていますよね。しかし。

 心は体の一部です。

 トイレを我慢しながら瞑想が出来ますでしょうか。また膝や腰が痛い時はリラックスしての瞑想など出来ませんね。先ずは体を整えてからの瞑想、アーサナで体を整えてリラックスしますと心もリラックスしますから何の邪魔も無く瞑想に入れます。心は完全に体と繋がっていますし、そして心は体の一部です。ですからアーサナの効用は病気を防ぐだけで無く、体をリラックスさせると同時に心をリラックスさせて瞑想に入らせる所に有ります。

 次に瞑想とは

 辞書で瞑想を引いてみますと、目を閉じて雑念妄想を退けて、深く考える事と有ります。そうしますとヨガの瞑想は瞑想では有りませんね、ヨガの瞑想とは雑念にしろ深い考えにしろ、思いを止める事、思いを消滅させる事ですから。ヨガの瞑想は瞑想と言うより呼吸法(プラーナヤーマ)と呼んだ方が良いようですね。呼吸法(プラーナヤーマ)が進むと想念が止まります。また究極の呼吸法(プラーナヤーマ)とは息を止める事だそうです。そして瞑想、呼吸法には心と体のリラックスが大切です。

 さて、呼吸とは体の働きだけでしょうか、それとも心の働きも含むのでしょうか。呼吸はもちろん体の働きでは有りますが、漫画の鬼滅の刃で「全集中、水の呼吸!」と言いますように、呼吸は気でも有りますね。気が働く、気(呼吸)は体と同様に心の働きでも有ります。

 ヨガではプラーナヤーマ(呼吸法)からプラティヤーハーラ(制感、環境世界からの刺激への無反応)→ダーラナ(集中)→ディヤーナ(集中の持続、瞑想)→サマーディ(解脱)へと続きます。そしてついにサマーディ(解脱)を得たならば。

 一旦サマーディ(解脱)を得ますと、ヨガの練習ではアーサナを飛ばしても良いでしょうかね。アーサナの効用もここまででしょうか。そして更には呼吸法(プラーナヤーマ)も飛ばして良いかも知れません。今風に言うならばショートカット。

 ラーマクリシュナもラマナマハリシもアーサナやプラーナヤーマの練習ををやっていたとは伝記にも書いて有りませんし。

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感情の消費

2022年07月17日 | 日記
感情の消費

 2月24日、ロシア軍がウクライナへ侵攻すると言うまさかの事件が起こりました。テレビニュースを観ていますとロシア軍の空挺部隊やらヘリコプターやらがウクライナのあちこちで作戦を展開しています。プーチン大統領が核兵器の使用をちらつかせた数日後の事で、ウクライナは3日くらいで制圧されるだろうとの印象を受けましたが3日経ってもウクライナは落ちない。そして1週間が経った頃、このままテレビを観ているだけで良いのかと思い、ウクライナ緊急支援をやっているNPOに僅かですが10,000円の寄付をしました。そして半年近く経ちますと興奮は収まっていて、今後の世界情勢を占っている私。

 驚き→怒り→悲しみの感情は花火のように打ちあがっては静かに消えてゆきます。

 4月23日、知床岬のあたりで遊覧船のKAZUⅠが沈没する事故が起こります。海面に落ちれば数分で意識を失うと言う過酷な状況の中で荒れた海での救助は進まない。2019年の6月にうちの夫婦と友達夫婦の4人で伊勢志摩の鳥羽湾でKAZUⅠと似たような遊覧船に貸し切り状態で乗りました。その時にも船長さんを頭から信じていましたし、沈没の様子をありありと思い浮かべますと事故の悲惨さが身に迫って来ます。あの時は救命胴衣も着けていなかったなあ。そして昨年の11月にはオホーツク紋別のツアーに参加して知床岬を遥かに眺めもしました。なので、なんだかKAZUⅠの事故を我が身に引き寄せているかのような気持ちでした。が、

