自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

合唱部/初恋

2013-07-27 | 体験>知識

音楽の素養のない自分がなぜN先生によばれたのか分からない。
後年成人してから電話の声が美声だと一度だけいわれた事があるのでそのせいかもしれない。
今は不惑を越えた頃から声が遠くまで届かなくなった。
合唱がラジオ局で収録されたことがあった。
そのときステージで緊張から手の平がひっくり返る感じがした。
アガルとはこういうことかと実感した。
県の合唱コンクールで勝てなかった。
いまひとつ生き生きとした盛り上がりが無い、という評価を受けた。
N先生は自分の指揮棒が抑えすぎたとわれわれをかばった。
ちなみに同コンクールには高校で親友になるⅠも参加していたと後に知った。
たしかに黒い丈の長い服を着て指揮棒を振るっていた生徒がいたことを憶えていた。

私には女友達がいなかった。
他の男子も似たり寄ったりだったと思う。
まだ男尊女卑の封建的伝統が世間の空気となっていて、恋愛は小説、ラジオ、映画などヴァーチュアル空間の絵空事だった。
未成年の男女交際は1対1はダメと指導されていた。
新聞では「桃色遊戯」のニュースがよく載った。
そんな中オンリーワンの彼女ができた。
男女間で人気のある他クラスのNだった。
学年のマドンナの一人だった。
目元のふっくらしたところが武井咲演じる常盤御前に似ていた。
芸能と運動に秀でた活発で笑顔がなんともかわいい子だった。
合唱部が男女混声で練習や移動の中で会うことがきっかけだったと想う。
アイコンタクトだけの恋だったが、目が合うたびに胸がときめいた。
目は口ほどにものを言う。「想うは、君ひとり」
ポーカーフェイスの応対だったので3年間うわさにならなかった。
たとえば列車の連結部に立つ彼女が下から吹き上げる風でまくれるスカートを押さえながらちらっとこちらを見て笑みをもらしても誰もあやしまなかった。
自分たちだけの秘密を共有するだけで満足だった。
毎日が浮き浮きの幸せな3年間だった。

時代もまた朝鮮戦争の特需 (日本が米軍の兵站基地だった)を追い風に高度成長準備期に入り春の陽のように暖かでゆったりとして心地よかった。
半島では何百万もの命が失われた。
1953年7月27日、60年前の今日、休戦協定が結ばれた。
悲劇は今なお続いている。

 

 

 


キャンプ/津屋崎海水浴場

2013-07-14 | 体験>知識

夏休みを利用して近所の年下の子達を連れて玄界灘に面する津屋崎海岸にキャンプに行った。
距離にして80km,国鉄と西鉄電車を利用して2,3時間、こども達だけでよくも
行ったな~と感心する。
大人に相談することもなく自分たちで新聞で調べて知らないキャンプ場を選んで手紙のやりとりで予約した、と思う。
我が家は電話を引いていなかった。
松林の中にキャンプ場があったがテントの中で泊まった記憶がない。
来る日も来る日も雨が降り、ずっと海の家で寝食をとった。
飯塚の大学水泳部が合宿していたので一緒にトランプ等の遊びに興じることができた。
彼らは常連客だったので宿の女将と親しく、そのお陰でわれわれ子供の一団も同様の接待にあずかることができた。
雨が止んでいる間は浜辺で遊んだ。
大学生にマテ貝の捕り方をならった。
潮が引いた浅瀬の表面をスコップですくうと小穴が現れる。
穴に塩を指でひとつかみ入れて指をそのままにして数秒待つと潮が吹き出て来る。
マテ貝がいる証拠だ。
マテ貝の上半身が一瞬飛び出る。
即引っ込むのでつまむタイミングが遅れると捕りそこなう。
引っ張り出すときの手応えは相当なもので潮が満ちて来るまで時間を忘れて夢中になる。  
捕ったマテ貝は女将に味噌汁か焼き貝にしてもらって合宿者一同で食べた。
大学生の中にははるか沖の岬か島まで遠泳する者もいた。
私が成人するまで年賀状をやりとりしたひともいた。
今考えると当時の大人は子供の冒険に寛容だった。
子供たちが雨に降り込まれて難儀していると親は心配したにちがいない。
電話がないのでずいぶん気をもんだことだろう。
自然も社会も家庭も子供の自立をサポートしていた。
有り難いことだ。

 

 


学友/かじっただけの体験集

2013-07-08 | 体験>知識

いろんな体験をしたが何時ものことだが長続きすることはなかった。

覚醒剤ヒロポン中毒が社会問題になっていて学校でも映画でその怖さを宣伝していた。
注射液の空カプセルがあるのではないかと想定して剣道部のT先生が部員の一部を連れて神社のお神楽の屋根裏に上った事もあった。
心配は杞憂に終わった。
有ったのはネズミの糞だけ。
学校には不良と呼べるほどのワルはいなかった。
悪ぶった男子は若干いたが・・・。
授業妨害、クラス崩壊等見たことも聞いたこともなかった。

切手を収集している友達に刺激されて久留米市の交換会に出たこともあった。
折りしも切手ブームの最中でその交換会に三井高陽氏が臨席していて個々の相談にのっていた。
初めて聞いた名前だったが後に斯界の泰斗であることを知って驚いた。
戦後のことなので満州切手とか「クロアチア」切手とかを持っていた。
そのときには日本の傀儡「満州国」は崩壊していたし、クロアチュア独立運動のゲリラはチトーのユーゴスラビアによって一掃されていたはずだ。

友達と兎狩りに行ったが姿すら見ることができずわらびを摘んで帰った。
大橋村の友人と小遣い稼ぎに田んぼの畦の芹を摘んで出荷した。
自転車の荷台に積めるだけ積んで朝早く久留米市の市場まで運んだのに10円にしかならなかった。
友達のはそれなりの価格で競り落とされた。
未経験のわたしが芹の根を切り落として綺麗に束ねたのがいけなかった。
日持ちさせるには根付きが常識、ということをわたしは知らなかった。
事務所で10円を受け取るときの恥ずかしい気持ちと友人の慰めの言葉に窮した表情が忘れられない。
他人に頼らない能動性は長所だが独りよがりの思い込みは私の短所だ。