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ANANDA BHAVAN 人生の芯

ヨガを通じた哲学日記

意志を持たない

2023年08月12日 | 日記
意志を持たない

 かくして心のはたらきのすべてが消え去ったならば、あたかも透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まるように、心は認識主体(真我)、認識器官(心理器官)、認識対象のうちのどれかにとどまり、それに染められる。これが定とよばれるものである。(ヨーガ・スートラ1-41)

 私はこれまで「透明な宝石がそのかたわらの花などの色に染まる」のところを、心が澄み切って透明になれば、と理解していました。それはそうなのでしょうが、これには別の表現も有りますね。意志を持たなければ対象が正確に見える、と、こう表現しても良い気がします。

 以前に受け身の態度になれば認識の表象が認識の対象により近づけると言う事を書きましたが、これと共通するお話でしょう。ああしてやろうこうしてやろうと言う意志を働かせますとその想念に邪魔されて、かえって対象が見えなくなり対象を逃してしまう。有りそうな事です。

 ああしてやろうこうしてやろうは意志でして、インドのサーンキヤ哲学ではプラクリティ(現象世界)の範疇、そして意志の無い受け身の状態の事をプルシャ(真我、霊性)ととらえても良いでしょう。

 ここで受け身の態度とは、周りからああだこうだと言われてそうですねそうですねと受け入れる事では有りません。ヨガではプラティヤーハーラ(制感)と言いまして、外部からの刺激には反応しない練習をします。ポイントは外部からの刺激に反応しない状態になったそのあとで、意志を働かせずに受け身の態度になる事です。

 現実世界では意志を働かせないと生活出来ませんが、これは人の内面の半分。一方で意志を持たずに受け身の態度になれば対象が良く見える、これが人の内面の残りの半分、両方を行ったり来たりが良いようです。

 イスラム教では1日に5回礼拝をするそうですが、これは意志の時と受け身の時の行ったり来たりなのでしょう。

 ラーマクリシュナがサマーディ(解脱)の状態に有る時には弟子達が食事のお世話をしたりしてラーマクリシュナの生命の維持に努めましたように、解脱の状態では人間は生活が出来ません。ですから私達は、日常には意志を持って生活をし、その日のある時には意志を持たない時間を持つ習慣が出来れば良いですね。

 意志を持たない、これは科学者の世界とはまる反対です。



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血流と呼吸と

2023年07月22日 | 日記
血流と呼吸と

 ヨガと言いますと一般的にはストレッチ、筋肉を伸ばしたり緩めたりの動作だと思われていますでしょうか。ヨガのアーサナ(ヨガのポーズ)もプラーナヤーマ(呼吸法)もヨガの哲学の技法では有りますが、哲学の前段階として健康法の側面も有ります。ヒントは血流と呼吸です。

 まずアーサナ(ヨガのポーズ)ですが、ストレッチによって筋肉を伸ばしたり緩めたりの効果が有りますけれども、血流にも大きな効果が有ります。例えばパドマアーサナ(結跏趺坐)は姿勢の土台を作りますが、同時に脚の血流を止めます。そしてパドマアーサナ(結跏趺坐)を用いたアーサナ、例えばアルダ・パルヴァタアーサナ(半分の山のポーズ)をやったあとには必ずサバアーサナ(死体のポーズ)をやって、血流を止める→血流を解放するの流れが有ります。このようにヨガの数々のアーサナ(ヨガのポーズ)のあとには必ずサバアーサナ(死体のポーズ)を入れる必要が有りまして、血流を止める→血流を解放するが大切、アーサナ毎にサバアーサナ(死体のポーズ)を入れない指導には問題が有ります。

 シルシアーサナ(倒立)では頭に血液を集め、そしてそのあとにサバアーサナ(死体のポーズ)で血流を開放、元に戻します。このように様々なアーサナ(ヨガのポーズ)とサバアーサナ(死体のポーズ)のセットが体の各箇所の血流を促します。

 ヨガのアーサナ(ヨガのポーズ)の練習には必ずそのアーサナ毎にサバアーサナ(死体のポーズ)を入れて下さい。

 次に呼吸法、深くて長い呼吸を数える事によって想念の働きを抑制するヨガ哲学の技法では有りますが、同時に内蔵の働きにも影響を与えます。

 大きく息を吸いますと横隔膜が下がります。大きな呼吸を繰り返しますと横隔膜が下がったり上がったりを繰り返しますので、これは排便に大変効果が有ります。

 また、心臓と違って肺には肺自体の筋肉は有りません。肺の周りの筋肉が肺を押し広げたり縮ませたりしていますね。ですから深くて長い呼吸法の練習は肺の働きの強化にも大きな効果が有ります。

 ヨガのアーサナ(ヨガのポーズ)やプラーナヤーマ(呼吸法)はヨガの哲学の技法では有りますが、同時に血流への加圧や呼吸による内臓への加圧による健康法でも有ります。



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受け身の態度実験

2023年07月08日 | 日記
受け身の態度実験

 もう2年半になりますか、YouTube で同じ動画を毎晩観ています。トリスタン・マッキントッシュと言う若い女性歌手がリンダ・ロンシュタットの「ブルー バイユウ」を歌うのですが、この曲は音域が広く、また英語の歌詞を音符に乗せるのが難しく、これをお風呂で歌えるようになるのに2年も掛かりました。トリスタン・マッキントッシュは黒人の血が少し入っているようで、眼と唇がはっきりした美人です。