 驚き→怒り→悲しみの感情は花火のように打ちあがっては静かに消えてゆきます。

 7月8日のお昼頃に友達からLINEが入りまして、安倍晋三さんが銃撃を受けたらしい。テレビをつけてみますと犯行現場の様子をありありと伝えています。拳銃で撃たれた、いや散弾銃で。NHKのインタビューを受けた2人の女子高生が適格に事件の様子を伝えていました。犯人はバズーカ砲のような物を持っていて1発目は大きな煙が出た。そして2発目では火を噴き煙も出て安倍晋三さんが倒れた。そうか、拳銃ならば右翼か暴力団の仕業?また凶器が散弾銃ならすぐにSPの目にとまる筈だし、どう言う事?そして心肺停止の報道が。しかし外交で評価の高かった元総理大臣が暗殺されるとは、これは国際ニュース、どうなっているのよ。

 特定の宗教団体に恨みを持つ犯人がどう言う訳か安倍さんを標的にした私怨による犯行で、政治思想によるものでは無いとはあとで分かりましたが、どうして警察やマスコミが統一教会の名前を隠したのかが分かりません。また映像を見ていますとSPがみんな前を向いていて、これは杜撰。そして犯行の凶器は自家製の、拳銃の形をした散弾銃だとも分かりました。テレビ西部劇の「拳銃無宿」でスティーブ・マックイーンが持っていたランダル銃みたいな物か。

 しかし、事件から1週間も経ってテレビニュースでこの暗殺事件をやっていますと、まだやってると思う私。

 驚き→怒り→悲しみの感情は花火のように打ちあがっては静かに消えてゆきます。

 こうして自分の心を観察していますと、心はいつも「感情を刺激して欲しい」と、感情の対象になる事象を求め続けている事が分かります。これはインドで言うモンキーマインドですね。果実をひとかじりした猿はもう次の果物に手を伸ばしている。私達は次々に起こる驚き→怒り→悲しみへと変化する感情が正義感に裏打ちされた感情の発露だとは思いがちですが、なんと愚かなモンキーマインドによる感情の消費でした。

 ヨガと言う言葉には馬を馬車に繋ぎ止めると言う意味が有るそうですが、私もモンキーマインドに引きずり回されず、モンキーマインドを飼い慣らすようにしたいです。






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発音が変

2022年07月13日 | 日記
発音が変

 6月の中頃でしたが、夕食を食べていたら右下の歯の銀色のかぶせ物が取れてしまいました。何年前に治療したのかも憶えていませんが今は虫歯でも無く、痛くも何とも有りません。しかし取れた物を放って置くのも良く有りませんし、歯医者さんに予約を入れる事としました。これまで掛かっていた歯医者さんはご高齢と腰痛のためにリタイアされていましたので、最近開業された歯医者さんに電話です。

 6月28日の夕方に新しい歯医者さんへ行きますと、さすが、機材が新しい。治療台はうしろに倒れるだけで無く椅子自体が適当な高さまで上がりますし、先生の椅子も有ってそれが自動的に高さを調整します。これなら先生の腰に負担も掛かりませんし大進歩。先生は私の口の中を観察して治療方針を考え、次回は麻酔を打って歯を削り整え、その次には金属を新しくかぶせましょうと言ってくれました。

 そして安倍晋三さん暗殺事件の有った7月8日の夕刻、心はざわざわしていましたが歯医者さんへ出かけました。

 先生は歯茎に麻酔の注射を打ち、歯の黒い所を削り整え、歯形を取り、仮の樹脂製のかぶせ物をしてくれました。機材が新しいので削っている感じもしませんし、また唾液を吸い取る装置もノーストレス、以前は唾液で溺れそうになったものです。思い出せば子供時代の歯医者さんは怖かったですね。歯を削っていると頭蓋骨がガアガアと振動しましたし、またこれが神経に触るとまあ痛かった事。歯医者さんも大進歩で有ります。そして次の予約は7月20日の水曜日だそうです。

