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サミュエル・フォール卿 来日支援

2008-07-18 18:01:52 | Weblog

『敵兵を救助せよ!』(恵龍之介著、2005年)をご存知か?

http://www.bushido-seishin.com/

 

昭和17年2月27日、スラバヤ沖にて日本艦隊と英米蘭の連合艦隊が激突した。以下、サイトから引用。

三月一日にスラバヤ沖で撃沈された英海軍の巡洋艦「エクゼター」、駆逐艦「エンカウンター」の乗組員四百数十名は二日に渡って漂流を続け、生存の限界に達していた。このとき、偶然この海域を航行していたのが日本海軍の駆逐艦「雷(いかづち)」である。

当時、英国海軍中尉だったフォール卿は、「日本人は非情」という先入観を持っていたため、機銃掃射を受けていよいよ最期を迎えるものと覚悟した。
 しかし、駆逐艦「雷」は即座に「救助活動中」の国際信号旗を掲げ、漂流者全員422名を救助したのである。艦長・工藤俊作中佐は、英国海軍士官全員を前甲板に集め、英語で、「本日、貴官らは日本帝国海軍の名誉あるゲストである」と健闘を称え全員に友軍以上の丁重な処遇を施した。
 戦闘行動中の艦艇が、敵潜水艦の魚雷攻撃をいつ受けるかも知れない危険な海域で、自艦の乗組員の二倍の敵将兵を救助したのだった。もちろん艦長の英断であった。

フォール卿はこの艦長への恩が忘れられず、戦後その消息を捜し続けてきた。しかし、昭和六二年、工藤中佐が八年前に他界していた事を知ると、自身の齢もすでに八十四歳を数えることもあり、意を決し「人生の締めくくり」として来日したのである。

引用、以上。

 

工藤俊作艦長の生い立ちや歴戦の勇姿等を綴った書物が『敵兵を救助せよ!』である。この書物を読み、勉強会で発表を行い、その後「会報誌」へ記事を掲載した。以下は、会報誌へ掲載される前の段階の原稿である(会報は字数等が厳しいため、大幅な字数削減や表記に変更が行われる・・・って、編集してるの、わしやけどwww)。

 

 

 

歴史を動かすもの 

 歴史を動かすものは何か、と問われればどう答えるだろうか。福沢諭吉は「時勢」と答た。階級闘争が歴史を動かす、という説を唱える者もいる。先日、「あさなぎ」部員への格別のお計らいを賜り、遊就館地下倉庫を見学させていただいた。その際、ご案内された方が「歴史を動かすのは経済でも何でもない。人である」と仰った。私はその時「結局人が経済活動を行っているのだから、そんなのは当たり前だ」程度の認識であった。しかし『敵兵を救助せよ!』を拝読するにつれ、いかに自分の認識が甘く、いかに歴史に対して無知であり、いかに大東亜戦争をはじめとする日本の歴史について疎かったかを痛感させられた。

 その通りである。歴史を動かすのは、人である。『敵兵を救助せよ!』には、海軍兵学校校長であった鈴木貫太郎が登場する。ポツダム宣言受諾時の首相であった鈴木貫太郎を知らない人はいないだろう。しかし、鈴木元首相は人間であり、日本で生活した親も子もある一人の人間である。鈴木元首相の体躯、顔つき、性格、人相風体などをご存知の輩はそうそういないのではないか。年代と事件名と人物名を“暗記”することだけが歴史の勉強ではない。それは、“オタク”の仕事である。『敵兵を救助せよ!』を読み、生まれて初めて“生きた”鈴木貫太郎と出会えたように思った。文字として知っている歴史上の遠い昔の人物としてではなく、日本の地に生き、日本を動かした生身の人間鈴木貫太郎と対面したように感じた。

 本書の主人公、工藤俊作「雷」艦長についても、その名前さえご存知の方は少ないのではないだろうか。ましてやそのご威徳や敵兵を救助された事実となれば、知る由もないであろう。反日プロパガンダに毒されて久しい我々であるが、草の根で斯様な「真実」を掘り起こすことによって、高森明勅先生の仰る「マッカーサーの呪い」を取り除くことができるのではないか。その時はじめて、我々子孫の「恩返し」が始まるのであろう。

