自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

ノーメンクラトゥーラまたはテクノクラート/新しい抑圧階級の誕生

2019-07-23 | 革命研究

抑圧民族、すなわち、いわゆる"強大"民族にとって国際主義は、諸民族の形式的平等を守るだけでなく、生活のうちに現実に生きている不平等に対する抑圧民族、大民族のつぐないとなるような不平等を忍ぶことでなければならない。 ソ連邦誕生翌日のレーニン口述遺言  1922年12月31日 

生産工程に絞っていた視野を工場の管理部へ、さらに企業経営、国民経済へ広げて見たい。それは視点を生産力から生産関係に移すことでもある。

全工程を合理化し運営するのは頭脳部門の計画部である。革命ロシアでは工場委員会、労働組合がその役割を果たすべきだという議論とブルジョア専門家を高給で雇うべきかの議論とが同時に戦わされた。明治政府がお雇い外国人に依存したように、ロシアでも内外の専門家に頼るほかなかった。
このコラボ状態をレーニンは労働者統制と言った。もちろん共産主義の労働者がブルジョア専門家を統制するという意味である。この階層関係を基本とする体制をレーニンは国家資本主義であると強調した。
続けて「左派」の即時「断固たる社会化」=国有化を意識して述べた。遅れた「ロシアは、国家資本主義にも社会主義にも共通なもの(全人民的な記帳と統制)をとおらずには、現在の経済状態から前進することはできない」

そして革命の翌月に、計画経済の開始など夢想だにできない状況で、国民経済の計画的調整機関として最高国民経済会議を創設し同時に労働者統制(つまり実行機関として労働組合)の中央集権化も決議した。が、前稿でみたとおり戦時共産主義の渦中でそれらは有名無実に等しかった。
内戦期に闘いの勢い、弾みで実際に起こったことは、労働者統制をほとんど素通りして、工場委員会による「国有化」と「生産管理」であった。しかし実態は自己本位の工場占有と財産略取であった。ときには個々の工場委員会が原料、燃料さらには食料を調達する目的で田舎に押し買いに行った。無政府状態という意味でも戦時共産主義だった。

生産の復興がソヴィエト権力にとって死活問題となって採用された新経済政策NEPは、小商いを合法化した点で統制の緩和、資本主義の部分的容認であったが、ソヴィエト権力の下での労働者統制、国家資本主義の枠内に収まる政策であった。
労働者によって十全の統制が実施され、生産と管理の技術が先進国ドイツなみになれば、ロシアは「社会主義の総和」に達する、とレーニンは展望を語っている。したがって、必要な教育を受けた労働者がブルジョア専門家に代わって国全体の生産と分配を調整・管理し、農業集団化+計画経済を実施して重工業国化を実現したスターリン体制のソ連は、社会主義国と定義してもよさそうである。生産力視点に限れば、である。
生産関係視点でみれば様相は依然として国家資本主義である。資本の所有形態はさして問題ではない。国有であろうと持ち株会社であろうと、資本と経営の分離は共通である。独占資本主義(トラスト資本主義とも称された)もまた、世界市場分割戦争で覇権を争う過程では、国家官僚の統制を受け(第1次世界大戦は総力戦だった)その間は国家資本主義の一類型と化した。

時代は飛ぶが、統制経済という点ではヒットラーのドイツとスターリンのソ連(及び、いうまでもなく軍国主義日本)との間に違いはない。またドイツの企業経営者とソ連の経済官僚との相違は、個別資本的立場に立つか総資本的立場に立つかの違いでしかない。両者の機能、職能に違いはない。分野の別はあっても共に高度の専門知識をもつテクノクラートである。
ヒットラーが総選挙で第一党に躍り出た1933年、シモーヌ・ヴェーユは歴史による検証に堪え得る論文「展望」を世に出した。ソ連を
歪曲された労働者国家とするトロツキーの認識に次のように反論した。
デカルトによれば狂った時計は時計の法則の例外ではなく法則内の異なったメカニズムである。「同様に、スターリン体制はこれを狂った労働者国家としてではなく、それを構成する歯車装置によって規定され、その歯車装置の本姓に適合して作用するところの、異なった社会的メカニズムとしてみなさなけらばならぬ」 スターリニズムとナチズムは同類である。
「あたらしい種類の抑圧、機能〔職能〕の名において行使される抑圧が来つつある」
「大衆にかかわるすべての政治的潮流が、ファシズム的、社会主義的、共産主義的のいずれを以て呼ばれようとも、国家資本主義という同一の形態にむかっているという事実を、閑却することはできない」
「社会主義とは、勤労者の経済的主権であって、国家の官僚的・軍事的機関の主権のことではない」