 帰宅しますと夕食はピザ。遠慮なく噛んでいましたらさっきかぶせてくれた樹脂製のかぶせ物が少しばかり取れてしまいます。次は7月20日だけど、まあ、このまま持つだろう。

 それから3日後の7月11日の夕食時、しっかりと固めのハンバーグステーキを噛みしめますと、今度は何故か右下の歯に舌が触ります。そして痛い。慌てて指で触ってみますと右下の歯が刃物のように尖っていて舌にヒリヒリと触ります。どうやらかぶせてあった樹脂製のかぶせ物が取れてしまい、それを一緒に飲み込んでしまったようです。そしてかぶせ物の取れた歯が刃物のように舌を刺激しています。次の予約は9日後だけど、それまで我慢するか。

 しかし舌は遠慮無く歯に触りますし、これが結構痛い。

 寝る時にも舌は痛み、なかなか寝付けませんでした。そして夜中にも舌が痛くて何度か目を覚ましてしまいます。8日後の予約日まで我慢していたら舌はどうなるだろうか、傷ついて腫れあがってしまうかも。よし、朝になったら歯医者さんに電話をしてもっと早く診て貰おう。

 起床して顔を洗うと午前9時丁度に歯医者さんに電話をしました。事の次第を話しますと今日の10時半に来て下さいとの事。良かった、あと何日も痛みに耐えなくて済む。しかし、自分の言葉の発音が変です。舌が痛いとこうも発音が変になるのか。舌癌のタレントを思い出してしまいました。

 「急にお願いして申し訳有りません」と診察台に座りますと先生が口の中を覗いてくれ、「かぶせ物が半分無くなっていますね、これは全部取り換えておきましょう。金属をかぶせるのは次回ですね」。そして会計はたったの60円でした。帰宅すると舌に口内炎の薬を塗って一安心。

 舌が歯に当たって痛い時には我慢せず、躊躇なく歯医者さんへ行きましょう。ヨガで治そうと考えてはいけません。




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継続する「私」

2022年06月18日 | 日記
継続する「私」

 世の中の世、世代の世、世界の世、この、世の漢字は30年を表しているそうです。時代の主流はだいたい30年で入れ替わると言う考えですね。人生を30年毎に区切って10才、40才、70才の自分を振り返って見れば良く分かります。10才の私はまだ子供で勉強中、世の中から教育を受けています。40才の私はまさに社会の真ん中で世の中を背負って仕事に家庭に励んでいました。そして70才の私はリタイアして年金生活、社会の変革については次の世代にお任せです。このようにだいたい30年で世代は入れ替わりますね(バイデンさんは期限切れ)。

 さてここで世代は交代しますけれども私は私、10才でも40才でも70才でも同じ「私」(パーソナリティ)が継続して来たのが分かります。毎朝目覚めますと別人になっていた訳も無く、常に私は私でした。それではどうして私と言う主体(パーソナリティ)は継続していると感じるのでしょうか。年齢と共に身体も変わり体力も変わり考えも変わって来ましたが、そこにはいつも「私」が居ました。そして「私」とは何?

 先ずは自我意識、「我有り」と言う感覚です。これをインドではアハンカーラと言います。ラマナマハリシが言いますように、一人称が無くなれば二人称も三人称も無くなり世界はひとつになります。私が、私と他人や環境世界とを区別するが為に「私」は実現します。自我意識(アハンカーラ)は私を構成する重要な要素ですね。しかし、自我意識(アハンカーラ)だけで継続する「私」が出来上がる訳では有りません。