 人が歴史を動かし、歴史が人を動かす。今回大変貴重な機会を与えて下さったすべての方に感謝すると共に、靖國に鎮まる英霊ならびにすべてのご先祖様に感謝の誠を捧げたいと思う。

 

会報誌からの転載以上(若干加筆修正w)。

 

サミュエル・フォール卿が再度来日したい、と仰っている。前回の来日(平成15年)では、残念ながら工藤俊作艦長の消息が分からず、無念ながら帰国された。しかし、関係諸氏の努力の甲斐があり、工藤俊作艦長のお墓の在り処が判明したのである。サムエル・フォール卿は御年八十九歳。体も相当悪くしておられ、主自治からは、長旅は体に負担が大きく、ファーストクラスで車椅子などの適切な付き添い介護が必要とのことである。費用が相当かかる故、サミュエル・フォール卿お一人の財力ではどうにもならないのが現状のようである。

 

自分と命を懸けて戦った“敵”のことを生涯忘れることなく、ご自身が人生の晩年を迎えた今、ただお墓参りをするために遠い異国の地から来日を果たそうとしている。戦争とは単なる人殺しではない。混乱の状態であることは確かだが、平和な現代から過去を野蛮なものと片付けることはできない。国際紛争を解決する手段としては決して誉められたものではないかもしれないが、命を懸けて自国の主権・尊厳を守り通そうとする双方の意気地には嘆息さえ覚える。手負いの傷からふつふつと沸き起こる感情は大きな、大きな塊となり、さらに大きなうねりとなって、やがて歴史となる。歴史はわれわれの生きた証だ。嘘をつくこともごまかすこともできない。よって、歴史を知らぬ者は生きていないのと同じだ。歴史を知れ!封印された歴史を暴け!

 

『敵兵を救助せよ!』の著者である恵龍之介氏には、昨年大阪護国神社で開催された「第一回大阪護国神社英霊慰霊顕彰勉強会」 の講師としてご登壇いただいた。そのご縁もあり、我々の仲間であるK野J潤君(=那須陽一)の仲介でフォール卿に対するメッセージを恵先生が英訳してくださり、それをフォール卿に送ってくださるという幸運に恵まれた。

 

もちろん、私は英語教師wであり、プロの翻訳家なので、英語でメッセージを認めた。

 

(英文はすべて削除しました) 

 

 

再度、サイトから引用。

< 大東亜戦争勃発の翌年、昭和十七年三月、帝国海軍駆逐艦「いかづち雷」艦長工藤俊作中佐は、ジャワ海において漂流中であった英国海軍将兵四二二名を、自らの危険をかえりみず敢然として救助することに成功したのであります。この数は「雷」全乗員の実に二倍に相当するのであります。>

<サミュエル・フォール卿は、捕虜生活のあと帰国されて永らく外交官として活躍され、その間も工藤艦長の英雄的行為を英米両国において称揚されておりました。そして勇退されたのちに工藤艦長の消息を尋ねて来日されたのであります。われわれはフォール卿にたいし満腔の敬意を表するものであります。>

顕彰活動の内容については、まずフォール卿の訪日を機に、慰霊法要を執行したいと考えております。さらに講演会の開催、伝記などの整備を進め、出身地山形県における記念事業などを推進して参りたいと存じます。加えて、工藤中佐の偉業と人物像を英語版として刊行する事業は、有志の努力によってすでに大方の準備ができております。日本人の矜持を世界にひろめるための又とない機会が訪れて参りました。>

 

引用以上。

 

微々たるもので、何の役にも立たないかもしれないが、ほんの少しでもと思い募金に協力させていただいた。

 

みなさんも、手数料の方が高いわ!!と思えるような小額でもいいと思います。タバコ一本やめて、からあげくんを今回は買うのやめて、生ビールを発泡酒に一回だけけ変え、浮いた10円や20円を募金していただきたい。「点滴岩を穿つ」!!

 

 

愛情の反対は、憎しみではなく無関心である。

                      by マザーテレサ

 

http://www.bushido-seishin.com/download/collection.pdf

 

だれがかばや年

 

 


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