自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

カストロ死す/2016.11.26

2016-11-26 | 体験>知識

リアルタイムでブログを書いている。午後2時半、TVのニュースで訃報を知った。私はカストロが90歳なので覚悟をして記事を書くための資料を集めねばと思いつつできなかった。
奇しくも60年前のこの日カストロは同志82名と共に親米独裁政権打倒を目指して亡命先のメキシコからキューバに向かってヨット・グランマ号で船出している。1956年30歳だった。

私たちはカストロとよんでいるが、キューバ国民はフィデルと愛称で呼ぶ。かれは両親が名付けたとおりの生涯を生きた。
FIDEL忠実! 人民に忠実だった。革命の大義に忠実だった。
もともと社会主義路線そのものが維持困難なのに、アメリカによる経済封鎖の中でよく持ちこたえた。普通ならとっくに極端にはしり国民に大惨禍をもたらすのが革命史のならいである。カストロは死後の個人崇拝の危険まで知悉していた。火葬を遺言している。
 1853.1.28~1895.5.19  ラテンアメリカ希望の星
フィデルは「人民に忠実であれ」という思想をキューバの思想家ホセ・マルティから受け継いだ。詩人でもあったホセ・マルティはキューバ独立戦争でスペイン軍の銃弾に斃れた。キューバ独立の使徒として国民に敬慕されている。
革命前からホセ・マルティの思想はキューバ国民の魂に触れていた。国民歌「グアンタナメラ」にホセ・マルティの歌詞ヴァージョンがあった。それを革命直後ピート・シーガーがカーネギーホールで歌ったのがきっかけとなって全世界で愛唱されるようになった。私は幸運にもそれをピート・シーガーが来日したときライヴで聴いた。
歌詞のさわり Yo soy un hombre sincero・・・[わたしは椰子が繁るところから来た正直な農夫です]・・・「大地の貧しきものたちと運命を分かち合いたい」

カストロと日本との関わりは革命以前にさかのぼる。
1953年、ホセ・マルティ生誕100年に、青年弁護士カストロはモンカダ兵営を襲撃して捕らえられた。首謀者は誰かの尋問に「ホセ・マルティ」と応えた。そして
法廷ではみずからを弁護した。その記録『歴史は私に無罪を宣告するだろう』でカストロは10万人が亡くなった東京大空襲無差別爆撃をアメリカによる戦争犯罪として断罪している。
ヒロシマについてもしかりで、かれは2003年に広島を訪れて献花し「人類の一人としてこの場所を訪れて慰霊する責務がある」と語った。

練りに練った弔辞を書くつもりでいたが間に合わなかった。革命後どういう哲学でどんな社会をつくろうとしたのか、グローバリズムによる格差の拡大と地球にかかる負荷の増大にどういう生き方を対置したのか、遅ればせながら、駐キューバ大使・田中三郎著『フィデル・カストロ 世界の無限の悲惨を背負う人』を読むことから始めたい。

追記1 ホセ・マルティの墓の横にカストロは埋葬された。墓碑にはFIDELとだけ刻まれた。
追記2 革命は自壊し得る。破壊するのは彼らではない。我々自身だ。
マルクス、レーニンの理論はそれぞれの時代の諸条件のもとで成立したものであり普遍化できない。新しい社会主義像は君たちの創造にかかっている。2015年11月 ハバナ大学大ホールで講演




ケネディ大統領暗殺/1963年11月23日/神護寺の紅葉散る

2016-11-23 | 近現代史

その日わたしは左京区の下宿正面の松葉食堂で遅い朝食をとっていた。
日米間のテレビ中継「衛星通信実験」中にケネディ暗殺の映像が飛び込んできた。
あまりの衝撃にその年月日は一生忘れられない記憶となった。
その日から53年経った。
その日は歴史上のランドマークになった。
ケネディ大統領は国内では黒人の公民権運動を支えキング牧師のI have a dreamにその夢を共有すると応じた。
外交政策では歴代大統領の中でただ一人イスラエルの核保有に反対した。
だがヴェトナムへの直接的米軍介入の口火を切った。
そしてキューバ革命に干渉した。
それによりカストロ、ゲバラ率いる新生キューバはソ連に急接近し国内に核ミサイル基地を設けた。
現代史でキューバ危機として記録される、核戦争一歩手前の米ソ対決は、ケネディとフルシチョフの対話で回避され、米国内ではケネディの外交政策の最大の成果とされている。

11月23日(祝)はわたしの自分史にとっても時季を図る目安となった。
その日の午後かねてから約束していた学友Sと京都市高雄山神護寺に紅葉見物に行った。
見頃を過ぎた紅葉は散り始めていた。
参道に積もった枯れ葉が妙に印象に残った。
こんなわけで紅葉の見ごろは山地では中旬、平地では下旬であることを知った。
京都「哲学の道」永観堂の紅葉*は勤労感謝の日が見頃である。
*圧巻の映像はYahooで検索!


