音楽の素養のない自分がなぜN先生によばれたのか分からない。
後年成人してから電話の声が美声だと一度だけいわれた事があるのでそのせいかもしれない。
今は不惑を越えた頃から声が遠くまで届かなくなった。
合唱がラジオ局で収録されたことがあった。
そのときステージで緊張から手の平がひっくり返る感じがした。
アガルとはこういうことかと実感した。
県の合唱コンクールで勝てなかった。
いまひとつ生き生きとした盛り上がりが無い、という評価を受けた。
N先生は自分の指揮棒が抑えすぎたとわれわれをかばった。
ちなみに同コンクールには高校で親友になるⅠも参加していたと後に知った。
たしかに黒い丈の長い服を着て指揮棒を振るっていた生徒がいたことを憶えていた。
私には女友達がいなかった。
他の男子も似たり寄ったりだったと思う。
まだ男尊女卑の封建的伝統が世間の空気となっていて、恋愛は小説、ラジオ、映画などヴァーチュアル空間の絵空事だった。
未成年の男女交際は1対1はダメと指導されていた。
新聞では「桃色遊戯」のニュースがよく載った。
そんな中オンリーワンの彼女ができた。
男女間で人気のある他クラスのNだった。
学年のマドンナの一人だった。
目元のふっくらしたところが武井咲演じる常盤御前に似ていた。
芸能と運動に秀でた活発で笑顔がなんともかわいい子だった。
合唱部が男女混声で練習や移動の中で会うことがきっかけだったと想う。
アイコンタクトだけの恋だったが、目が合うたびに胸がときめいた。
目は口ほどにものを言う。「想うは、君ひとり」
ポーカーフェイスの応対だったので3年間うわさにならなかった。
たとえば列車の連結部に立つ彼女が下から吹き上げる風でまくれるスカートを押さえながらちらっとこちらを見て笑みをもらしても誰もあやしまなかった。
自分たちだけの秘密を共有するだけで満足だった。
毎日が浮き浮きの幸せな3年間だった。
時代もまた朝鮮戦争の特需 (日本が米軍の兵站基地だった)を追い風に高度成長準備期に入り春の陽のように暖かでゆったりとして心地よかった。
半島では何百万もの命が失われた。
1953年7月27日、60年前の今日、休戦協定が結ばれた。
悲劇は今なお続いている。