自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

クラスノシチョコフとアレクセーエフスキー/極東共和国の夢まぼろし

2017-03-24 | 体験>知識


 出典 『
誰のために』 クラスノシチョコフ 石光真清 右端アレクセーエフスキー 

1919年、ちょうどムーヒンが殺害された翌3月10日、ウラル山脈の西でコルチャーク政府軍は、赤軍から中心都市ウファを奪い取り、1か月後にはモスクワを占領すると豪語した。
一方クラスノシチョコフは行商人に変装してモスクワに向けて逃避行中、5月ヴォルガ河東岸のサマーラで敗色濃いコルチャーク軍に捕まった。身分がばれず「死の監獄列車」で東へ移送されることになった。
コルチャーク軍は6月にウファで赤軍に大敗し以後クラスノシチョコフの後を追うように東へ東へ退却する。その後を赤軍が追撃し11月オムスク政府をイルクーツクに潰走させる。
そのイルクーツクでクラスノシチョコフは、年末に、反コルチャーク「政治センター」(エスエル、メンシェヴィキ)によって解放され、以後、武市から流れ着いた元アムール州長アレクセーエフスキーと共に緩衝国家・極東共和国樹立に奔走した。敵として別れ同志として出会う不思議な縁である。

1920年のシベリアは反革命軍の退潮のうちに新年を迎えた。ドイツは敗戦しチェコは独立した。帰心矢のごときチェコ軍は
コルチャークをボルシェヴィキに売って帰国の保障を贖った。日本軍と居留民は1月中旬にイルクーツクから撤退した。
3月西からバイカル湖までが赤軍とソヴィエト政府の支配下に入った。レーニン政府の自重により赤軍はさらなる東進をひかえ、日本軍とセミヨーノフ軍がチタに居座り続けた。

東シベリアではパルチザン勢力が日本軍と対峙しながら地方政権を回復しつつあった。2月浦潮、ハバロフスク、武市等に臨時政権が成立した。政権の赤色の濃淡は各都市によって違いはあるがボルシェヴィキ色が濃くなりつつあった。
日本軍は、ハバロフスク等沿海州と東支鉄道沿線を最後の防衛圏と位置づけた。「日本が自衛したいのは、〈帝国と一衣帯水〉のウラジオストク、〈接壌〉の朝鮮、北満州である」(麻田雅文 『シベリア出兵』 2016)
日本軍は、此処を防衛圏とすれば間宮海峡と日本海を制海、内海化できるという夢想を始終抱いていた。朝鮮、満蒙の赤化防止が焦眉の課題として軍部と政府に認識され始めていた。これが日本軍が居座り続ける理由、新たなシベリア戦争目的となる。


3月 尼港事件 パルチザン暴走による日本軍民の虐殺
アムール河を挟んで沿海州北端の対岸、サハリン州首府、金鉱と林業と漁業の街ニコライエフスクでは、優勢なパルチザン部隊(司令官トリャピーツィン)が白軍を圧迫し、アムール河と海峡の凍結で孤立無援となった日本軍守備隊に武器弾薬貸与を強要したため、3月12日午前2時日本軍の奇襲攻撃を招いた。明ければ革命記念日の丑三つ時、宴の酒で熟睡中だったトリャピーツィンは負傷しながらも難を逃れ、分散宿営中のパルチザン部隊をまとめて反撃に移り守備隊本隊を制圧した。

簡単に状況と経過に触れておく。主に山崎千代五郎『血染の雪』付録「尼港事件顛末」(1927)と石塚経二『アムールのささやき』(1972)に依存した。
当時人口=ロシア人8700 中国人2300 朝鮮人900 邦人居留民400(島田商会中核の自衛団含む) 日本軍370 白軍150(崩壊中) ロシア義勇軍若干(多くは在獄中) パルチザン2000~4000 
1月24日 市を包囲しているパルチザンの和平協議軍使オルロフを石川大隊長と憲兵隊長は白軍司令官に引き渡し殺害 
2月5日 市外で両軍攻防戦 陸軍砲台要塞と海軍無線電信所放棄 以後パルチザンが利用 在ハバロフスク山田旅団長は石川大隊長との通信手段喪失 伝言を双方向ともパルチザンに依頼 
2月28日 旅団長指令「交戦は避けよ」により
和議成立 市長は歓迎白軍司令官自決
2月29日 パルチザン部隊入城して治安維持を担う 白軍武装解除 パルチザンに多数の「支那人及び朝鮮人」   入市後再編成した連隊に「無政府
共産主義支那人連隊/バルサン第四連隊」名あり 白軍将校、官吏、有産知識階級数百人を逮捕 白軍将校自決か処刑 パルチザン志願者増大・武器弾薬不足
3月11日 パルチザン、日本軍に武器弾薬「借り受け」強要 翌12日正午期限 
12日 石川大隊長・山野井憲兵隊長・副領事・自衛団協議し部隊配置、作戦決定の上未明の奇襲を決死敢行 動員兵力413 憲兵隊準士官1下士兵卒13と日露義勇軍50含む 大隊長区処下になかった憲兵隊長は蹶起不同意、憲兵隊は庁舎に籠ったまま捕虜となり銃殺された