この動画、最初は若い女性歌手の、胸の開いた真っ白なワンピースのミニスカートから出ている健康的な両脚を眺めていたのですが、最近では彼女の大きな口に注目しています。曲の盛り上がるところで彼女は大きく口を開くのですが、あまりに大きく口を開けるので、日本人ではこんなに大きく口を開けられないよねと、つい感心してしまいます。そこでこのところ、この見慣れた動画を観る時に彼女が大きく口を開くところを注視しようと意識して待ち構えるのですが、何故かつい別の想念が現れまして、ハッと気が付くと大きな口の場面が過ぎており、やれやれ見逃したわいが何日も続きました。目には見えている筈なのに心が見ていない。これは面白い現象ですね。見よう見ようと思っているのに、その場面が近づくと他の想念に意識がかっさらわれる、何故か気が散って、目には見えているのに心には見えていない。これ、瞑想の逆パターンですよね。

どうしたらあの場面を見逃さないように出来るのだろうか。これを実験してみる事にしました。

ソファーでリラックスし、次にテレビ画面を見よう見ようと思わずに心を脱落させていますと、心は受け身の態度になります。

そして受け身の態度のままYouTube の画面を観ていますと、なんと全ての場面が見えました。見ようとしない方が見える。いや、見えると言うよりも向こうから入って来る。そして動画は見えるけれども情緒は動かない。

心が動いていますと認識の対象と認識の表象の間のずれが大きくなり、心が受け身の態度になると認識の表象が認識の対象に近づいて来る、と言う事でしょうか。

道元の正法眼蔵にも心身脱落、脱落心身の言葉が有りますね。

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言葉が

2023年06月17日 | 日記
言葉が

 言葉が心と身体を切り離している。

 デカルトの「我思う、ゆえに我有り」は有名ですが、まさに言葉によって心の身体に対する独立性と優位性を主張しています。

 一方でヨガではアーサナ(ヨガのポーズ)のあとに呼吸法をやります。呼吸法では呼吸を数える事で他の想念が起こるのを抑えます。抑えますけれども、呼吸を数えるのもこれもまた想念。想念をもって想念を抑える。そこで呼吸法が終わると今度は全くの受け身の態度になって、そこで想念が停止、運が良ければサマーディ(解脱)を体験します。ヨガでは想念の働きを停止させ、すると向こうからそれ(サマーディ、解脱体験)は現れます。

 ヨーガ・スートラの始めに「ヨーガとは心のはたらきを止滅することである」と有りますが、実は、心のはたらきが止滅したそのあとに、更にサマーディ(解脱体験)は現れます。そしてサマーディ(解脱体験)が人間の本質を照らしますので、デカルトは大間違い。デカルトは日本では江戸時代あたりの人でしょうが、ヨガのバックボーンであるサーンキヤ哲学の成立は西暦500年あたりなのに、デカルトを粉砕しています。これでは思想史が逆ですね。
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精神分析?

2023年05月27日 | 日記
精神分析?

 青年時代にフロイトの「精神分析入門」を読みました。大変分厚い本でしたがフロイトの主張は主に以下のような事だったと思います。

 人間の頭の中を三角形に描き、三角形の底部に「イド(本能)」を置き、その上に「超自我(親や学校や社会からの教育によって形成された意識)」を置き、そして三角形の最上部に「自我(理性)」を置く。本能を低劣なものと考え、低劣な本能の働きを教育で得た意識で抑圧し、更には成長して獲得した理性で完全に抑圧して社会生活に適応して行く、だいたいこんなところでしたでしょう。キリスト教(イエスキリストでは有りません)の影響でしょうか、本能を(克服すべき)劣悪なものとしてとらえていますね。

 フロイトやユングの精神分析はアメリカでは社会的に普通に認められていて、セレブ等は普通にカウンセリングを受けたりしていますね。そして日本もアメリカ文化の影響を大きく受けていますので、このフロイトの考えも社会的に普通に通用していますでしょう。本能だけの動物=野蛮=低劣、本当でしょうか。

 私も30才でヨガに出会うまではフロイトの精神分析を当たり前のように受け入れていました。しかし本能は非常にパワフルで、この本能の力をインドではシャクティと呼びまして、非常に大切にしています。シャクティとは女性の性的なパワーを神格化したものです。

 インドのサーンキヤ哲学は二元論でして、この世界の大元にプラクリティ(現象世界)とプルシャ(霊性)の二つを立てます。そしてこのサーンキヤ哲学は発展してタントラ化するのですが、タントラではサーンキヤのプラクリティをシャクティと呼ぶようになります。シャクティのルネッサンスです。

 サーンキヤ哲学では人間の心も身体も、そして環境世界もひとまとめにしてプラクリティ(シャクティ)の範疇に入れ、それとはまったく別にプルシャ(霊性)が有るのだと言います。ですからフロイトの言う自我(理性)も超自我(教育的意識)もイド(本能)も全て一緒にプラクリティ(シャクティ)の範疇に入ります。本能が低劣で理性が最上位?とんでも有りません。インド思想には善悪も優劣も有りません、ただ事象が有るだけ。

 サーンキヤ哲学でのプラクリティ(シャクティ)の展開を観て見ますと、先ずブッディ(理性、統覚)が現れ、次にアハンカーラ(自我意識)が現れ、そしてインドリヤ(感情等の心を含む感覚器官と行動器官)が現れ、更には環境世界のタンマトラ(素粒子)やブータ(原子)が現れる、これはフロイトより遥かに雄大な世界観です。

 鈴木大拙が面白い事を言っています、「理性は感情の走狗(使い走り)に過ぎぬ」。感情が己を正当化する為に理屈を言いまくる、傑作ですね。インドのサーンキヤ哲学はフロイトの精神分析のコペルニクス的転換、歴史的にはサーンキヤ哲学の方がフロイトより遥かに古いのに、どうした事でしょうか。



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