【ルーツから反乱指導者になるまでのトゥサン】
トゥサンの父祖は西アフリカの奴隷貿易で有名なダホメ王国(現ベナン共和国)のアラダ地方の一首長だった。父は奴隷狩りで捕らわれ奴隷貿易のルート・地獄の大西洋航路を経由してハイチのカペ・フランセ近くの伯爵地所に連行された。母もベナンの出身であろう。
トゥサンはプランテーションが在ったベルダで生まれた。トゥサンはアフリカの伝統的生活習慣と現地語(フォン語)を両親から受け継いだ。幼少期に父が若干の土地と5人の奴隷を与えられて、 解放奴隷となった。
彼は御者や家畜係としての専門的な技能を身につけ、代理人に重用された。プランテーションの家畜管理を任されて、仕事を通じて奴隷たちの信望を集めていたと考えられる。後年、トゥサンは借地ながら小規模なコーヒー園を営み、そこでは奴隷を労働力として用いていたと伝えられている。
1791年8月、北部のカペ・フランセで黒人奴隷の反乱が起こると黒人を連れて加担した。教養があり論理的に話ができる雄弁なトゥサンが指導陣に加えられるまでに時間はかからなかっただろう。
トゥサンの思想形成において重要な意味をもつものとして、カエサルやエピクテトスのものをはじめとする多くの書物があった*こと、 とりわけ、トゥサン は、同時代人フランスの啓蒙思想家レナールの大著『両インド史』を「愛読書」として「くり返し読 んだ」ことが頻々指摘される、とハイチ革命論の泰斗・浜忠雄氏は記している。
そして、浜忠雄氏は『両インド史』(第三版、1780年)のなかの一章「奴隷制の起源とその発展、 奴隷制を正当化する根拠、これへの反論」にある予言的で過激な次の一文を紹介している。
「奴隷たち、 彼らを抑圧している冒漬的な羈絆を打ち砕くのに, 諸君〔ヨーロッパの人びと〕 の寛大も助言も必要としていない。 ……黒人たちに欠けているものは、ただ、 彼らを報復と殺戮 へと導く勇敢なる指導者だけである。 この偉人、人類への自然の賜物たるその人はいずこに。 決してクラッススにまみえることのない、このスパルタクスの再来はいずこに。」
ついで、上記に関する諸説を検討して次のように結論している。
一、 トゥサンが『両インド史』を読んだ可能性はあながち否定しえない。
二、 その時点で 彼が「黒人のスパルタクス」たらんとしたかどうかは不確かである。 トゥサンは、たしかに「レナールが予言した、黒人の解放を成就すべく予定された、黒人のスパルタクスであった」 ということは間違いない。しかし、それは、結果としてそう言えるにすぎないのである。
私の見解はこうである。トゥサンは蜂起後、ルヴェルチュール Louverture を自称している。これにも諸説あるが文字通り翻訳すれば「扉を開く人」であろう。奴隷解放の扉、これである。
トゥサンが 「黒人スパルタクス」 に言及していたかどうかは問題ではない。トゥサン・ルヴェルチュールが自らの名に奴隷解放のマニフェストを刻み込んでいたことが重要である。
なお、レナールの予言は、実はよりラディカルなデイドロ(百科全書派の筆頭メンバー)が執筆した「革命的マニフェスト」だったことを、浜忠雄氏が実証していることを付け加えておく。
【註】 以上の記述で依拠した浜忠雄氏の論文のPDF:ハイチ革命研究序説(III) : 奴隷蜂起とトゥサン・ルヴェルチュル
次に、反乱指導者であるトゥサンが本国派遣の革命委員、軍人、役人、あるいは植民者にすら推されて、サン=ドマングの実質的総督にまで上り詰めた理由をまとめる。そのために、つぎのステップを踏まねばならない。
・8月14日:「カイマン森の儀式」
ブードゥー教の神官ブークマンが、サン=ドマング北部平原の奴隷代表(プランテーションの秘密組織代表)を呼集し、蜂起を誓う儀式を主導。これがハイチ革命の導火線となる。
・8月22日:奴隷の大反乱が勃発した。
北部プランテーションで大規模な蜂起が始まり、トゥサンも一指導者として台頭した。
・9月:ブークマン、捕らえられて処刑される。
・9月20日:国民公会開会
最初の政令「フランスにはもはや王政は存在しない」
目的は、王党派白人植民者の反革命行動を抑えるとともに黒人反乱軍を鎮めること、革命理念を植民地に浸透させることであった。総督制と併存する形で統治に関与した。
・6月:イギリスとスペインが対仏干渉戦争の一環としてサン=ドマングに侵攻し、植民地は戦場と化した。この時期、フランス政府が奴隷解放に消極的だったため、トゥサンはスペイン側と同盟し、ゲリラ戦術を駆使して、政府派遣軍、コミッサール、総督、白人とムラートを窮地に追いやった。
・8月末〜9月:ソントナクス、トゥサン奴隷軍の取り込みを決断し、北部で奴隷制廃止を宣言。本国に「この政策以外に打開策はない」と報告。
1794年
・2月4日:フランス国民公会、全植民地における奴隷制廃止を正式決定。
・5月:フランスの将軍ラヴォー(前年から臨時総督)、トゥサンがフランス軍に付いてスペイン軍と戦うよう説得した。さらに、黒人兵士の登用と平等な待遇を積極的に推進した。これを受けて、トゥサンはフランス側に転向し、始めは少将、やがて中将に任官された。以後、フランス革命軍の北部州総司令官として活躍し、サン=ドマングの大半を制圧した。
・プランテーション経済の再建に着手:元奴隷たちに対して軍令による労働復帰を命じ、経済再建を図る。これは後の「労働義務政策」の原型となる。
