自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

治安維持という名のテロ/平澤計七・川合義虎たち虐殺/関東大震災

2017-04-21 | 近現代史 大正時代の戦前

数年前にこのブログで大正は現代の母型であるという観点から大正デモクラシー、社会運動の勃興、大正ルネサンスを論じた。暗い閉塞の時代から抜け出した明るさのなかに自由な生命の躍動とモダンな生活の放縦が垣間見られた。それは戦後期昭和の母型を想わせる。
自分史で一息入れた後、大正の戦争「シベリア出兵」を投稿した。宣戦布告のない、兵士にとってすら意味不明の、市民に積極的に支持されていない戦争であったが、戦争指導と現地の様相は昭和前期日中戦争のそれにオーヴァーラップする。昭和の戦争はよく15年戦争と表現されるが、実際は、同一の、ときには代わり映えのしない指導者によって、ずるずると反省もなく大正時代から30年間続けられた長期戦争の後半部だった。

これだけでは大正時代を大まかにもカヴァーできない。大正デモクラシーとシベリア戦争は相反する事象で、それゆえにシベリア戦争後に起こる両者の相克と反動を特別に論じなければ昭和の軍国主義と戦争、ひいては現今の戦争に傾く世相を理解することはできない。扱う期間は大正の最後の三分の一1922~1926年である。

1922年、日本軍はシベリアから撤兵した。その前年二つの暗殺事件があった。単独テロであったが北一輝の日本改造法案と響きあうかのような決起だった。
1921年9月28日、安田財閥創始者安田善次郎が大磯別邸に訪ねて来た朝日平吾(31歳)に刺殺された。斬奸状に曰く「奸富安田善次郎巨富ヲ作スト雖モ富豪ノ責任ヲ果サズ」 
犯人は大陸浪人上がりの政治ゴロだった。貧民救済、「労働ホテル」建設を口実に財閥に寄付を強要していた。
大戦景気は財閥を増殖し新たな貧困を産み出し貧富の格差を拡げた。そこに戦後恐慌による不景気がかぶさった。革新、改造が左右を問わず時代のキーワードになったゆえんの一つである。
現場で自殺した朝日の葬儀は労働組合員も加わって盛大になった。37日後の原敬暗殺を誘発したと云われる。
11月4日、
原敬首相が東京駅頭で刺殺された。暗殺犯中岡艮一(18歳)は山手線大塚駅の転轍手。尼港事件で政治問題に目覚めたと供述した。やはり反財閥、普通選挙支持の改造トレンド。
中岡は異例のスピード裁判で無期懲役となったが10年で出所した。調書、公判記録等が亡いのか真相究明がなされていない。
原敬の平民宰相の看板は色あせていたと考えられる。一国の首相が暗殺された事件の決着にしては裁判が軽い。まるで首相が間接的に裁かれているかの様だ。

1922年・・・
2月23日、普通選挙請願の民衆、警官隊と衝突。
6月、ワシントン海軍軍縮会議、戦艦空母の保有比率を英5:米5:日3に決定。軍縮で戦艦7隻建造中止。造船不況で解雇、失業、争議。
8月、陸軍、約5個師団を縮減。現役将校の失業対策として中学校以上に軍事教練導入浮上。したたかな陸軍、転んでもただでは起きぬ!
この年、日本共産党非合法結成、赤化防止団結成。
民権と国権、両方に極端主義イクストリーミズムの兆し。

1923年・・・
6月5日早朝、警視庁(高等課長正力松太郎指揮)による共産党幹部一斉検挙。治安警察法容疑で29名起訴。
9月1日正午、関東大震災が発生し東京、神奈川に死者・行方不明 10万5千余人、家屋滅失数十万戸という空前絶後の災厄をもたらした。
戒厳令と治安維持令が発せられた。ともに天皇の勅令である。軍と警察が治安維持と被災者救済にあたった。 
9月3・4日、亀戸署は、労働争議が熾烈な管内でかねてから目を付けていた活動家*川合義虎、平澤計七ら10名を連行し習志野連隊に引き渡した。
1919.10   警保局、労働運動内情探索(スパイ活動)を指示。平沢計七には常に尾行がついていた。計七はまた争議指導者として2度亀戸署に検束されたことがあった。

