自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

開拓/ジャングル体験

2010-02-18 | 体験>知識

父は1904年日露戦争の年に、母は1914年第1次世界大戦の年に、日本で生まれた。
父母は青春時代に移民の辛酸をなめ、貯めた資金で開拓の果実(コーヒー園)を得た。
父母が結婚とほぼ時を同じくして入植したロンドリーナ市は、市とは名ばかりで、まわりの密林を開拓する拠点の小さな町にすぎなかった。
サンパウロ州から見て奥地とよばれていたパラナ州は樹海の中に数十キロメートルごとに町が設けられ幹線道(馬車道兼車道)でつながっていた。
わたしが写真で想像する原初のそのころの町は、西部劇に出てくるような小さな町の光景をイメージさせる。
町の中心に教会、雨が降るとぬかるむ道の両側に市内で唯一の鍛冶屋、建材屋、雑貨屋、居酒屋が点在した。
郵便は雑貨屋か居酒屋が取り扱う。
織物店、医者の記憶はまだない。

1926年に始まった開拓の手順は次のとおりである。
まず英国系北パラナ開拓会社が密林を10エーカー(25ヘクタール)単位で区分けし分譲する。
入植者がもやって伐採し乾燥させ数区画を一気に焼き払う。
炎が天を焦がし黒煙が太陽をくまどる。
空から灰が降りしきる。
今でいう生物多様性が1日で失われる。
わたしはこの光景を1度遠くから見たことがある。
最後のヤマ焼きだったかもしれない。

わたしの居住地から遠くないところに1区画密林の名残があった。
「ガイジン」の親子の狩について行ったことがあった。
妨げになる樹や枝を切り払い茂みをかきわけて道を開けながら進む。
湿った落ち葉を踏む感触、蒸せるような朽ち葉の匂い、ひんやりした冷気、そして繁る青葉が放つ芳香ペトンチッド。
聞きなれない鳥の鳴き声。
サルのなき声も混じっていたかもしれない。
そしてなによりも神秘的な雰囲気がかもし出す安らぎ。
わたしは今なおジャングルの野生にいちばんあこがれる。
この体験がなかったら私の人生はまったく別物になっていただろう。
竹の子に似た椰子の若芽パルミットを食べ待伏せ小屋までつくって獲物を待ったが1羽の鳥も1匹のサルも獲れなかった。
銃を撃つこともなかった。

43年後人口50万の大都市になっていたロンドリーナ市を訪れた。
かの密林はブラジル有数の総合大学に変わっていた。
高さ30mの幹と樹冠だけの見事な巨木が数本往時を偲ばせるだけだった。
その地区は大学のシンボルツリー・ペロバの名をとってペロバウとよばれ市民に親しまれている。

市の中心部に建つ開拓碑には父母の名が刻まれている。
父の入植は1933年、母のそれは1935年、鉄道が開通した年である。


外国語習得つづき

2010-02-09 | 体験>知識

英語の勉強? 勉強? それまで二言語を意識したことはなかった。
ひとが呼吸を意識しないように。
家では日本語で外ではブラジル語で会話していたが使い分けを意識したことはなかった。
こどもにとって言葉は呼吸みたいなものだ。
空気があれば、いや雰囲気があれば、自然におぼえるものだ。

ただし思春期がはじまるまでの期間限定だ。
自意識が強くなった後ではネイチヴスピーカになりにくい。
わたしは中学入学以来60年近く英語を「勉強」し続けてきたが今だに意識しないと話せない。
ブラジル語も同様になった。
12年間話した言語はその後同じ期間まったくその言語環境にいないと外国語になってしまう。
現在フットサルFリーグで活躍しているタケシが単身ブラジルに渡ったのは12歳になったばかりの夏(ブラジルでは冬)だった。
わたしが連れて行った。
かれはじかにブラジルの中学に入った。
高校は中退して、フットボールのプロ選手になった。
足掛け10年ブラジルで修業した。
かれはネイチヴ同様自由に話ができ読み書きができる。
もしかれが思春期に渡伯していたら10年近く滞在することもネイチヴスピーカになることもなかったであろう。


外国語習得

2010-02-02 | 体験>知識

こどもは生まれた直後に鼻と口を使って呼吸をはじめる。
同時に産声を上げる。
声や音を聞くことは胎児に始まるらしい。
コトバの習得の始まりである。
呼吸は一人でできるが言葉の習得はまわりに話す人がいないとできない。
子供にとって母親が最初で最高の言語環境である。
わたしの最初の記憶が「子供の前で」という、母親が「外人」に言った片言のブラジル語 (ポルトガルのかつての植民地語)だったことは外国語習得のヒントになるだろう。
ひとは外国語に接するまでバイリンガルを意識することはない。
わたしが最初に外国語を意識したのは日本に来る船上であった。
12歳のわたしより一つぐらい年上のDさんちの女の子が日本の少年雑誌付録の英語辞書を見せて、日本では英語の勉強がある、と教えてくれた時だ。
そのときの船室の様子とたわいないエピソードを記す。
帰国移民の日本人はたいてい船底の3等船室で寝起きした。
船室とは名ばかりで実態は仕切りのない船倉B1階だった。
数万トン級の貨客船だったのでB1,2階は主として貨物室だった。
2人用の2段ベットが何列も並んでいて乗客は隙間なくつめこまれた。
父と母が下に居をとると一人っ子のわたしの居住空間は上になった。
大家族のDさんちの女の子がはみだしてわたしと同じベッドになった。
わたしは思春期前だったので何の違和感もなくぐっすり眠れた。
彼女はまわりから何か言われたのか2,3日で居なくなった。(つづく)