自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

三里塚フィールドワークに参加/三里塚大地共有運動の会主催

2023-07-15 | 近現代史 空港反対同盟の戦い

7月2日にマイクロバス2台で一日かけて回った。参加者40人の内10人が青年男女だった。
岩山歴史館、木の根ペンション、東峰共同墓地&らっきょう工場、横堀鉄塔と横堀農業センターを見学し、大木よねさんをはじめ戦い続けて倒れた活動家の墓碑に祈りを捧げた。
それぞれの拠点で責任者の説明があったが、難聴のせいで一言も聞き取れなかった。もったいないが仕方がない。
もっとも印象に残ったのは50年以上の歳月が刻んだ大地の変容だった。拠点に行く狭い道は、高い金属板?に挟まれあるいはトンネルをくぐり、まるで迷路のようであった。横堀鉄塔は頂上である4階(先端部分は撤去されていた)まで上がることが可能だったが、まわりを囲む孟宗竹に視界をさえぎられていそうだ。
一度も切られることなく伸び放題に伸びた孟宗竹は、妙齢女性の胴回りほどの太さだった。その孟宗竹の周囲を空港会社のさらに高いネットと柱が包囲していた。鉄塔からの投石等に備えるためと訊いた。無人の鉄塔に対して監視塔から常時有人監視が行われている状況に、三里塚闘争が終わってないことを思い知らされた。



各拠点が畳敷きの合宿所を維持管理していることにも土地収用に対する闘争が継続している証しを見た。木の根ペンションのプールは改装済みだった。今後合宿イヴェントが組まれると思う。
豚汁の差し入れをいただいて、木陰で持参の弁当を開いた。



かねてから期待していた目的は、わが身の不調もあって何一つ達成できなかった。
始終戦いに生き、今後も多古町で第三滑走路に反対し続ける加瀬勉翁には逢って731部隊研究論文を所望したかった。岩山在住の柳川秀夫氏には地球環境に配慮した農業と腹八分目生活の生きたモデルを見せてもらいたかった。今回事情合ってお二人の登場はなかった。
かつてお世話になった石井節子さんには直接会って、故石井英佑さんに対する不義理を詫び。墓参りしたい、と希望をいだいているが、今回は叶うべくもなかった。石井夫妻と辺田部落に、僭越ながら、かつて三池闘争でヨロン人がコミュニティを創り上げる上で力となった大牟田与論会のモットーを、賛歌として捧げる。部落決議で集団移住を選んで営農とコミュニティを護ったかの人々こそ、このモットーにふさわしいと考えるからである。
服従ハスルモ屈服ハスルナ 常ニ自尊ヲ保テ

与論の民謡が歌い上げる処世訓も掲げておこう。 
 打ちじゃしょりじゃしょり 誠打ちじゃしょり
 誠打ちじゃしば ぬ 恥かしやんが 
誠を打ち出せば何も恥じることはない、という意味である。
【参考】当ブログ「ヨロン人と三池闘争/離島差別と戦った歴史」2016.11.18




 

 

 


三里塚闘争/戦争の様相/放送塔‣地下壕/東峰十字路事件

2020-04-16 | 近現代史 空港反対同盟の戦い

  1971年7月26日 人もろとも農民放送塔が引き倒される 

機動隊員が熱中症でダウンして作業が中止になるほどの猛暑の7月末、公団は圧倒的な数の機動隊に護られて「妨害物(農民放送塔・地下壕)排除」を再開した。反対同盟と支援学生は全長100mの地下壕に潜り、放送塔と立ち木に登って命を武器にして各種重機による攻勢に対して抵抗を続けた。20トンのウルトラ重機モータースクレイバーが壕の上の土を削り均す様子と、クレーン車が人もろとも地上物を引き倒す瞬間を映像で見て、私は執行者の生死の瀬戸際作戦に戦慄し息を呑んだ。
終生消えることのないイメージは、24mの木製櫓=通称農民放送塔が5人の学生、青行隊員を載せたまま中ほどにワイヤーを掛けられてクレーンで引き倒された光景である。塔は折れて地響きを立てて倒れた。「死んだ」と一瞬思った5人の重傷者がその後どうなったか私は知らない。

命の危険を覚えたのは反対派だけでなく機動隊も同様だった。陣地戦の限界を思い知らされた青年行動隊と支援党派学生は合同して外周ゲリラ戦を併用した。殺気だったゲリラ隊は県道の狭い切通しで千葉県警機動隊の1個大隊の頭上に火を噴く火炎瓶を浴びせて救援が無かったらあわや壊滅の大打撃を与えた。逮捕者はなかった。
8月3日、地下壕に籠もって抵抗した反対同盟の北原鉱治事務局長、石井武実行役員が令状逮捕され、殺人的代執行(第1次)が完了した。

9月16日の第2次代執行は上記「夏の陣」の拡大した相似形フラクタルだった。夏に茂った樹木が秋に果実をつけたさまに例えることができる。だがそれは双方にとって悲劇的な結果だった。