以下木村愛二氏*の論考に便乗させていただく。電網木村書店「関東大震災に便乗した治安対策」からのコピペである。
亀戸署管内では、別途、それに先立って、中国人大量虐殺の「大島事件」と、反抗的な自警団員四名をリンチ処刑した「第一次亀戸事件」も発生している。署長の古森繁高は、社会主義者らの生命を奪うことに「使命感すら感じていた」という点で、「人後に落ちない男」であった。古森は、「朝鮮人暴動説」が伝えられるや否や、自ら先頭に立ってサイドカーを駆使して管内を駆け巡り、「二夜で千三百余人検束」し、「演武場、小使室、事務室まで仮留置場にした」のである。
社会主義者の検束に当たって古森が「とびついた」のは、「三日午後四時、首都警備の頂点に立つ一人、第一師団司令官石光真臣*」が発した「訓令」の、つぎのような部分であった。
「鮮人ハ、必ズシモ不逞者ノミニアラズ、之ヲ悪用セントスル日本人アルヲ忘ルベカラズ」
つまり、社会主義者が朝鮮人の「暴動」を「悪用」する可能性があるから、注意しろという意味である。
*世間は広くて狭い。木村愛二氏は当ブログ「樺美智子さん死の真相」の映像に瀕死の樺さんを抱えるキャップを被った青年として写っている。石光真臣は真清の弟である。

砂町の自警団4人の殺害についても木村氏による記述に従う。
この四名の自警団員の場合は、道路で日本刀を持って通行人を検問していた。警官が検問の中止を勧告したところ、「怒って日本刀で切りかかった」のだそうである。本人たちは、警察が流した「朝鮮人暴動説」に踊らされていたわけだから、中止勧告が不本意だったのだろう。留置場内で警察の悪口を並べ、「さあ殺せ」とわめいたりしたようである。

ここからは私見である。真相不明の殺人である。自警団員言動の元ネタは古森署長の報告書。騒いだから鎮圧のため軍に引き渡した、という言い訳は、計七達の場合も同様である。
城東区(現江東区)は北から亀戸、大島、砂の3町からなる。言わずと知れた南葛魂の街である。人情と義侠心に厚く、権力者に媚びへつらったり怖れたりしない反骨精神から
砂町のお兄さんは何か「曲がったこと」をとがめて警察ともめたのではないか。今後の課題として保留しておく。

計七達社会主義者、共産主義者の殺害は、権力側がその危険度に敏感に反応した結果だと思う。南葛は「赤化」労働運動の震源地と見られていた。江東区の労働団体は、殺された10人の内9人までが20代の労働者であることから分かるように、ひ弱なインテリが逃げ出してしまったほどに戦闘性が際立っていた。国家権力の危機意識は相当なもので末端官憲まで浸透していた。
計七ら10名は惨殺され闇に葬られた。ようやく10月10日以降に当局の発表があり、軍の武器使用は戒厳令下適正だったとされた。犠牲者遺骨の回収と判別を不可能にする目的で警察と憲兵は荒川放水路四つ木橋下手の堤防下から朝鮮人百余人の遺骨を掘り起こしてどこかヘ搬送した。計七たちの遺骨もそれに混じっているのでどうにもならないとされた。
文末に平澤計七の斬首遺体の写真を掲載する。惨たらしいので不用意にスクロールしないでほしい。

川合義虎(旋盤工、21歳)は結成されたばかりの日本共産青年同盟の初代委員長で「南葛労働会」の若い指導者だった。日本社会主義同盟に関わって検挙歴あり。平澤計七は「準労働者組合」の組織者である。元は友愛会城東支部(代表平澤計七)で一緒だったが当時は分裂して対立関係にあった。川合義虎は計七が追求していた労働組合の総連合設立に反対しなかった節がある。ボルシェヴィキとアナキストの対立で総連合は流産した。