パルチザン部隊反撃 石川大隊長戦死 防衛拠点島田商会と領事館燃える 副領事一家自決 動員兵力4000 中国人900・朝鮮人400含む
「在ニコラーエフスク日本人全部は主として支那人及朝鮮人に因り惨殺セラレタリ」(参謀本部『西伯利出兵史』) 
中国五四愛国運動・朝鮮三一万歳事件鎮圧の遺恨を受けた意趣返しが見て取れる。参謀本部の「満鮮人」に対する異常な警戒心と監視が目を引く。
3月17, 18日 山田旅団長両軍司令部に「戦闘中止勧告」電報 堅固な兵営に籠城中の守備隊、武器弾薬兵舎を引き渡し捕虜として旧露兵舎に移動 19日囚人とされ140名・居留民13名内女性7名監
獄へ 
パルチザン部隊、労農兵ソヴィエト*を組織開始 徴発委員会等行政機関設置 チェー・カー作成の有産階級名簿により逮捕、裁判 処刑か釈放の二処分のみ 上記日本人捕虜、
囚人労働に従事(陣地構築あるいはアムール河に航行妨害物を設置)
*極東共和国成立後は極東ではソヴィエト化は不可とされ、できる所ではパルチザンと白軍兵士はまとめて人民軍に改組された。

海路と水路の結氷が溶けて日本救援軍が近づいた5月下旬以降パルチザン軍は、日本人捕虜をすべて惨殺し、市街を焼き払い疑わしき市民を皆殺しにし、従う住民を引き連れて上流に退避疎開した。焦土作戦は広大な国土をもつロシアならではのアイデアである。
無政府主義を自称する司令官トリャピーツィン
と参謀長ニーナは仲間の反乱で銃殺され、避難民の多くは日本軍政下に入った。審問で「過激派」として獄入りした100名の運命については記述がない。
尼港事件の日本人軍民犠牲者数は外務省の記録で735名、目撃体験記録は香田昌三日記と萩原福寿手記のみ。生き残りはいたが中国人等の妻妾であった4名とほかに男女各1名子供2名と考えられる。
日本軍は北樺太を保障占領して石油、漁業、林業、鉱物等の戦利品を得た。

