自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

Game=遊戯をせんとや生まれけむ/高槻市でロケーション適地探し

2019-09-14 | 革命研究

わたしは生きる道として、革命でも労働でもなく、遊戯を選んだ。 遊戯が、ホイジンガの定義通り、自発的な行為、自由な活動であり、必要や欲望の直接的満足の外にあり、欲望の縮減と労働時間の短縮という、わたしが研究から得た結論にかなうからだった。
遊戯こそは共同体のつなぎになるという遊戯ユートピアを夢想することで格好をつけることもした。ほかに、一世を風靡したグローバルな文化革命の嵐、なかでもライヒの『セクシュアル・レヴォリューション』の全身の皮膚感覚を大事にする思想に影響された。
こうして活動対象として選んだ遊戯の数あるカテゴリーのなかでサッカー(米国と日本での呼称)が条件的にぴったりだった。肉体と頭能を使うだけでなく、一番器用な手handで触ることを制限してかわりに不器用な足foot と頭部headを主要な「武器」とするフットボールの特徴に、人間能力の拡張をみて、哲学的理由でfootballを選んだ。なんとも頭でっかちな選択だった。
わたしは全くの素人で日本に来てからは大学時代までサッカーのプレイを見たことも聞いたこともなかった。高校のラグビー・フットボールの授業でボールを遠くまで蹴ってほめられたのが唯一のキックだった。
ブラジルで「ガイジン」の父兄が休日になるといそいそとスパイクの手入れをして試合gameに夢中になるのを観ていなかったら、また短期間だがブラジルで仲間たちとボールを蹴っていなかったら、私の眼はサッカーに向けられなかった、と断言できる。

  ファゼンダ中村で  11歳

さらに、1964年の東京オリンピックでクラーマーの指導で力をつけた日本代表がアルゼンチンを破ってカラーTVをとおして国中を沸かしていなかったら、また1968年にメキシコ・オリンピックが近づくにつれてサッカーにたいする国民のさらなる期待感が膨らまなかったら、わたしの人生のキックオフの笛はサッカーに関しては吹かれなかったと思う。

わたしは少年サッカークラブを立ち上げるロケーションに京都と大阪の中間にある新興ベッドタウン高槻市を選んだ。1968年夏、わたしは場所探しのため高槻市の新しい阪急住宅街を炎天下汗だくになって歩き回っていた。

ソ連軍指揮下のワルシャワ条約機構軍の戦車がチェコに侵攻して「プラハの春」━チェコは「人間の顔をした社会主義」政権に転向していた━とよばれた民主化運動を蹂躙していた。東京オリンピック体操の名花チャスラフスカも抵抗していた。アブラゼミの鳴き声の向こうにたしかに戦車のキャタピラーの音がしたような気がした。

日本は高度成長期に入り、高槻市は人口が急増し子供と活気にあふれていた。人口統計によれば、1968年11万、1970年23万、1980年以降35万前後で安定。小学校数も分離、増設でピーク時には40校を越えたがその後半減した。
子育て中の中間層が多い阪急住宅5か所に囲まれた富田地区に居を構えることにした。こうして少年サッカーと英数塾の適地選びはすみやかに決まったが、借家選びは[次回]ひと悶着起きることになる。