自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

就職活動/進むべき道みえず愚行を演じる

2016-10-26 | 体験>知識

1963年の初夏、わたしは就職活動を始めた。進むべき道がまだみえなかったためとりあえず就職試験を受けておくか、という結果を考えない安易で無責任な行動だった。両親の不安をおさめる狙いもあった。
2,3受けて造船会社から内定をもらった。関西電力を受けて落ちた気がする。
なぜ造船かというと三菱長崎造船に「社研」という新左翼の組織があって頼もしい指導者と聡明な青年たちの活動を交流会や出版物を通してみていたからである。
それに造船は鉄鋼、電力、鉄道等と並んでマルクス主義者が重視する基幹産業だった。
しかしあいまいな気持ちで臨んだ就職活動が破綻するまでに時間はかからなかった。
人事課長が興信所の調査書をもって京都まで飛んで来て事実かと問いただした。とぼけていると内定を辞退してほしいと言われた。諾否を保留していると、2回目に来たときゼミのHT先生に私の説得を依頼した。学究肌の先生はにべもなくことわった。
3回目があったかどうかはっきりしないが、私は瀬戸内から数回足を運んで来た課長の窮状に同情した。わたしの倍ほどの年齢の温和で実直そうな課長に私は背中をまるめてとぼとぼと歩く父親の後ろ姿を見た。
このあたりで決着をつけなければ・・・。
「興信所の調査書をみせてほしい。そのうえで進退を決めます」
調査書には調査の足跡のほか私の所属と活動歴が詳しく記載されていた。社学同所属、教養部自治会書記長、同学会会計。
その場で内定を辞退した。自分のせいで罪なきひとを振り回してよいのか。
これで会社に勤めながら何か活動をするという選択肢はなくなった。
両親には電話で内定を辞退したこと、卒業後は塾で自活しながら労働学校をやることを報告した。電話の向こうで父親が絶句していた。
年末年始に帰省したとき自分のいい加減さが両親の不安を煩悶に高めてついには絶望に至らしめたことを知った。
父の言葉「高い山から深い谷に突き落とされた気がする。夢も希望もない」
わたしは卒業したら小学生の英数塾を開いて自活しながらブントの労働運動を手伝うことに決めた。メインは自分の進むべき道を探求する在野の研究活動である。

アカデミックな研究生活とか結婚とかは念頭になかった、というよりそれを考える前提、自分の拠り所とする生き方の哲学、一歩を踏み出すための目標と将来像がなかった。


正木ひろし弁護士を囲む会/狭山事件「造花の判決」

2016-10-14 | 体験>知識

わたしは、迷宮事件、冤罪事件に深い関心があるが、それは新聞、ラジオ、TVの報道と関連本読書の影響だと思う。ちょうどこの時期、大学の法学部自治会が正木ひろし弁護士を呼んで講演会をもった。講演の後法経教室地下で囲む会があった。
そこで正木氏が日本の良心であり体制の司法部に喰い込む能力と実行力の持ち主であることを知った。
かれは戦時中個人月刊誌「近きより」を発行し交友を広げながら巧みに時局(東條内閣)批判をつづけた。購読者に法曹関係者をはじめ政府・軍部の要人もいたらしい。発禁と廃刊圧力はあったが潰されなかったことからの類推である。

映画にもなった「首」なし事件の話には驚いた。一炭坑の現場主任が微罪嫌疑で拘束され警察署で死亡した。家族には脳溢血による病死と知らされた。
依頼を受けた正木氏は東大法医学教室の古畑教授と謀って深夜墓を掘り返して首を切り取って持ち帰り鑑定した。そして死因は暴行による脳出血であると「近きより」でキャンペーンを張り、巡査部長と警察医を告発した。
権力中枢の一角を占める裁判所と検察の最上部を相手にする戦いだからふつう勝ち目はない。個人の告発が通るはずもない。曲折と挫折があったが節々で「近きより」のコネとバネが働いて起訴に持ち込むことができた。コネの中に岩村司法大臣(検事総長から転任)や軍部の切れ者石原莞爾、国粋会の大立者頭山満の名前がある。
かれは戦後まで続いたこの裁判で勝ち、拷問が常態であった時代に拷問者を法で罰することができた。
「義を見てなさざるは不義なり」 かれは座右の銘どおり職を賭して正義を貫いたのだった。ちなみにかれの思想は反全体主義で共和主義であった。座右の書は聖書であった。

正木ひろしは1955年に起きた「丸正事件」では在日韓国人トラック運転手(無期懲役)と日本人運転助手(懲役15年)の再審請求にも献身した。被告は強盗殺人罪で起訴された。裁判中に「強奪された通帳と実印」を被害者の母親が押し入れで発見したにもかかわらず、一審有罪、控訴、上告で上記の刑が確定した。
運転助手の一時の自白がすべての反証に優先した。再審請求から関わった正木弁護士は青木弁護士とともに最高裁の開かずの門の前で身を切る非常手段に訴えた。被害女性経営者の身内3人を真犯人と特定、告発し、逆に名誉棄損で訴えられた。
わたしたちが囲む会で話を聞いたのは名誉棄損の裁判進行中だった。その裁判は敗訴し、丸正事件の再審請求も叶わなかった。運転手は22年後仮釈放となった。助手は19年後!満期出獄した。二人の出所までの期間は異常である。正木ひろしが存命していたら、コナン・ドイル同様、「出所理由を明らかにせよ」と法務省に迫ったにちがいない。
運転助手は、自白は「血を抜く」拷問による、と翻意を説明した。まさか、と疑うのがふつうだが、担当の静岡県警紅林麻雄刑事は拷問と証拠捏造の手法を考え出すアイデアマンで、幸浦事件、仁保事件、赤堀事件で被告の死刑判決、小島事件で無期懲役判決を引きだしている。最終的に4事件すべて無罪が確定している。