沿海州4月事件 派遣軍謀略暴走
4月、日本軍の動きを牽制していたアメリカ軍が浦潮から撤兵するのを待っていた日本軍は内政不干渉の法衣を脱ぎ捨てて浦潮臨時政府に奇襲攻撃をかけた。公然たる内政干渉である。以下引用は主として参謀本部『西伯利出兵史』に依存。
その背景には「社会革命党ガ過激派ノ傀儡タルニ過ギザルノ実情」(大井軍司令官)あるいは、もはや沿海州には「我ニ好意ヲ有シ又ハ我支持ヲ受クル」べき「穏健団体ナルモノ皆無ナル実況」(稲垣軍参謀長)という現地の危機認識があった。犬が先祖返りしたという認識である。
大井軍司令官は、沿海州の政治不安定が「累ヲ朝鮮及満州ニ及ボス」ので、危険政治団体[狼]はその存在、武装、宣伝、を許さず、排日朝鮮人の扇動についてはとくに注意するよう、指示した。そして3月末までに武装解除の綿密な要領を各指揮官に極秘伝達した。狼は牙を抜くか殺すしかない、という本音が読み取れる。以下要領の骨子を記す。
「武装解除」予定日4月上旬 浦潮臨時政府に「要望」を突き付け応じなければ「武装解除ヲ疾風迅速的ニ決行、一時之ヲ拘束」 敵に先んじられた場合には機を失せず「迅速果敢ノ措置」 伝書バト用意 駆逐艦手配
3月31日に発した撤兵に関する日本政府声明は、4条件つまり沿海州政情安定、鮮満地方に対する危険除去、居留民と交通の安全保障が得られれば、チェコ軍撤退完了後「成ルベク速ヤカニ」撤退するというものだった。
4月2日
大井司令官が政府声明を受けて浦潮臨時政府に対して突き付けた「要望」は撤兵ではなく駐兵に重点を置く6カ条だった。全権代表(エスエル)は4日修正合意した。5日に議定書に調印する運びとなった。その内容は抽象的で下記の「武装解除」を臭わせるものではなかった。
が・・・
4日午後10時ちょっと前、外交を謀略によって覆す現地派遣軍の悪しき伝統劇がシナリオどおり幕を開けた。当日は陰暦十六夜、ためらいがちに上がる色鮮やかな月の光を浴びて日本軍は果断に行動した。
浦潮で巡察中の第58連隊第1大隊副官の小隊が革命軍衛戍司令部前にさしかかったとき突然どこからか銃撃を受けた。1時間後旅団長命令で全域で戦端を開き、計画どおり
浦潮等ウスリー沿線7地域のうち6地域で5日昼すぎ「掃討」を完了した。ハバロフスク制圧は5日朝開始で市街戦になった。
5日夕刻、浦潮臨時政府代表が恐る恐る軍司令部を訪れ前日合意した日本軍駐留を保障する議定書に署名し政権の安堵を得た。シベリアのロシア人の気持ちは恐怖から安堵へ、やがて遺恨に変わった。

「日本軍はこの奇襲攻撃により各地で圧勝し、約七千人を武装解除し、数千人を殺害、併存状態だった革命派を殲滅して、ハバロフスクと沿海州を事実上支配した」(麻田雅文 前掲書)
その上極東共和国設立委員で共産党極東政治局員ラゾ達3名を生きながら機関車の
で焼き殺してロシア人に永く消えない記憶を焼き付けた。殺害方法には異論もあるが、ロシア人に定着した記憶がもたらした結果は重大だった。
児島襄は『平和の失速』で55ページにわたって逐一「掃討」の状況を記述し地区毎に戦死者のバランスシートを添えている。日本側が1桁、多くても2桁なのに対してロシア側は3桁である。23年後のスターリンによる満州占領計画もかくや、と思いつつ読んだ。シベリア抑留では倍返しならぬ百倍返しだったと考えるのは飛躍し過ぎだろうか。
なお浦潮では、抗日「不逞鮮人の策源地」であったスラム新韓村を「掃討」し放火した。ニコリスクでも同時に抗日朝鮮人「掃討」を実行した。これが「武装解除」の欠かせない目的の一つだった。
最大の目的は地方政権の軍権と武器を奪うことだった。浦潮臨時政府は少人数の警察隊しか保持を許されなくなった。
ウスリー沿線ではパルチザンは地下に潜り、極東共和国の意を体するゲリラ、馬賊が姿を現すようになる。

1920年4月6日 極東共和国樹立宣言 クラスノシチョコフ首班兼外相を擁する連立政権
ポーランド軍、デニーキン軍、ウランゲリ軍に対して西部で戦っていたレーニン政府は日本軍を武力で追い出す国力をもっていなかった。それゆえ日本軍の平和的撤退に道を開くために緩衝国家を樹立する必要があった。
レーニンは、ブレスト講和の時はドイツ軍の進撃を食い止めるために領土(ウクライナとバルト海沿岸)を差し出して平和を贖った。今回はシベリアのソヴィエト化を急がないことで譲歩し、シベリア、サハリン、カムチャッカにおける利権を提案した。緩衝国家案はシベリアのボリシェヴィキとりわけ日々死と直面しているパルチザンに受けが悪かった。「革命への裏切り」という痛罵も聞こえる。