・トゥサン、サン=ドマングの副総督に任命され、実質的な支配権を握る。
1797年
・ラヴォーの召還と実権の掌握:ラヴォーが元老院議員に就任するためフランス本国に召還されると、トゥーサンは事実上の植民地支配者となる。
・軍の再編と規律強化:徴兵制の導入や軍規の整備を進めた。
1798年
・グレートブリテン王国の遠征隊を破る。イギリス軍撤退。
・徴税・農業政策の整備:徴税制度を再構築し、農園労働の義務化を進める。
1799年
サン=ドマング南北戦争勃発
6月に始まるいわゆる南部のナイフ戦争*で、トゥサンは、ムラートのリゴー、ペチョン、ボワイエ の軍を追い詰めた。
・トゥサンのライヴァル指導者、混血人リゴーとペチョン、ボワイエ 、本国に亡命。トゥサン、サン=ドマングの西部州、南部州も掌握し、全州統一を達成。
ナポレオン・ボナパルトは、トゥサンが制定した1801年の自治憲法(終身総督制)を「反逆」とみなし、サン=ドマングの再征服を決意。
・4月:トゥサン、やむなく降伏。彼は、「裏切らない」との約束を信じて6月に出頭するが、逮捕されフランス本国へ送還された。翌年4月7日、ジュラ山脈のジュー要塞で獄死した。
・10月:フランスが奴隷制の復活を画策していることが明らかになると、デサリーヌは反旗を翻し遠征軍と戦う。
・11月18日:ヴェルティエールの戦い(カペ・フランセ攻防戦)
デサリーヌ率いる反乱軍が、全国を制圧し、ロシャンボー将軍のフランス軍をベルダ砦[奇しくもベルダはトゥサンの生地]に追いつめて撃破した。
1804年1月1日
デサリーヌ、ハイチの独立を宣言。国名を「ハイチ(Haïti)」と改称(絶滅先住民タイノ語に由来)
この見出しは、浜忠雄氏の論文のタイトルをそのままいただいたものである。論文の内容は、フランスの立法政府が派遣したコミッサール、将校、官吏、それに白人、混血人、黒人を、自らの支持基盤に翻意させていったルヴェルチュールのカリスマ革命家としての資質を考察したものである。以下p47~60を要約する。
ルヴェルチュールの強みは言語と外交力である。母語はフォン語である。西アフリカ・フランス領の交易商用語=クレオール語にも通じていて、出身地の異なる黒人ともコミュニケーションができた。さらに、自身カトリックでありながら、「ブードゥーの儀礼をも用いて」黒人の支持者との繋がりを築いたのである。
ムラートは、反乱黒人にとって敵対する白人の同盟者であるばかりでなく、黒人の日常生活で恨みを買う機会の多い存在だった。蜂起のたびに黒人の群衆が白人とあわせてムラートを虐殺したことはギタールの日記で見たとおりである。
ラヴォー将軍の呼びかけに応じてフランス軍に組み入れられたムラートの軍人は、階級が上のルヴェルチュールにしたがったが、ラヴォーにとってもルヴェルチュールにとっても、信頼のおける対象ではなかった。
例えば1796年4月にクーデタを企てている。「黒人将校の反抗によってクーデタは失敗し、ラヴォーは自身の[牢獄からの]解放についてトゥサンに感謝 した。それから数日後、同じムラートの将校たちはラヴォーに関する不穏な噂をプチット・アンスの町に広めた。」
ラヴォーが奴隷制を復活しようとしており、すでに倉庫には鎖が詰まっている、と聞いた黒人群衆はラヴォーがいる建物を襲った。ルヴェルチュールがそこにいなかったら警護の黒人兵士も同調したに違いない。かれは群集に倉庫の扉を開き中を見せてラヴォーを危機から救ったのである。
最後は、ルヴェルチュールがフランス人との交渉、交際で用いたフランス語の強みについてである。当時唯一の国際語だった格調高いフランス語のことではない。今日有ったらいいなと心底思う交渉のリテラシーとしてのフランス語である。
ルヴェルチュールは、「ラヴォーが慣れ親しんでいた言葉、感情的な友好を表す言葉遣いでやりとりができ」ラヴォーに奉仕の姿勢と敬愛を表現した。
「ラヴォーを安心させる能力、そして多くのフランス人の代表者に、自身が同盟者であるにとどまらず友人であるとして同様に安心させる能力」。この稀に見る安心させる能力--‐わが国で思いつくのは、西郷さんぐらい--‐によって、ルヴェルチュールはフランス共和国の多くの官吏からの信頼と支持を獲得することができて奴隷解放と独立の扉を開くことができたのである。
浜忠雄氏は、ルヴェルチュールが啓蒙思想を受容し、類まれな能力によって、より普遍的に再構築して、奴隷解放を実現したことを指して「グローバルな啓蒙」と題したと私は理解した。
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ラヴォー将軍とルヴェルチュール将軍
ラヴォーについても何も言わないで済ますことはできない。元貴族の革命派。宣誓拒否司祭の兄は1792年の「9月の虐殺」で殺害された。ラヴォーの別れの手紙の一節により彼が本心からルヴェルチュールの大志を応援していたことが読み取れる。
「わが友、私が最も親密な友人だと思っている君と別れるのは辛いことですが、それと同じくらいに ・・・・・・ 普遍的自由の最も誠実な友人たちを君に紹介することの喜びを享受するでしょう。」
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