ヨロン人と三池闘争/離島差別と戦った歴史

2016-11-18 | 近現代史 三池闘争

  写真出所の詳細は次記URLで知ることができます。
http://www.mahoroba.ne.jp/~gonbe007/hog/shouka/z/00zatsu_ut.html#shimabarakomori

森繁久弥が歌って全国を風靡した「島原子守唄」(1959)をYouTubeでどうぞ・・・。森繁は早稲田大学で作詞者宮崎康平の学友だった。島原半島の口之津港から底の浅い団平船で沖に停泊する青煙突の「バッタンフル」社用大型船に運ばれて東南アジアに密輸されてゆくカラユキさんの悲哀を想像しながら口ずさんでください。

♪ 山ん家は かん火事げなばい ・・・ [繰り返し] 家はネと発音
サンパン船んなヨロンジン 
姉しゃんな握ん飯で ・・・[繰り返し]
船の底ばよ しょうかいな
オロロン/オロロン/オロロンバイ  ・・・[繰り返し]

長崎県口之津は大牟田市の三池港が築造されるまで三池の石炭積出しの外港だった。
与論島民が何故口之津にいて三池闘争とどんな関係があるのか、またわたしたちとどこでどうつながっているのか、先人の識見を頼りに解き明かそう。

 与論島

沖縄と海を挟んで東側に、鹿児島県に属するチョウチョウウオの形をした美しい小さな与論島がある。琉球文化圏内にあるためヤマト言葉と違い琉球語と親和する。薩摩藩の支配下になると過酷なサトウキビ搾取を受ける。島津以降の苛烈な租税を納めきらない貧農は借金のかたに富農の家人(借金奴隷)となった。60歳まで主家に仕えねばならなかったが十五夜踊り、盆正月は主人とともに晴れ着で楽しむことができたと云う。これをヤンチュ制度という。
明治31年(1998年)台風で壊滅的な被害を受け、旱魃、疫病もあって、飢饉で大勢死んだ。主食のサツマイモが旱魃で枯れ蘇鉄の実と海の幸で食いつないだと云う。それで口之津港に集団移住する。ヤンチュが出稼ぎの中心で3回の移住でヤンチュ制度は消滅したという。
3年間無給の証言がある。人夫の募集条件に三井物産が借金の肩代わりをすることが入っていたのだろう。三井物産から来た視察役が「あの者たち 噛みつかぬか」と口走ったというエピソ-ドも伝えられている。三井も政府も島民を土人として見下ろしていたことは間違いない。下津港では三池の石炭を積み下ろしする荷役人夫(ゴンゾウとよばれた)だった。賃金は地元民の7割、朝鮮組以下だった。
移住者は10年間で1200名を超え、板張りにゴザ敷の与論長屋が列をなして建っていたが、有明海を挟んで北東対岸に三池港が開港するとふたたび集団移住する。
 
見知らぬ土地で風俗習慣が違い言葉が通じない与論出身者は口之津港でも三池炭坑でも集団で暮らし地域からも港湾と鉱山からも偏見と言語に絶する差別*を受け孤立する。職種はもっぱらゴンゾウで労働条件は3Kという今流のはやりでいえば5K,6Kだった。賃金でいえば、わずかにいた地元民の賃金日払いとくらべると半分、出来高払いだった。肩に担いだ6尺の天秤棒で70キロの石炭を船積みするなんてとても考えられない。袋詰めの物資も肩で運んだと云う。
ゴンゾウの実態は一集団が離島した瞬間にまるごと差別構造の最底辺に据えられた稀な実例として差別の歴史に残るだろう。
偏見による差別は教育、就職、結婚に及んだ。かくしてヨーロン**という差別語が生まれ、少なくとも九州に広まった。ブラジルの日系人社会にも届いたのだろうか?
*偏見と差別は与論出身者を「世ニ慣レザル」隷属民のまま納屋に囲い切りにする上で有効にはたらいた。逃亡するにも伝手も当てもないのである。三池港の与論長屋は煉瓦塀と門で囲まれ収容所みたいだった。    
** ヨロン は日本人ではない土人、化外の民を、ヨロンは蔑視を、におわす差別語である。