出典  Photo & News 『ひろば』特別号「三里塚闘争史」1966~1987

決戦場となる本丸は駒井野の砦と鉄塔だった。天狼、木の根の砦と壕も代執行の戦場だった。そこに向かって夜を徹して首都圏から機動隊と支援学生・労働者が終結した。反対同盟員を加えると一万余の彼我の戦闘員が北総台地で対決した。数では機動隊のほうが勝ったが不慣れな神奈川県警の交通巡査等からなる特別編制機動隊が含まれていた。
反対同盟は夏の戦いの体験から戦争になることを覚悟していた。婦人部隊は後事を書き残し新しい下着に着替えて家を出た。横堀に本部をおいていた青年行動隊は機動隊の「三重丸作戦」による封鎖をさらに外周から突破して駒野井砦に向かう作戦を立てた。
青年行動隊(三里塚高校生協議会数名ふくむ)5,60名と支援10党派600余名は午前4時ごろまでに菱田の小屋場台に集結し6時ごろ東峰十字路近くの県有林に到着し、見通しのきかない農道で一休みした。要所に配置したレポから無線で機動隊が十字路で検問に入るという報告を受け、その場のリーダー会議で部隊を二派に分け、先発隊は右の農道を北上して小見川街道を越え迂回して北から、後発隊は左の道なき山道(旧道)を青行隊リーダー2人の道案内で小見川街道に出て左折して東から、十字路検問機動隊を攻撃すると決定した。
一方衝突することになる特別編制の門田大隊(261名)は、砦への要衝東峰十字路を抑えるべく3中隊編成で9月16日午前3時半に川崎市を出発した。第1中隊(約100名)は予定通り6時25分に現地に到着したが、第2、第3中隊は道を見失ったりして20分ほど遅れて到着した。第1中隊の福島小隊(36名)は北へ火炎瓶捜索に向かったが空振りだったので休憩体制に入った。岸田小隊は十字路検問と南方捜索に分かれた。遅れて着いた第3中隊(畠山・後藤両小隊)は十字路の大隊本部に合流した。第2中隊は十字路を越えて約600m西方の団結街道入口の配備についた。
この大隊本部と岸田小隊をゲリラ後発隊と迂回南下した先発隊が攻撃した。多勢に無勢、短時間で勝負は決まり、大隊は西と南に潰走した。捕らえられ暴行を受けた者はいたが、捕らえた者は一人もいなかった。   
哀れなのは福島小隊である。無防備状態のところに道路東側を覆うガサ藪から突然現れたゲリラの先発隊の一部に急襲され、北に逃げるほかなかった。逃げ遅れた者は袋叩きにあって3名が尊い命を落とした。私はいつどこで知ったか忘れたが女子学生が「やめて・・・死んでしまう」と叫んだそうだ。聞いていないのにその声が今も生々しくよみがえる。

  shouwashi.com
駒井野砦の鉄塔   人もろともクレーン車で引き倒された瞬間
9月16日、第一次代執行が6カ月かかったのに第二次代執行は1日でほぼ終わった。坑木で支えコンクリートで固めた本格的地下壕は前の台風で水没したため要塞の用を成さなかった。当局の死者止む無しの決意と最大限の物量・動員作戦が反対派の陣地戦&遊撃戦の二方面作戦と噛み合わなかった。勝敗が所を分け短期で決まったゆえんである。弱いところでそれぞれ瀕死の重傷者(砦)と死傷者(外周)が出た。
9月20日大木よね婆さんの家と土地が反対派の虚を突いて手荒に代執行された。幼少時から貧窮をなめ尽くした身寄りのない老婆を機動隊員が掘っ立て小屋から放り出すという権力行使は前代未聞である。盗るに足らない地所を回避して道路を通す方法もあったと聞く。よねさんは補償金を拒んで闘い続けたが2年後「おもしろいこと、ほがらかにくらしたってことなかったね。だから闘争が一番楽しかっただ」という言葉を遺して病魔にたおれた。
10月1日青年行動隊の三ノ宮文男さんが「この地に空港をもってきたものをにくむ」という長い遺書を残して裏山でみずから命を絶った。誰にでも好かれる真面目で優しい神経の持ち主だった。青行隊間で議論があったとき「機動隊も人間」と主張したそうだ。
12月8日から15次にわたって地元を中心に青行隊と支援の青年の別件逮捕が行われた。その中に高校生が11名いた。反対同盟の働き手と活動家を根こそぎ奪って同盟を屈服させる意図的な弾圧だった。

1986年、東峰十字路事件から15年後、千葉地裁は55名の被告に、3名無罪、52名に3年から5年の執行猶予が付いた懲役刑(10カ月から3年)を宣告した。実刑判決を受けた被告がいなかったことは被告人、弁護人、支援、家族の苦労と忍耐の結果であるが、その後の対立史の経過から観ると、判決内容には将来の国策を見据えた、最高裁をふくめた司法の目配りが感じ取れる。政府にとって開港後は飛行の安全が最高の課題である。一般に安全は、戦争終結と平和条約によってしか保障されない。