 それでは継続する私を特徴づける(決定づける)ものとは何でしょうか。

 それは記憶です。子供が成長して行く時に記憶はどんどん積み増して行きますね。しかし記憶がどんどん増えて行きますとそれで頭はいっぱいになりますので、そうならないように、記憶は潜在意識の中に貯蔵されて行きます。この潜在意識の事をインドではサムスカーラと言います。仏教では阿頼耶識(あらやしき)とも言うようですね。潜在意識(サムスカーラ)は時々記憶として表面化しては私達に強い印象を与えます。

 1人ひとりの経験した事の記憶がその人の人格を特徴づけまして、先の自我意識(アハンカーラ)とこの潜在意識(サムスカーラ)とがその人の人格(パーソナリティ)を決定づけると言えます。自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)が人格(パーソナリティ)に色を付けているのが分かりますね。

 私達は自我意識(アハンカーラ)と潜在意識(サムスカーラ)と今の観察とで出来ています。

 さて、ここまでで継続する「私」の正体がだいぶん分かって来ましたので、今度は意識の次の段階へ進んでみましょうか。

 ヨーガ・スートラでは最も退治する(消滅させる)のが難しいのがこの潜在意識(サムスカーラ)だと言います。心の働きを静止させ、更にこのやっかいな潜在意識(サムスカーラ)を消滅させたあとにやっとサマーディ(解脱)が実現する。そうしますとサマーディ(解脱体験)は継続する人格の消滅とも言えますね。

 解脱体験(サマーディ)の中では継続する「私」は消滅します。しかし私は解脱体験(サマーディ)の中で死んでしまう訳では有りませんで、意識はまた元の私に戻ります。インドにはジーヴァンムクタ(生きたままの解脱)と言う言い方も有ります。

 解脱体験(サマーディ)は継続する「私」からの跳躍とも言えますね。ヨガの境地を人格(パーソナリティ)の確認→人格(パーソナリティ)の消滅→消滅した人格(パーソナリティ)からの跳躍→真我(プルシャ、霊性)の輝き、とでも表現しましょうか。

 ここで見地と言いますか、見方と言いますか、立場と言いますか、他の側面からもこれを眺めて見ましょう。

 10才の私も「今」の私、40才の私も「今」の私、70才の私も「今」の私でした。ただ「今」が転変していただけ。そうしますとサマーディ(解脱体験)とは転変する「今」が転変から抜け出す事でも有りますね。






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宗教はひとつ

2022年06月01日 | 日記
宗教はひとつ

 一般的なキリスト教徒の態度はインド風に言いますとバクティ・ヨガ(親愛のヨガ)ですね。そして更にキリスト教徒の中でも深い黙想の末に想念が停止し、その際に何らかの啓示を受ける事が有るそうですが、これはインド風に言いますとジュニャーナ・ヨガ(知恵のヨガ)と言えるでしょう。

 エジプトのナイル川沿い、ルクソールの近くで発見された「トマスの福音書」と言うのが有ります。新約聖書の福音書にはイエス・キリストの行いと言葉が記録されていますが、この「トマスの福音書」にはイエスの行いは書かれておらず言葉だけが記録されています。そしてこの「トマスの福音書」はキリスト教の中ではグノーシス派と呼ばれているようですが、その内容はまるでインドのヴェーダーンタ思想です。

 イスラム教の一派にスーフィー教と言うのが有りまして(現在は禁止されているようですが)、男達がダンスホールでくるくるくると回転します。そしてその最後の境地をファナーと言いまして、ファナーとは「消滅」の意だそうです。そうしますとファナーは仏教のニルヴァーナ(涅槃)に似ていますね。

 インド思想の目から見ますとキリスト教もイスラム教もまるで一緒のように見えます。

 さて、ヨガはインド思想の根本です。ですからヨガが分かって来ますと(二元論の)サーンキヤ哲学も(一元論の)ヴェーダーンタ思想も、そして(ゼロ元論)の仏教も分かって来ますし、更にはサーンキヤの発展形のタントラも分かって来ます。