レーニンは、目標とする経済の「記帳と統制」を遂行するテクノラート(当時出来立ての用語。レーニンの用例は無い)が特権階級にならない歯止めをコミューンの3原則に求めた。パリ・コミューン(評議会)は1871年に72日間だけ存続した民衆革命政権である。コミューンについて、マルクスは、「労働の経済的解放を成し遂げるための、ついに発見された政治形態」と評価し、レーニンは、プロレタリア革命の先駆的模範と考えた。
「(一)選挙制だけでなく、随時の解任制、(二)労働者なみの賃金を越えない俸給、(三)すべての人が統制と監督の職務を遂行し、すべての人がある期間"官僚"になり、したがって、だれも"官僚"になれない状態へただちに移行すること」
これは十月革命の直前に蜂起の背中を一押しするために書かれた『国家と革命』に見られるレーニンの社会主義ユートピアである。
レーニンは戦時共産主義に終止符を打って間もなく深刻な健康悪化におちいり翌22年脳卒中で十分活動ができなくなった。NEPと国有企業の労働者統制の実行過程にかかわることも、国家資本主義から「全人民的記帳と統制」(社会主義)への道筋、ロード・マップを描くこともできなかった。
だから私はコミューンの三原則を読み直してレーニンの夢想の中の社会主義像を以下のようにまとめて明確にすることにした。
三原則の(三)「すべての人が統制と監督」が後に「物資の生産と分配とにたいする全人民的な記帳と統制」の警句に定着した。労働者がブルジョア専門家に学んで、また年少者が学校教育の普及で、専門的能力を身につけて、交代で「官僚」の職務を遂行する状態になれば、労働者とブルジョアの区別も、労働者管理というコトバもなくなり、かつ、階級なき社会だから政治的国家も消滅する、とレーニンは考えた。
この社会主義像は、当然のことだが、見る人が生きている時空のいかんによって見え方が違う。1960年代のわたしはそれに埋み火のような情熱をもらって活動したあと、それの実現可能性の検証に机上で挑んだ。
それは20世紀の終わり近くまでながらく青年の夢でありつづけたが今日では知る人すらいないであろう。それも当然である。歴史は急転し現実は急膨張して個々の人間は相対的に空しくなり理想社会を空想する余地がない。
それでも、レーニンが官僚機構を国家と経済の屋台骨と見定めて、その機能を独占資本主義から継承した後に、官僚を必要としない「科学的社会主義
」の未来があると信じたこと、その不可欠の機能が特権的職務にならないための原則、措置に言及したことは、どれも、今なお私には示唆的である。ソ連、中国と日本の歴史と現状を見渡せる今だからこそなお一層示唆的である。
つまり、その機能は全人民がかかわれるほど簡易ではない。職務化された存在感のある高度の機能は自己主張を通さずにはおかない。三原則の中の選挙・リコール制と労働者なみの俸給制は何の保証にもならない。なんらかの特権と官僚機関とは不可避であり、所有によらない、占有による階級もまた避けられない。
かつて理想とされた通りの社会主義は不可能である。しかし社会福祉に傾いた国家資本主義と富の公平な配分は可能である。この公平は冒頭のレーニンの遺言が含意する公平である。