正木氏が実験により真相を究明してゆくくだりは知的興奮を刺激しないではおかない。丸正事件は本にもTV映像にもなっているので見てほしい。


http://televisioninfo.blog.fc2.com/blog-entry-11.html?sp

正木ひろしが狭山事件の弁護団にいたら、社会経験の乏しい検察や裁判官の荒唐無稽な推論に、別人には思いつかないような実験をして痛快な反撃をしただろうと確信する。
それにしても、わたしが足尾鉱毒事件の田中正造翁以来の偉人、弁護士の鑑とする正木ひろしの狭山裁判判決批判が、ネットで下記のように歪曲援用されるのを黙視することはできない。援用者は石川有罪判決支持者である。
設問そのものにも誘導がある。差別裁判か、と設問すべきだ。特殊と一般。

Q.狭山裁判が差別裁判だというのは本当でしょうか? 
A.[一部省略]数々の冤罪事件の弁護で活躍した正木ひろし弁護士も狭山事件を差別裁判と言わなければならないとしたら、すべての事件が差別裁判だということになると批判しています。

設問そのものにも誘導がある。差別裁判か、と設問すべきだ。特殊と一般。
かつ引用記号「」を作為記号として利用している。作為の証拠がコレダ!➷

  1974.11.1 朝日新聞記事 
 

狭山女子高生殺人事件

2016-10-07 | 体験>知識

1963年は、私にとって忘れがたいだけでなく大学を卒業してからもずっと関心をもって追い続けた大事件が三つ発生した。三事件に対して私はほぼ傍観者だったが、いづれの事件についても連日ニュースを報道するTVや新聞を穴が開くほど熟視熟読した。

4回生になって自活の道をどう選ぶか考え始めたとき最初のそれが起こった。

1963・5・1 狭山女子高生殺人事件_第一の事件
高校1年の女子高校生が16歳の誕生日の日に学校から暗くなっても帰宅せず、まもなく自宅に身代金要求の脅迫状と愛用の自転車が届けられた。狭山警察と埼玉県警が犯人指定の場所に張り込んだが犯人を取り逃がしてしまった。三日後女子高校生の遺体が農道に無惨な姿で埋められた状態で発見された。
ここまでは、3月31日に東京で起きた吉展ちゃん誘拐殺人事件に類似している。吉展ちゃん事件は、日本ではじめて報道協定が結ばれ、犯人取り逃がし後は、大々的な公開捜査となり、録音された犯人の声がTV,ラジオで繰り返し放送されて全国的関心事となった異例の事件だった。
2度の大失態で警察の権威は地に墜ち柏村警察庁長官が辞任した。国会においても追及必死となった。後日、池田首相も答弁し、夫人が被害者宅を慰霊訪問することになる。
5.4 善枝さんの農道に埋められた死体が発見された。
5.6 発見現場近くに家を新築したばかりの作業員31歳が挙式前日に農薬を飲んで古井戸に飛び込んで自殺した。
金繰りとアリバイと血液型に容疑があった。
報告を受けて篠田国家公安委員長が緊急記者会見で「こんな悪質な犯人は何としても生きたままフンづかまえてやらねば・・・」と発言した。このとき吉展ちゃん事件もまだ公開捜査継続中だった。
県警はマスコミと政局レベルからのプレッシャーで焦った。篠田委員長は参議院本会議がある8日までに犯人を挙げろと督促した。
県警は近くの被差別通称菅原4丁目(正式名称入間川)世帯数59に見込みをつけて捜査を集中し120人の筆跡を集めたことが狭山裁判で明らかになっている。もっとも疑われた養豚場関係者の筆跡とアリバイ調査も27名にのぼった。
5.11 もう一つ離れた被差別の農業男性31歳が、薬研坂の森で用を足していた時不審者3人を見た、と通報し、逆に2日間絞られて憔悴して帰宅、「警察は怖い所だ」と家族に語り寝込んだ。翌日午後8時ごろ心臓を一突きして自殺。狭山裁判で弁護人が警察を追及したが「記憶にない」とかわされた。
5.23 県警が不良じみた作業員石川一雄青年24歳を別件逮捕した。

それから53年、石川さんは死刑判決、無期懲役を経て、服役後現在仮釈放中である。公民権はない。解放同盟を中心とする再審要求で現在も係争中である。
有名無名の多くのインテリが書籍で無罪論を展開し、いくつかは映画化されTVでも映像化された。今なお書籍、ネットで真犯人追究が絶えない。
わたしも数年後無罪追究にほんの少し関係する中で生涯の伴侶を得たが、そうした体験については時系列に合わせて時期が来たら記事にしたい。
再審請求中の中山主任弁護人は、私の中学時代3年間の級友の弟である。
ここでは書きたい気持ちを抑えて、代わりに、ルポライター伊吹隼人氏が長年取材してまとめた狭山事件についての最新記事を紹介しよう。記事そのものではなく記事掲載雑誌。読後、謎解きにハマっても、恨まないでほしい・・・。
別冊宝島「昭和史開封!」 2016年1月発行 別冊につき現在発売中 436円+
二大記事 20頁 戦後最大の宰相「田中角栄」の肖像 
     12頁 狭山事件:「差別」と昭和最大のミステリー