レーニンの政治局は緩衝国のデザインをアメリカの弁護士資格を持つクラスノシチョコフに委ねた。彼が起草した憲法は世界でもっとも民主的な憲法であった。アメリカでさえ女性に選挙権が認められたのはこの同じ1920年だった。その全文がはじめて和訳され我々にも閲覧可能になっている。堀江則雄著『極東共和国の夢』(1999) 
18歳以上の普通選挙で選ばれた「有産制」民主主義が基本になった。レーニンは憲法と経済政策の基本に関するクラスノシチョコフの質問に「共産主義が小さな特権を持った民主主義が許容される」と回答している。
首班クラスノシチョコフは、
体刑死刑の廃止、大赦、集会結社の合法化、言論出版集会の自由回復を進めた。食糧徴発の代わりに現物税の導入、商業の自由を認めた。本国では農民の反乱が繁くなったとき極東共和国では新経済政策を先取りしていた。
シベリアの農民はボルシェヴィキを支持したが共産主義は支持していない。この微妙なバランスが制憲議会選挙(1921年1月)に表れた。農民代表が多数でボルシェヴィキ、エスエル、メンシェヴィキの順だった。
クラスノシチョコフは首班の地位は保ったが、彼の自由共産主義はボルシェヴィキ強硬派の反感を買った。
鉄道の復旧、協同組合事業、人民軍の募集・維持は財政基盤が弱いため困難を極めた。極東共和国人民軍が「チタの栓」を抜いて日本軍を沿海州「自衛圏」に封じ込める頃クラスノシチョコフは徐々に孤立、失脚しモスクワに呼び戻された。
ネップを推進するレーニンに高く評価され融資銀行プロムバンク設立等で能力を発揮したが、スターリン粛清を逃れられるわけがなかった。
1937年11月26日 銃殺 57歳

1956年4月28日 フルシチョフのスターリン批判(2月)で名誉回復

ムーヒン、クラシノシチョコフと肝胆相照らす仲のアレクセーエフスキーは、極東共和国樹立後、家族を呼び寄せるためにパリに旅行した。そのまま支持者の農民の元に還ることはなかった。1957年、パリで交通事故で亡くなった。

1922年10月25日 日本軍浦潮撤退 人民革命軍入城
同年11月14日 極東共和国、本国合併決議でみずから幕引き


ムーヒンとクラスノシチョコフ/パルチザン戦/アムール州事件

2017-03-07 | 体験>知識

出典 石光真清『誰のために』

調書「ムーヒン」(手書き 第12師団司令部 複写)によれば、ムーヒン(電気工、妻帯、41歳、左足凍傷痛)は変装のため理髪しヒゲをそった。その前は栗色のほほヒゲと帽子で変装していたという。隠れようとした学校で捕まったが捕らえたのは日本兵である。上掲の写真はコザックを主役に配して日本軍を脇役に見せる効果を狙った広報用のものである。
審問者はアベゾルーコフで「隠していることがあるがムーヒンを信ぜんことを請う」とコメントして署名している。日付は1919年3月8,9日である。隠し事「塗抹」とは仲間の名前、居所であろう。たとえば、クラスノシチョコフは知っているが「グラベリソン」なるクラスノシチョコフは知らない、といっているようなことを指すものと考えられる。
私見では「逃走を企てたため路上で射殺」は背後に写っている主役日本軍の捕虜殺害を正当化しようとする口実である。捕らえて白軍に渡して処分させるのも日本軍の常套的やり方だった。
【註】史料中の地名人名のカタカナ表記の微小な相違を統一する能力は私にはない。想像を働かして読んでほしい。

1918年8月16日第一陣を浦潮に上陸させた日本軍は赤衛軍の抵抗を排除しつつハバロフスクを目指して破竹の勢いで進撃した。シベリア出兵中唯一戦争らしき会戦があったクラエフスキー会戦でボルシェヴィキは旧軍の装甲列車と砲艦を出動させているが、兵士は制服もなく訓練が効いていない住民兵が主力だったから、その部隊は赤軍ではなく赤衛軍(元の守備隊とか艦隊のソヴィエト派)とパルチザン部隊とみるべきであろう。沿海州にはまだトロツキーの赤軍の兵制、兵備は及んでいなかったと思う。
日本軍とコザック・ウスリー支隊(アタマン=カルムイコフ)は2週間でハバロフスクを占領した。これ以降ボルシェヴィキはパルチザン部隊で戦うことになった。

