自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

川遊び/溺れない知恵は川に習う

2010-08-28 | 体験>知識

確かではないが1947年9歳頃のオラリアでの体験。
大雨の中を引越しして着いた先のオラリアの第一印象は洪水だった。
沼沢地は大水で大きな池になっていた。従業員たちが下着姿で泳いでいた。
空気がたまってパンツやシャツが浮き袋のように膨らんでいた。
この地で初めて釣りと水泳を体験した。
手製の竿と糸に釣り針をつけてみみずでよくナマズを釣った。
釣った魚はフライにして家族で食べた。
父と遊んだ数少ない記憶のひとつがここでの釣りである。
父は使用者から雇われ人に変じたので暇ができたのだった。
最初の水泳は手荒なふざけで始まった。
川辺で仲間と水遊びしているときどこかのお兄さんがいきなり私を頭より高く持ち上げて1mぐらい崖下の小川に放り込んだ。
溺れるような川ではないが必死にもがくうちに川が怖くなくなった。
アランコーンとよんでいた変な泳ぎをおぼえた。
頭は水面下に沈めない、手は水面に出さない、手足の連動が「バタフライ」様の泳ぎ方を想像してもらいたい。
わたしがなめらかに水上を滑るようにクロールできるようになったのは大学に入ってからである。

無断で夜中に大学のプールでひとり練習した。
顔を上げると上げた分だけ反動で体が水中に沈む。
顔を上げない息継ぎを心がけると距離が一挙にのびた。
塩素消毒の水で目がしびれてくるので1500mが限界だった。
大学卒業後よく塾の中学生と嵐山の急流保津川で泳いだ。
川に流されたときはあわてず、そのまま流されるとどこかに流れ着いて助かることがわかった。
岩がゴツゴツしている浅い急流では腹と頭を護るために足を先頭に背中を水につけて流されると良いことを知った。
泳ぎができるのに溺れる人が多い。流されまいと必死になって体力を使い尽くして溺れてしまう。
そのご若狭の海水浴場で塾生とキャンプしたとき引き潮にあらがって引率の同僚が溺れそうになった。離岸流と言えるほどの大きな流れだった。
海のエネルギーには勝てない。沖まで漂流しているうちに助けが来るか近くの浜に逆流するのを待つ*。
*2014年夏、29歳の男性が伊東市から下田市まで40km21時間漂流して奇跡の生還を果たした。彼は仰向けに大の字になって流れに身を任せた。uitemateは水難学会の用語になっているらしい。
最後に古泳法の師範に教えてもらった救助法を紹介しよう。さいわい実践したことはないが。
溺れかけている者は必死にしがみついてくるので救助者も危ない。
突き放して背後から抱きついて動きを止めよ。
それができないほど暴れる場合は沈めて少し水を飲ませよ。

何事もほどほどが良いようで・・・そのほどほどを知るには体験しかない。

 



 

 

 