1921年、NEP期のロシアで国家計画委員会(ゴスプラン、前身は全国電化計画委員会ゴエルロ)、国立銀行(ゴスバンク)があいついで設立された。まだ機能していないが、レーニンのいう非政治的国家の機関である。しかし先に始動したのは共産党という名の国家の最高機関だった。
1922年4月、5人の政治局員の一人スターリン(ほかの4人はレーニン、トロツキー、カーメネフ、ジノヴィエフ)が新設の書記局の書記長を兼任した。書記局の設置自体が政治局の「小部屋」が権能増大で狭くなった証左である。その時点で党の書記長が国家の最高指導者を意味する時代が来るとは当のスターリンはもとより誰も想像できなかった。ところがこれがソヴィエト・ロシアの官僚機構の最高機関に急成長していくのである。
革命政権はいわば成行管理、出入りの多いかなり混沌とした組織であったが、スターリン書記長の出現によって、時間はかかったが、初めてテクノクラートによる管理の形が創られた。スターリンはエリート人別帳₌ノーメンクラトゥーラに基づく人事制度を作り上げた。ノーメンクラトゥーラは後に転じてソ連の新しい階級を指すコトバになる。
重ねて言うが、官僚制度化は政治過程が生産過程に先行した。1922年5月と12月、レーニンは脳卒中の発作で倒れた。スターリンは人事と情報をテコに短期間で書記局を実権のある機関にした。またレーニンのいない政治局内でトロイカを組んで徐々にトロツキーを孤立させることに成功した。

一党独裁の国家では党が国家より上位にある。共産党幹部会が最初で最強の官僚機構になろうとは、レーニンは考えたこともなかったであろう。そして党官僚による最初の被害者がレーニン夫妻とグルジア共産党幹部であったとは何たる皮肉、悲劇!  しかしテーマからそれるのでここではちょっと垣間見ることしかできない。 
レーニンは安静を理由に面会と情報から遮断された。スターリンが監督責任者であった。
レーニンは、民族人民委員兼党書記長のスターリン(グルジア出身)がソ連邦結成(1922年末)にあたり、グルジア共産党幹部の民族自決派を排斥したのを知り、ソ連誕生の最中に、ロシア大国主義の是正のために、不退転の決意で病の床で孤軍奮闘した。
書記局が首都トビリシに送り込んだ調査団の報告書が弾圧(パージ、殴打)の追認であるのを見て、レーニンは、スターリン書記長の更迭を勧告する内容をふくむ遺書を口述した。直後の1923年3月10日、3度目の発作でレーニンの最後の闘い(党内官僚主義にたいする闘争!)は幕を閉じた。逝去は1924年1月21日である。

ままならぬ身体と孤立を強いる周りの状況に憤慨し悔悟し絶望するレーニンの心境は察するにあまりある。冒頭に遺言の一部を唐突に掲載したのは国際主義者₌レーニンの無念に想いを寄せたためである。その時、わたしは、先進国は後進国の商品を市場価格ではなく政治価格で買うべきである、と主張したゲバラの持論に想いを馳せていた。
 
 麻痺状態のレーニン  1923年夏  出典:Wikipedia

レーニンは、ゲーテの言葉を引いて、個人の生き生きした活動を窒息させる形式的で硬直した仕事のやりかたを官僚主義として、しばしば非難し是正を訴えた。だが党幹部の官僚主義的手法からくる事務渋滞および政治的不都合と闘ったにすぎず、「労働者の前衛」共産党がドグマで凝り固まった官僚機構になり、共産主義教育を受けたエリート党員が要職に就き新しい階級となることに無警戒であった。無警戒の根底に先進産業国に固有の頭脳労働の過小評価があった。

他方「展望」で世界に蔓延しつつある全体主義を目前にして、ヴェーユは、つぎの絶望に近い言葉を遺した。社会主義のたった一つの希望は、今日の社会において可能なかぎり、われわれが目ざす社会を規定するあの肉体労働と知能労働との結合を、今のうちから自分の内部に実現した人々にかかっている」
「いずれにしても、われわれにとって最大の不幸は、成功することも理解することもできずに死ぬことである。1933.8.2」