わたしは今回BLOGでヨロン、ヨーロンという差別語を使ったものかと迷った。なぜなら新聞、雑誌、書物、映像や画面文字が偏見伝播の口火を切る現実が普通に在るからである。与論島民が三池港近くの長屋に移住して3年後「福岡日日新聞」が「納屋」生活を連載記事にして「全く日本人種の間にこんなのがあるかなあと不思議がらぬ者はなかった」と偏見を拡散した。
わたしが京都から博多に帰省すると、我が家の裏の空き地に人一人が寝起きできる低くて小さなバラックが建っていた。中年の男性が寝泊まりしていた。父があれはヨロンだと言った。交渉がないのにどうして与論島出身者と言えるのか?そういう境遇の人をみたらヨロンだという空気がいつの間にか漂っていたのか。
家の裏の空き地は元寇の防塁遺跡だったので、その後すぐ福岡市が史跡公園として整備し、かの人は居なくなった。未熟なわたしは声をかけなかった。

三池で動物扱いされて同郷の結束を堅くした与論島民は戦後1947年には家族をふくめて2700人を数える大集団となり大牟田市会議員を輩出するまでになった。
GHQの民主化政策で政治的権利、中等教育を受ける権利*、炭鉱夫として働く権利を得たのである。
*会社は戦前「特にその子弟のみを収容する三川文教場を設けて」内地同化教育をおこなった。会社は高等小学校以上の学歴を忌避した。 
つまり与論出身者が三池鉱山の「直轄」社員になった、それで三池労組の一員になることができるということである。
それまでは、会社は炭坑の労働力不足を囚人労働、それの禁止後は強制労働(朝鮮人、中国人、連合軍捕虜)で補充し、与論出身者は三池港の荷役人夫のままだった。他の仕事に就くことは許されなかった。
朝鮮戦争後1953年の反合理化闘争で三池労組は「英雄なき113日間の闘い」でおよそ2000人の解雇通告を撤回させた。その中に224人の与論出身者がいた。三池労組の職場闘争で労働条件の輪番化、水平化が勝ち取られ、賃金と安全の面で差別されなくなった。だが炭鉱夫自体が世間で差別されていたことを見落としてはならない。
与論の民は三池闘争では中核として活躍した。
大争議敗北後指名解雇された1,278名中37名が与論出身者だった。内訳は港務所23人、三川坑7人、宮浦坑4人、四ッ山坑3人の合計37人だった。会社は、ヨーロンは第一組合に最後まで残る、と予測していたとか。与論出身者にとってこれ以上の誉め言葉はない。
こうして与論集団は三つに割れた。第一組合に残った人々、第二組合に移った人々、そして東京、大阪、愛知などへ転出した人々。
東京に移った多くが八王子市の雇用促進住宅を中心に居住し調布市、町田市の清掃労働に従事した。これも差別の表れだが、ここでの差別は与論出身だからではなく炭坑もしくは三池炭坑出身だからである。
ここでも与論出身者は誰もがやりたがらない「ゴミヤ」(ある部落青年が胸を張って私に告げた職業名)を平然とこなしている。そして一様に労働条件(賃金、時間、労働の軽重)が三池炭坑にくらべて格段に良いことに驚き感謝している。

2009年夏、大牟田の与論会は恒例の市民総参加のイヴェント「炭坑節1万人総踊り」に「島の衣装を着て、太鼓をたたき、三線を弾いて参加し」 与論会をアピールして見事「一番 目立っていた で賞」を受賞した。三池移住から99年目にカミングアウトが成功した瞬間だった。

関連の回想記、インタヴューや研究書を読み終わって私は羨ましく感じた。与論の民は、ゆんぬんちゅう、と自称して与論島をルーツにしながら、核家族化してしまった近代社会の真っ只中に、与論のアイデンティティを保存した「与論の聖地」を大牟田に造り上げた。わたしに亡くなったものがそこにある。
与論島では「島の神様はご先祖様だけ」と親類縁者が集まって伝統にのっとった供養をする。与論会は大牟田でも納骨堂「奥都城」を造ってゆんぬんちゅうの団結を固めた。

私の同族が最後の先祖祭をしたのは私が中学生の時だった。苗字は同じだが面識のない人たちが遠方からも来て苔むした墓碑を拝んだあと発心公園で花見宴会をした。
福岡県では高度成長期に行政が散在する墓の地上げを奨励、実施した。村の中に大きな合同納骨堂が建った。村人はそこに納骨しお参りする。何の感情も沸かない無機質な施設だ。「美しい日本」は政策的に破壊されたのだった。