帰国嘆願詐欺/勝ち組顛末記

2010-08-21 | 家族>社会>国家

認識派が敗戦を機に民族的しがらみを振り払うようにして移民社会からブラジル人社会に一歩踏み込んで社会的飛躍のステップを築いて行く一方で、信念派は敗残兵のように各人各様に道をさ迷うことになった。
信念派の臣道連盟は大東亜共栄圏への再移住を目的に「一時帰国運動」を始めた。
父は資産凍結下なのに、「迎えに来る」帰国船に乗り遅れてはならじとコーヒー園を「ガイジン」に売った。
父は助言を得て登記を拒否したので購入者がオラリアまで来て登記を迫った。
車から降りるとき腰のピストルがちらりと見えた。
後に裁判になり父は敗訴した。
資産の3分の1を失ったと父がつぶやくのを聞いた。
96歳の母は否定しているがわたしは父がある詐欺師に騙されて裁判を闘ったと信じている。                                                      まもなくブラジルは日本の属国になるからブラジルの法律に従うな、と助言されたらしい。
その男は堀澤を名乗り弁護士を騙って首都リオの湾内の島に在る別荘に事務所を構えて、ペチソンという「帰国嘆願」運動を主宰して帰国願望者から金を集めていた。
わたしはあえて堀澤を前出のプロの詐欺師川崎三造に擬したい。
川崎は北パラナ(まさにわが故郷)の勝ち組のドン谷田才次郎と二人で臣道連盟帰国運動発起人渡麻利誠一に面会し特務機関南郷大尉であると信じ込ませマンマと資金援助を得た。
当時南郷大尉と聞けばたいていの日系人はころっとだまされたにちがいない。
兄弟とも大尉で兄は撃墜王にして後「軍神」、弟も撃墜王で「型破りの颯爽とした長身で、いつも男性的な野性味を発散させていた。その明朗、括淡たる風格、そして豪勇にして、てらわず、ぶらず、これほど衆望を集め上下同僚に愛された人物はまた稀有であった」(ウイキペディア)
「長身でダンディなルクスだけでなくある意味で限度をわきまえた詐欺師だった」と醍醐麻沙夫氏が描いた川崎の特徴が堀澤の風貌と行動規範に似ている。
わたしは別荘玄関に立つスラットした堀澤と小柄な父の2ショット写真を家でみたことがある。
運動資金請求が「それくらいなら」と応じやすく露見した後も訴え難い金額だった。
父は飛行機を利用して来るはずのない帰国船情報を聞きにたびたびリオの堀澤の事務所に出向いている。

終戦まもない頃は迎えの艦船が来る、慰問使節団を乗せた船が来る、というデマのたびに「奥地」から移民がサントスやリオの港に押し寄せた。
偽の乗船切符、帰国後使うための円への両替が詐欺の手口だった。
無価値な旧紙幣と引き換えに土地を売った人もいたという記事がある。      
 「南郷大尉」こと川崎もお忍びで来伯されている朝香宮を支援するという名目で詐欺をはたらいた。                                            帰国嘆願、帰国船切符の予約、慰問使節団と朝香宮の来泊といった虚偽を利用した詐欺行為の背後に見え隠れするのは、孤児が慈母を慕い待つような移民たちの望郷の念、母国帰国願望、母国補償願望、自分達は棄民ではないという確認願望ではなかろうか。
今様に言えば、戦中の移民社会は、癒しをクニにしか求められない、絶海の孤島に放置されたも同様だったとわたしは思う。
資産凍結、言論出版集会統制、日本語教育の禁止、新移民の禁止、日本国出先機関の総出国、情報の途絶、そして青天霹靂の敗戦の報、孤立し前途が見えない移民社会が狂信に陥り愚行に走ったことをわたしは理解できる。

1951年、国交回復を翌年に控えて自費で帰国できる時が来た。
詐欺師の口車ではなくオランダ船籍の貨物船に乗って「帰国」することになった。
終戦から数えて6年の歳月がいたずらに過ぎ去っていた。
なんとも思わなかったが、その間わたし(12歳)は学校に行っていない。
日本に帰るのだからブラジルの学校に行く必要はない、と父に言い渡された。まわりの日本人の子供は学校に通うようになったが、わたしは自分も行きたいとは思わなかった。


