<20歳代女性教諭、胸ぐらつかみ平手打ち>
http://news.nifty.com/cs/domestic/societydetail/yomiuri-20100707-00236/1.htm
兵庫県赤穂市塩屋の市立赤穂西中(高本登校長)で20歳代の女性教諭が5、6月、男子生徒の胸ぐらをつかみ、顔を平手打ちするなど計4回の体罰を繰り返していたことが同校への取材でわかった。
いずれも生徒にけがはなかったが、県教委が処分を検討している。
同校の説明によると、女性教諭は6月8日午後3時10分頃、担任を務める学級のホームルームで、話を聞いていなかったとして男子生徒を注意。男子生徒が黙り込んだため、胸ぐらをつかみ、平手でほおを2回たたいたという。
女性教諭は同日、男子生徒や保護者に謝罪したが、学校が事実を把握したのは2日後で、別の保護者からの市教委への通報でわかったという。
女性教諭は5月中旬にも校内に菓子を持ち込んだり、顧問を務める部活で指導に従わなかったりした1年の生徒3人に平手打ちをしたことを認めている。
女性教諭は「非を認めない子どもの心を変えなければと思い、手が出てしまった。申し訳ないことをした」と話しているといい、高本校長は「問題が起きれば生徒宅を訪問する熱心な教諭だっただけに残念。いきすぎた指導がないようこれから徹底したい」と話している。
2010年7月7日(水)10時4分配信 読売新聞
「ほったらかし」「ほうにん」よりも「いきすぎ」の方が比較にならないほど指導としては適切。中学校にお菓子を持ちこんでいいわけがない。顧問の指導に従わなければ部活はそもそも成立しない。近代的自我を確立するためには「強制」が必要である。いや、強制以外には不可能だ。
有名なヘレンケラーの家庭教師サリバン先生は、見えない、聞こえない、しゃべれないという“哀れ”な女の子に礼儀、作法を教え込んだ。テーブルに付き、ナプキンを付け、スプーンを使ってお菓子を食べるように指導した。逆らったヘレンケラーを容赦なく叱責し、近代的自我を確立すべく体罰までも利用して指導にあたった。親は「何もそこまでしなくても・・・」とかわいい我が子をいたわる。しかしサリバン先生は自己の信念に基づいて、絶対折れないという不寛容の精神で、荒々しい指導を続けた。
結果、ヘレンケラーは自叙伝『ヘレン・ケラー自伝』(ぶどう社)にて<井戸を離れたときの私は、学びたいという一心でした。すべての物が名前を得、その名前の一つひとつが新しい考えを生んだのです。家に入ると、手に触れるものすべてが生命にわなないているように思えました。いまはあらゆるものを、新しく訪れたはじめての光の下で見るようになったからです>という文章を書き、現在のハーバード大学(当時はラドクリフ大学)を卒業した。
自己と敵対する世界を忌み嫌い、自己に閉じこもることを許容されていたならば、彼女に進歩はあったであろうか。啓蒙としての教育、これこそが教育の本質であり、そもそも教育機関は暴力装置なのだ(嫌がる子供を受容するのではなく、力づくでも世間という価値観を教え込む所)という認識が無ければ、子供はいつまでたっても、たとえ見た目は大人でも、自我の確立していない自分勝手な“自称”人間が跋扈することになる。
はたして、現代日本人はこのことをどこまで認識しているのか。はたして、教育者はこのことを真摯に考え抜いたことがあるのか。はたして、有権者は。親は。
はたして、この度参院選に立候補された方々は、当選者も落選者も一体どこまで真剣に考えたことがあるのか。