与論の民謡が歌い上げる処世訓にも、与論会が本土で伝統的共同体を築き得た根本をなす精神が見られる。 
 打ちじゃしょりじゃしょり 誠打ちじゃしょり
 誠打ちじゃしば ぬ 恥かしやんが 
誠を打ち出せば何も恥じることはない、という意味である。
極め付けは与論会のモットーである。
 「服従ハスルモ屈服ハスルナ 常ニ自尊ヲ保テ」

与論の民が貧困と重労働の中、なりふりかまわず豚を飼い芋を植えて低賃金をサブワークで補い、「臭い、汚い」「ヨーロン」とさげすまれながらも、顔をあげて堂々と生きて来た生きざまは尊いと思う。差別は憎いが人を強くして優しくする。

主たる依拠文献 
・井上桂子著『三池炭鉱”月の記憶” そして与論を出た人びと』
   太陽暦(本土)と太陰暦(与論島)を対比して、三池炭鉱の煙突( 近代化と資本、文明)と与論島の月(折々の祝祭で結ばれた貧しい離島共同体と伝統文化)の 対立依存関係を見事に描き出した傑作である。

・今村都南雄論文「都市自治体の主体形成~与論島移住者の「市民化」を中心に~ 」
 与論出身者の社会(市政、労組)進出を克明に追い、選挙と争議における指導者の動向と遷移を詳細に描いた学究の著作である。私は論者が若松沢清にゆんぬんちゅうの象徴として賛歌を贈ったことに心から賛同する。
 「ゴンゾウのわかまっちゃん」と愛称された若松沢清は「三池労組と運命はともにするが〈差別〉思想はともにせず」と宣言し、労組が潰そうとした「家族訴訟」を始終支援しながら、CO患者の追跡で後世に貴重な聞き取り記録を遺した。
 

 


三池炭塵爆発事件/CO裁判闘争

2016-11-09 | 体験>知識

  1963.11.9 撮影 植埜吉生氏 酒店勤務 19歳 故人 

私のCO中毒体験。4回生の寒い昼、活動家仲間数人とAの下宿で練炭ストーブを囲んでダべっていた。それまで何の異常もなかったのに立ち上がった瞬間大きくよろめいた。それから半日ほど頭痛がした。CO中毒は亜急性間歇型疾患であった。
素人の理解だが、体を動かすとエネルギー補給のため血流が速くなり血中のヘモグロビンが酸素運搬を急ぐ。ところが一酸化炭素中毒になっているとCOがヘモグロビンと結合して酸素運搬を邪魔する。
酸欠になると真っ先に脳神経が、ひどい場合には不可逆的な、ダメージを受ける。体を動かしたら悪化し後遺症が出る。初期治療の要諦は、元気でも動かさない、すぐさま酸素を補給する、である。
関係ないかもしれないが、私は原因不明の耳鳴りで24時間セミがジー・・・と鳴き続けている。この瞬間も途切れることはない。

三池三川鉱炭塵爆発ー原因と被災状況・・・
1963年11月9日午後3時12分、金属疲労した粗悪材質の連結リンクが破断して巻き上げ中の炭車8輌が逸走し脱線、坑道に積もった石炭の粉じんを巻き上げ、電気ケーブル破損スパークで大爆発を起こした。粉塵は、小麦粉でも誘爆するが、清掃か水撒きをしていれば容易に爆発を防げる。
救助の遅れが被災を大きくした。現場到着に早くて3時間、遅い場合7時間。なお救助隊員からもCO患者が出た。坑内には1,403人がいたが、昇坑できた939人中歩けるものや希望するもの527人が会社あるいは会社の天領病院から家に帰された。救助のため再入坑した者もいた。安静の指示はどこからもなかった。
その後、おかしな行動、激しい頭痛、めまい、吐き気、しびれ、ふるえ、発作、粗暴、物忘れ、無気力、不眠等に襲われ、多様な身心症状、重篤な脳神経障害、精神異常の後遺症を患った者もいる。

死者458人、うち爆死による死者20名。CO中毒患者839名、53年後の2016年現在、今なお入院中13名。通院者については情報がない(2013年は80名以上/ 京都新聞)