1918年8月末ハバロフスク会議で極東人民委員会議(ムーヒンも参加)は撤退して再起を図ることを決議した。議長クラスノシチョコフはアムール州ゼーヤ市に逃れ人民委員会議を解散し変装してタイガに身を隠した。
ムーヒンはアムール州全域で労働者、農民を組織して日本軍とコザック部隊に対する反乱とソヴィエト政権の再建を準備する活動に入った。日本軍は下掲の写真をもとに手配書をつくって二人を捜索した。
真ん中巻紙を持つ二人がムーヒンとクラスノシチョコフ 1918.7.20

出典 http://www.a-saida.jp/russ/sibir/vetvi/ishimitsu_muhin.htm
原典『欧亜列強 大戦写真帖』 帝国軍人教育会編、大正通信社、大正8年

ムーヒンは、ハバロフスク陥落の教訓を生かしてアムール州でパルチザンの隊長を糾合して将来の一斉反乱を準備した。活動地域はゼーヤ河両岸と東のザヴィタヤ河両岸に挟まれた沃土地帯である。かつては清国領で「江東64屯」とよばれた所か。1918年当時はロシア人の移住村になっていた。


出典  児島襄『平和の失速 〈大正時代〉とシベリア出兵』

ムーヒンは、調書によれば、ガーモフ率いるコザック隊と日本軍が武市に進軍して来た1918年9月半ば以後も変装して市内に潜伏していた。
石光は部下が「来た」と慌ただしく報告しに来たとき「ほっといてやれよ。なあ・・・立場こそ違うが、彼も愛国者だ。日本軍との衝突を避けたのも彼の努力だよ」と抑えている。その時10月半ばに撮られた写真に、宣撫説教師太田覚眠に耳を傾け質問しようとする大男ムーヒンが写っている。

 
出典  石光真清『誰のために』 原典  太田覚眠『露西亜物語』(1925)

ムーヒンはアムール州を2区に分け北部の「バヴーリ」村と南東部のイワーノフカ村を二大根拠地として4カ月間村々を巡回しながら宣伝し募兵した。
1919年1月上掲地図各地で蜂起と討伐が頻発した。1月7日マザーノワ、12日ポチカレオ、17日アレクセーエフスク、25日イワーノフスコエ、26日チェレムホ-フスコエ、27日チワーノフスコエ、2月6日タムポフカ、等の付近で蜂起・討伐戦があった。
2月16日イワノフカから武市に潜入して全体を指揮統率した。信頼する石光真清とアレクセーエフスキーが武市を去った直後である。もはや武市は微温的政治環境ではなかった。第12旅団が司令部を置きいわば戒厳令下に等しかった。
武市の「避難所ガ包囲ノ状態ニ陥リ日本兵ノ現ルルヤ」遁れて転々と避難先を替えた。
3月8日学校に着くとここは監視されていると言われた。2階に上がって窓際から外を見ると日本兵が入ってくるのが見えた。1階に降りて捕縛された。

反乱は、日本軍とコザック支隊の討伐行との絡みで、統一を欠き散発的な蜂起に始終した模様である。一般に動乱は強硬派の蜂起で燃え上がる。
以下は「調書」にあるムーヒンの無念の表明である。
武市での今回の反乱準備はムーヒン抜きで行われた。自分は労働組合に個別の決起を戒め続けて来た。ムーヒンが留守している間は強硬派軍事委員が主導した。振り返って言えば前年の武市3月事件の拘禁中の決起も軍事委員会が指導した。
農民はムーヒンを父と慕い頼みにしていた。「父トハ余ノ綽名ナリ。余ノ予期シタル反乱決起ハ余ノ通知ヲ待タズシテ開始セラレタリ」 
農民はムーヒンが「常ニ事ヲ案出シ自ラ遁レル」と批判した。ムーヒンは自分が司令部、市中に居たのは「コトヲ挙グルノ際、ソノ場所ニ居ランガ為ナリ」と応じた。
しかしこの反乱は時期尚早につき起こせなかった。蹶起の時期を決定すのは難しい、とムーヒンは言う。それは主として「露国及ビ外国トノ政治的関係如何ニ因ルモノナリ」