 サーンキヤ哲学では大元にプルシャ(霊性、真我)とプラクリティ(現象世界)の2つを立てて、この2つが実在すると主張します。プルシャ(霊性、真我)は当初自分はプラクリティ(現象世界)で有ると錯覚しますがプラクリティ(現象世界)はプルシャ(霊性、真我)にダンスを踊って見せて「あなたはあなた、プルシャ(霊性、真我)なのよ」と教え、プルシャ(霊性、真我)は我に返ります。これをサマーディ(解脱)と言います。

 次にヴェーダーンタ思想。ヴェーダーンタのンタは最後とか終わりと言う意味だそうでして、ヴェーダ時代の最後の教えを意味します。インドにはウパニシャッドと言う膨大な哲学書が残されていて、このウパニシャッドをヴェーダーンタと呼ぶようです。ウパニシャッドでは世界の本質をネティ(違う)、ネティ(違う)、ネティ(違う)と思考を進めて事象の本質に迫ります。そしてついにヴェーダーンタは現象世界をマーヤー(幻)として退け、現象世界の本質はブラフマン(梵)で有る、そしてブラフマン(梵)が個人に内在する時に、それをアートマンと呼びます。アートマンはサーンキヤ哲学のプルシャ(霊性、真我)の事で、ですからプルシャ(霊性、真我)=アートマン=ブラフマン(梵)と言う事になります。ヴェーダーンタ思想はプルシャ(霊性、真我)=アートマン=ブラフマン(梵)の一元論です。

 次に仏教。

 仏教では現象世界の事は詳細に調べますがプルシャ(霊性、真我)を認めません。この世界は因縁、つまり因(直接の原因)と縁(間接的な原因)とが織りなす仮の世界で有るとします。因と縁と言う竹の皮で編み上げられた手毬を想像してみて下さい。因と縁とで編み上げられた手毬の中身は空っぽ、これを空の思想と言います。また現象世界も因と縁とで形作られた仮の姿ですから、仏教は現象世界も実在とは認めません。ですから仏教はゼロ元論と呼んでも良いでしょう。

 しかし、サーンキヤ哲学もヴェーダーンタ思想も仏教も、先にヨガの解脱体験が有って、それをどう理解してどう説明するかの違いですから、お互いに論争するのでは無く、自分の好きな思想を選べば良いと思います。

 さて、最後のタントラ。タントラはサーンキヤの発展形で有り、タントラではサーンキヤのプルシャ(霊性、真我)をシヴァ(ヨガの神様)と呼び、プラクリティ(現象世界)をシャクティと呼びます。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したもので、ハタ・ヨガの身体と呼吸と心の操作でシャクティを体の基底部からてっぺんまで上昇させて最後にはシヴァと合一させ、そこに歓喜が完成します。

 このようにサーンキヤ哲学もヴェーダーンタ思想も仏教もヨガを根本とするものでその根本に相違は有りません。また最初に述べましたようにキリスト教もイスラム教もインド思想の目から見れば一緒ですので、結局宗教はひとつと言う事になりますね。佐保田鶴治さんが「八十八歳を生きる」に書いていますように宗教とはただひとつ、「Who am I ?」の探求です。

 一般に世界の3大宗教等と言いますけれども、それは生活規範が違ったりお祈りの仕方が違ったりするだけで、言ってみれば枝葉末節。大元は一緒なのです。日本国内でも仏教の宗派によって唱えるお経が違うとかお線香の立て方が違うとか儀式作法をうるさく言いますけれども、宗教の肝はその向こうに有ります。

 宗教とは極めて個人的な思想体験で有り、キリスト教だイスラム教だ仏教だ、あるいは仏教の中でも浄土宗だ禅宗だ真言宗だ日蓮宗だと言いますけれども、それは佐保田鶴治さんも言っていますが宗教の手前の宗派と言う社会的な区別です。本当の宗教は「Who am I ?」ただひとつです。









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