三池労組が闘争に敗れて安全確保上のヘゲモニーを失い会社の生産第一主義の全開、保安サボをゆるしたことが事故につながった。通産省鉱山保安監督局は保安チェックをサボった。長期間坑道に炭塵が積もり放題だった。
三池労組は就労後「1.保安確立 2.差別撤廃 3.組織介入撤廃」の3要求をかかげて闘ったが組織力の低下(第一と第二の勢力比逆転)はいかんともしがたく保安チェックができなかった。
争議前労組は職場管理闘争で安全面を仕切り安全要員を出していた。それが敗北後、たとえば事故が起きた第一斜坑の安全要員は17名から2名に減らされた。削り取った要員を採炭増産に振り向けた結果、全鉱員一人当たりの生産効率は3倍を超えた。
正式鑑定人として三日後に坑内に入った炭塵爆発専門家荒木忍九工大教授の調査鑑定書(炭塵爆発認定)に基づき福岡県警、検事局が業務上過失致死傷と鉱山保安法違反で会社幹部訴追に傾いたが人事異動により潰され不起訴が決まった。
その際、事故原因については政府技術調査団団長・山田穣九大元学長の珍妙な「風化砂岩/揚炭ベルト上の原炭」説に基づいて「原因不明/爆発不可抗力」と発表された。師弟対決に最高裁(民事訴訟)で決着がつくまで30年の歳月と患者の険しい裁判闘争を要した。

死者・遺族の闘い・・・
死者の弔慰金40万円、葬祭料10万円。同じ「魔の土曜日」に発生した横浜市鶴見区の国鉄二重衝突事故の賠償金の十分の一ほどの弔慰金だった。災害が多い炭鉱には事故は自己責任の悪慣行があった。三池労組の異例の要求があったから特例の弔慰金が取れたと言われている。遺族のその後の暮らしは想像を絶する。

CO患者とその家族、遺族の闘い・・・
労組はCO患者家族の会と共に3年期限の法定労災補償の打ち切り反対闘争に取り組んだ。期限の3年が切れようとしていた。
患者の労災上の治癒認定をふくむ等級付けは政府「三池医療委員会」が行った。厚生省の影すら見えないのが奇異に感じられる。医療委が労働大臣に提出した意見書は、長期療養継続26人、職場復帰可能738人、経過観察療養58人とし、治癒にもかかわらず自覚症状を訴える者は多くが組合原生疾患である、と示唆した。医療委は労災打ち切り、職場復帰の道筋をつけるとさっさと解散してしまった。
それを受けて労働省は738人に治癒したとして労災打ち切りを通告した。会社は職場復帰等会社の指揮下に入ることを要求した。
後遺症で入院が必要な患者も仕事どころではない患者も途方に暮れた。労組は異議申し立てをして治癒認定者を会社の指揮下に入れず組合の財政で生活を丸がかえした。労組も患者家族も背水の陣を敷いて必死の出撃をするほかなかった。労組と患者の会は立法化による救済に賭けた。
CO特別立法の制定を求めて坑内座り込みや労働省玄関ハンストを敢行した。坑口から1800mの坑内最奥部に座り込んだ患者家族会員たちに、目をつけられていない第二組合員や下請け組夫がこっそり差し入れをしたという感動的な逸話も記録されている。
1967年7月、同法が成立したが、家族が求めていた解雇制限」「前収補償」「遺家族の生活補償」は盛り込まれなかった。
三池労組と三井鉱山は「CO協定」を締結した。得体のしれない「裏協定」もあった。多分補償責任は団体交渉で解決する(裁判ではなく)ということであろう。
1968年4月、「CO協定」により現場復帰が始まった。数字が逐年流動するので三井鉱業所CO患者現況調べ 1978.7.31から三池労組の分だけ抽出して実情を考えたい。
治癒認定=坑内復帰16+坑外復帰16+造成職場*75+退職**154+死亡10=271
 *「造成職場」は現場復帰できない治癒認定者を収容する作業所。「CO協定」に    
 より開設。生活保護受給のほうがましな低賃金職場。
 **異常に多い退職154人は「労災打ち切り→復帰か退職しかない」という患者   
 の切実な心配が現実になった証左か。退職者はどのように暮らしをたてたのか?
治癒せず認定=傷病補償年金給付16+傷病補償年金で退職***26+同死亡1+経過観察中死亡1=44 
  ***退職したら傷病補償年金は賃金の60%に減額されるはずだが、何故退職?