日本軍は浦潮から発してたちまちのうちにシベリア鉄道沿線を占領しながら西進しザバイカル州チタのセミョーノフ軍と合流した。総数73000名を出兵させたが延べ員数だろうから半分と見積もっても広大なシベリアの鉄道の点と線を抑えた程度であっただろう。日本軍は、ナポレオンを退却させた冬将軍を味方にしたパルチザン部隊のヒット&ランの攻撃に悩まされた。
ムーヒン指導のアムール州の抵抗がもっとも強力で最後まで執拗であった。蜂起して討伐隊に追跡されるパルチザン主力部隊と拠点の村々の戦いをみてみよう。
[註] 参考史料は児島襄前掲書と高橋治『派兵』である。高橋氏が出版を勧めた松尾勝造『シベリア出征日記』に負うところ大である。冷たい統計に熱い血を通わせてもらった。

ムーヒンは調書でマザーノア事件にちょっと触れている。日本兵たちがウオッカを求めて酒商とその家族を殴打したのがきっかけだと知った、と。
1月7,8日、同村の農民は蜂起しソハチノ村のパルチザン隊の協力を得て日本軍守備隊兵舎を占領した。梶原守備隊50余名は「戦死6, 負傷7, 行方不明4, 凍傷34」の不名誉を記録した。蜂起は討伐隊によって鎮圧され逃げ遅れた村民は殺された。日本軍は参謀本部出兵史によれば膺懲のため「過激派ニ関係セシ同村ノ民家ヲ焼夷セリ」 
2月11~13日、日本軍はザウィタヤ河東部のインノケンティエフカ村を拠点とするパルチザン部隊の討伐に向かった。第1陣米谷=高野隊100人はゲリラの待ち伏せ戦術と零下30度の厳寒、疲労で敗退した。戦死行方不明4、負傷10、凍傷26・・・出迎えた当番兵松尾勝造は死傷者の惨状に驚き怪しみ復仇を誓った。
凍傷患者は激しい痛みのために泣き叫ぶ。
死体は頭部粉砕、シャツ1枚。この様子は以下の負け戦に共通していて日本軍の報復心をいやがうえにも燃やした。貧しい農民兵には日本軍の防寒具は宝物に等しかった。パルチザンは武器や武具を戦利品で補充した。
第2大隊代理末松少尉率いる討伐隊150名はギリシア正教徒の村インノケンティエフカを早朝野砲2門で攻撃した。パルチザンは馬や橇で逃げ出した。主力は前日に離村していた。「斯クテ討伐隊は終日村内ヲ捜索シ、小銃15挺を押収シ・・・」 同夜そこに「宿泊セリ」
参謀本部出兵史が一方的な勝利をこともなげに記した陰に、渦中で虐殺の実行者、目撃者になった松尾勝造一等卒の阿鼻叫喚を記した『シベリア出征日記』(1978年)が在る。
燃え盛る村で逃げ損なったものが盛んに撃ってくる中、抜剣した士官、曹長を先頭に、兵士が着剣して怒涛の如く突撃した。「硝子を打ち割り、扉を破り、家に侵入、敵か土民かの見境はつかぬ。手当たり次第撃ち殺す、突き殺すの阿修羅となった」
両手を挙げる者拝む者を容赦なく殺害。数名居た正規兵は本部に連行し審問の上突く刺す斬首のなぶり殺し。ガラスや戸の壊れる音、屋根が焼け落ちる音、家が焼ける風音、豚の焼け死ぬ泣き声、走り回る馬の足音、妻の泣き叫ぶ声、擬音語入りで真に迫った描写が続く。
ここで私ははっと気づいた。その時心が鬼だったと述懐する記録者が目や耳に一生焼き付いて消すことのできない光景と号泣にまったく触れてないことに。それが何であるか、また記録者の掻きむしりたい胸の内は、想像に任せるしかない。