勝ち組と負け組/1946年 移民社会の激震と対立

2010-08-15 | NEWS/現実認識

1945年8月15日正午、65年前の今日、日本国民は昭和天皇の「玉音放送」により一瞬にして敗戦を認識した。
情報途絶の暗闇の中にいたブラジル移民のほとんどは、隠れて聴いていた短波放送の「大本営発表」の勝報しか知らず、ニュース源がなにであれ敗戦の報を聞いても「神国日本が負けるはずがない」という信念を変えなかった。
たちまちのうちに敗戦は敵のデマ、実は大勝利、なる虚報が移民社会を駆け巡った。
報道は正体不明のラジオ放送、謄写版刷りのビラ(有料)でなされた。
世界中に出回ったミズーリ艦上の有名な降伏文書調印式の写真が偽造され連合国敗戦の証拠として回覧された。
わたしが小さいとき親たちはミズーリ艦をミソウリ艦と呼んで茶化していた。
戦中から活動していた興道会/臣道連盟は本気で日本からの軍師と艦隊を歓迎する会を準備する中で多額の寄付金を集めたため後日詐欺容疑で調べられた。
敗戦を認識した有力幹部が将来の移民の社会的地位向上のために積極的に認識普及運動を始めるとウルトラ信念派はあえて忠君愛国道からそれた認識派に対して「裏切り者」「非国民」「国賊」として天誅テロを加えた。
実に1947年1月までに23名が殺害され数十名が負傷した。
父母も信念派だったが活動家ではなかった。
父親は街に行った時は勝ち組新聞「ブラジル時報」を買って来た。
両派とも活動家は相当組織的に動いていたようだ。
わたしは真珠湾攻撃の有名なプロパガンダ映画を観た(見せられた)記憶がある。
巨大戦艦撃沈の勇壮なシーンが目に焼き付いていまだに消えない。
他方で見渡すかぎりの焼け跡の掘っ立て小屋の穴蔵を舞台にしたドタバタ喜劇映画「東京5人男」をみて非常に情けない気持ちになった。
このころ占領下日本の海外向け郵便が解禁され、移民社会に内地の手紙が来るようになった。
オラリア(レンガ瓦製造所)に移ってまもなく、推測では1947年前半、再生紙の封書かハガキが日本の肉親から来た。
GHQの検閲判が押されていた。
最長老の祖父が皆の前で読んでハラハラと涙を流して只一言云った。
「負けた。大東亜共栄圏の夢むなしくCHINAが赤化する」
その後は事業意欲旺盛な一族のなかでは敗戦は話題にも議論にもならなかった。
ひたすら帰国の道を突き進む父母は精神的に孤立したにちがいない。
わたしが生まれた1938年のある信頼できる調査では85%の移民家族が帰国願望で10%が永住希望だった。
終戦直後は90%の日本人が勝利を信じていた。
臣道連盟が幹部逮捕で壊滅する中で敗戦認識が決定的になったこのころには多分数値が逆転したと思われる。
事件は終息し移民社会の亀裂は「勝ち組負け組」事件として記録されるようになった。
そして日本国内の「歴史認識問題」同様、ながらく大っぴらに議論しにくい状態が続いたが、2007年、事件の核心部分が作家醍醐麻沙夫によって解明された。
http://www.brasiliminbunko.com.br/35.Brasil.Katigumi.                 TeroJiken.no.Shinsou.pdf
事実は小説よりも奇なり。
作家の推理パズルを完成させる最後のピースが見付かると事件は意外にも、にわかにわが家の身近に迫って来た感じがしはじめた。
特務機関を騙る戦中からの詐欺師川崎三造の登場に続く。


オラリアに転住/第2期の始まり

2010-08-07 | 家族>社会>国家

家族の帰国まで母方に身を寄せることになった。
トラックに家財道具をつんで大雨の中を移動した。
道路の赤土が粘土化し車輪がたびたび空回りした。
そのつど男たちは板や枯れ木を車輪の下に敷いてトラックを後押しした。
エンジンが止まると一人が前に回りスロットに専用クランク棒を指し込み柄を回して始動を助けた。
これがまた重労働で女子供の力では1回も回転しなかった。

オラリア(レンガ瓦製造所)は広大な敷地で川に面し、粘土を掘り取る沼沢地、労役馬を飼う放牧場、製造所の施設と雇用者住宅群を擁していた。
高台に大家族用の平屋マンションが建っていた。祖父母、母の弟妹が同居していた。
母には弟妹7人がいた。半分が結婚していた。ほかに日本で養子に行った弟がいたが不運にも戦死した。
わたしの生活環境も広がった。
核家族中心の生活から多重家族の生活へ、移民社会から多人種
社会へ、同年齢の交わりから異年齢集団の中へ。
ほかの子供たち同様相変わらず学校には行かなかったが行動範囲が広がり遊びも多彩になった。
乾燥場にレンガを運ぶ労働にも手を染めた。力がなかったのでこの手伝いは数回で終わった。
マンションの横に祖父、叔父たちが廃材で4室の平屋を建ててくれた。
此処で父母は来るはずもない日本からの迎えの船を待つことになった。
日本人は耳目を閉じていて日本がアメリカの占領下で鎖国状態にあることを考えようとしなかった。