造成職場と退職の数字をみて、下記の裁判を起こした松尾蕙虹と村上トシがなぜ組合にあらがって裁判を起こしたか、謎の一端が解けた。両名の夫は認定級が低く軽症者扱いだった。松尾修さんは造成職場、村上正光さんは定年退職で労災療養所を追われて自宅療養。夫たちの異常行動で家庭は滅茶苦茶、妻たちは逃げ場がなかった。
労組は「軽症者と退職者を切り捨てた」「労組は生きている本工が大事なのだ」と時々聞こえてくる家族、遺族の怨嗟の声と不満の意味が分かった。

1972年11月、CO患者2家族の夫婦4人が組合の制止を振り切って三井鉱山を被告とする損害賠償請求訴訟を提起した。妻が原告に名を連ねる人権裁判としても画期的だった。先行中の水俣裁判に勇気をもらったという。「私たちもできる」と。【家族訴訟】
頻発する労働災害で損害賠償裁判を起こすことは企業あっての労組にとってタブーだった。労災裁判は「物取り主義」で階級闘争にそぐわないというイデオロギーもどこかにあった。家族訴訟にさらに2家族が合流し、雪崩現象を恐れた労組は、やむなく、遺族161人、患者259人を原告とする損害賠償請求訴訟を提起した。【マンモス訴訟】
かくして4家族に増えていた家族訴訟とマンモス訴訟によって事故の実態と責任が、延々と続く裁判の過程で、明らかになっていく。

1987年7月、三池CO中毒マンモス訴訟原告団が福岡地方裁判所の和解案を受け入れた。死者と1級認定患者400万円、その他等級に応じて330万円~65万円。

会社の責任を不問に付した和解に応じない原告32人が新原告団を結成した。【通称 沖裁判】
CO共闘会議が全国に組織され、 支援を受けた。労組は除名で応えた。

1993年3月26日、 家族訴訟と沖裁判に対する判決が下りた。 その判決は、三井鉱山の過失責任を認めるとともに、原告全員をCO中毒後遺症と認定した。賠償額は和解案に準じて低額だった。かつ妻の慰謝料は認められなかった。
家族訴訟組は、控訴し最高裁まで争ったものの判決は覆らなかった。
しかし人権を声高に叫ぶ過程で、人間性の尊厳と美しさを記録した文化遺産(文章、映像)を産むネタを存分に遺した。

1997年3月30日三池炭坑は閉山した。

まとめ・・・
三池炭塵爆発事件をめぐる40年間の攻防は体制と反体制の攻防であった。
水俣でもフクシマでもそうであるが、国策護持のため体制側は政・官・産・学・医がタッグを組み、事故原因と被害の矮小化、事故責任と賠償の回避につとめる。
反体制側の中核は三池労組だった。事故が起こった時すでに過半が差別待遇に耐えかねて第二組合に脱落して体力不足だった。そのうえ労組は最大公約数を要求目的とし、かつ共倒れをおそれる企業内組合である。
したがって労組は企業責任の追及でも補償要求でもしんがり走者だった。そして突出した極大値要求者を除名した。先鋭な組合でも片足は体制側にあるということか。先駆者の突出によってCO闘争は文化革命を起こした。

「家族訴訟」の松尾蕙虹の述懐「組合でも何でも権力を持ちすぎると組織は腐る」
原田正純医師「裁判があったからCO中毒を詳しく調べ、教科書の間違いも分かった。制度や慣例を打ち破り、道を切り開くのは少数派だ」
原田正純医師「松尾さんたち四家族が裁判をしなかったら、三池の炭塵爆発事件はこれだけ深く,トータルで歴史に残らなかった」

足尾、狭山、水俣、三池と反体制裁判闘争を跡付けて来て感動するのは共通して「人間だぞ!」と叫ぶ底辺の人々の先頭を走る少数の人徳のリーダー、そう先駆者が生まれていることである。 

依拠文献(主要なものだけ記載)
・星野芳郎/飯島伸子論文「三池炭塵爆発事件」(『技術と産業公害』所収)
・奈賀悟『閉山ー三井三池炭鉱1889~1997』
・森弘太/原田正純共著『三池炭鉱ー1963年炭じん爆発を追う』
・CO裁判をめぐる家族訴訟と労組の対立について要領よくまとめたBLOG
 http://blog.goo.ne.jp/mitsumame7427/d/20150723
   http://blog.goo.ne.jp/mitsumame7427/m/20150728

これからの研究者向け史料目録(世界歴史文化遺産となるべき労作)
・「大牟田市立図書館が所蔵する 三池炭鉱関係資料とその目録について 大原俊秀」
   http://catalog.lib.kyushu-u.ac.jp/handle/2324/1515778/p083.pdf

上掲BLOGから無断借用