完全な敵場内に乱入したときの誰が敵か分からない恐怖心、復讐心、「露助め」がという侮蔑感が勝利の高揚感で勢いよく燃え上がったときの異常心理と行動はいつの時代でもどこの国においても世界共通である。記録者は元寇による壱岐対馬の虐殺もかくや、と想像した。私は島原の乱の原城落城を想った。 
2月17日堀大隊は「アンドレーフカにて約一千の敵と交戦し死者[堀少佐以下]将校2名, 負傷将校4, 下士卒22名戦死、行方不明18名なり」 村は焼かれ無人化した。
2月20日高橋少佐支隊、周辺で一番大きいビッシャンカ村宿泊。零下44度、凍傷患者多し。「一週間前、二千の兵を連れてムーヒンが来たが一夜泊まって何処かへ行ったと言ってゐた」 ちなみにムーヒンが武市に潜入した日は2月16日である。
2月26,27日、日本軍はパルチザンの主力部隊数千名(指揮官ドルゴシェーエフスキー)を追った。ユフタで遭遇して香田小隊45名、ついで田中大隊支隊162名が全滅した。続いて森山小隊58名と西川砲兵中隊35名全滅。貫通銃創と刺創にもかかわらず生き返った森山小隊山崎千代五郎の著著『血染めの雪』(1927)の戦死者名簿による。
山崎は慰霊碑建立に生涯をかけた。著書販売と講演会で全国を巡って資金をつくった。その間137回憲兵に連行された、と作家高橋治は書いている。
3月3日高橋大佐大隊と高橋少佐支隊が追い続けていたパルチザン主力部隊をハサミ討ちにして形勢逆転、総崩れにした。敵はパーロフカ村から逃げ出し橇で追撃を振り切った。参謀本部出兵史は当夜そこに「宿泊セリ」とだけ記録したが、村は焼き払われて無人になった。皆殺しだった。
高橋治は『派兵』(1976)で、老兵たちにインタヴューを試みたが、この件だけは表情を硬くして語りたがらなかった、と云う。ヴィエトナム戦争の「ソンミですよ、南京大虐殺ほど大規模ではなかったようだが、ま、ソンミそのものといえるでしょうな」(第14連隊谷五郎)

3月9日 武市でムーヒン密殺
上掲松尾日記では同郷友人の話として、夕方「釈放」と偽って「走って逃げかけるところを第二中隊の兵2名が後方より射撃したら、4発の弾丸を背に食らって即死せり」と記している。松尾日記に従えば捕虜は銃殺か斬殺が当たり前だった。疑わしい者は殺された。
3月22日、日本軍はアムール州パルチザンの巣窟視していたイワノフカ村に帳尻合わせの清算に出撃した。
「犠牲者は無力な村民だった。村の記録で死者は300人を超える。小屋に閉じ込め36人を焼き殺した跡に炎の碑が立つ。257人の銃殺現場にも慰霊の碑があった。
作詞作曲者不詳の〈炎のイワノフカ〉は、高齢の女性が無伴奏で歌う録音が村の史料館に残る。
♪ 生きてて良かったね/私みたいにならなくて/小屋の中で焼き殺された/屋根に逃げても弾の雨/日本人のやったこと/日本人のやったこと...」( ロシア住民虐殺で追悼式典 イワノフカ事件90年 共同通信社 2009年7月12日配信)

3月28日、山田旅団長発の「過激派掃討計画」は「去就に迷える農民」の信頼を得るため「家屋の焼夷破壊」を禁止し「老若婦女に対する言動を慎み」略奪を戒めている。新たな敵をつくることを懸念し始めたようだ。
短慮浅慮と言おうか、上記の焼き払いはそれまでの派遣軍大井師団長、山田旅団長の〈敵か味方か判別できないから敵対するものあるときは容赦なくその村落を焼棄すべし〉という指令に呼応していた。
大虐殺は指揮官次第だ、と私は結論し持論としている。

ムーヒンの死とイワノフカ村壊滅をもってアムール州パルチザン戦は調整期を迎えた。主力部隊は帰村派と継戦派に分裂し、戦士も千人位に半減した。さらにパルチザンは大隊、中隊規模の編成をやめてそれを小さなゲリラ隊に細分化した。その分大きな戦闘がなくなる。
いよいよバイカル湖東西の戦場に目を転じよう。そこにクラスノシチョコフが居る。コルチャーク政府の囚人として。

【出会いと和解と鎮魂】1994年シベリア抑留者の慰霊碑を建てようとイワノフカの埋葬地を探していた全国抑留者補償協議会斎藤六郎会長「日本人の墓はありませんか」 ゲオルギー・ウス村長「あなたはこの村で日本が何をしたか知らないのですか」
翌年日露合同の慰霊碑が建立された。今なお不完全な名簿を補充しようと努めている日露遺族の執念と鎮魂の思いに頭が下がる。

 
出典  http://www.amur.info/news/2012/08/27/6052