平澤計七は、元鍛冶工で東京府下の有数の工場街である亀戸と大島に「労働者の共生空間」を創った。労働夜学校、労働演劇、生協、労働金庫の先駆者である。八面六臂の活躍をした大正ルネサンスの巨人と云えよう。

 藤田富士男・大和田茂『評伝  平澤計七』(1996年)

そこに至るまでの経歴をたどってみよう。弁と筆が立つ計七は友愛会の本部書記、出版部長を務め、争議指導に文芸活動に、と
東奔西走した。
友愛会の幹部を大学卒が占めるようになり同時に若手労働者の指導者(渡辺政之輔、山本懸藏)が育って来ると、友愛会は創始者鈴木文治排斥と階級闘争への傾斜を強めて行った。やがて名称も労働総同盟に改称した。
改革派は計七が争議処理たとえばボス交渉等で労働者に不利な妥結をしたと弾劾決議案を提出した。
敗れた計七は友愛会を脱退して城東連合会のほとんどの会員300余名を引き連れて1920年10月「純労働者組合」を結成し大島労働会館に事務所を構えた。 
綱領「資本主義に代わる総ての人類に平等なる幸福を来たらしむるの新社会の建設を労働者の団結の力をもってなすこと」「また地方自治を重んじ人類愛をもって総てに対すること」 
計七は、緩やかで地域的な革新の道を歩もうとしたが、その前に皇国主義とマルクス・レーニン主義の新旧思想と権力、権威が立ちはだかって道を断ち切った。
1922年、計七は、総同盟系と非総同盟系の統一行動実現に尽力した。弁護士山崎今朝弥経営、平澤計七編集の労働界唯一の新聞『労働週報』がセンターとなって、
治安維持法の前駆である「過激社会運動取締法案」反対運動の共闘組織「全国同盟」が結成された。
1923年2月11日、全国主要都市で演説会、デモが行われ、東京では106人が検挙された。同法案は、震災を挟んで、「治安維持法案」として復活した。

平澤計七 遺体写真 享年34歳


尼港事件秘録『アムールのささやき』/遅すぎた日本の反省

2017-04-04 | 体験>知識

♪ はよ寝ろ 泣かんで おろろんばい
  鬼ン池の久助どんの 連れんこらるばい
      森繁久弥  島原子守唄  https://www.youtube.com/watch=g6D5Yk8MkCI

鬼池村の久助どんは実在の人物ではない。でも鬼が連れに来る、怖い、と幼い子は感じるにちがいない。
尼港パルチザンの暴威が国中に伝わると、天草地方では「パルチザンが来るゾ」と言えば泣く子もだまった、と表題の著者石塚経二は書いている。以下の記述も『アムールのささやき』に取材した。
島原の子守唄発祥の地・口之津港の対岸に鬼池港[現在]がある。ここ[手野]の出身者池田清太・ユキ夫妻と鬼池出身の池田団造・モカ夫婦が明治28年頃女性を連れて尼港に渡り開業したのが尼港水商売の草分けといわれている。時折り帰郷して女性を募集していったが、その羽振りのよい暮らしぶりはの評判になって、つてを求めて出稼ぎする者が増して行った。ちなみに両夫妻とも殉難者である。 
北のからゆきさんの話である。これまでの記事で、満州、シベリアの都市、駐屯地、奥地の鉄道建設現場、鉱山等、日本人の居る所には、日本人の男性の数を上回る女性がいることに気付かれたことだろう。尼港でも同じだった。大きな「日本遊郭」があった。人口が激減する厳冬期調査による日本人娼妓数は86人(1919年1月)であった。
居留民犠牲者395名の内身元不明は80名。身元判明者の過半は九州出身で、熊本県116,長崎県79,なかでも熊本天草出身者が突出して多い。
上記最初の引率者が見知らぬ女衒(人買い)ではなく島内身近の夫婦だったことが一番の理由だろう。鎖国中長崎港出島がオランダと清国に、幕末には長崎港稲佐が露国に、開港していた事情もまた大きな理由に違いない。浦潮艦隊の休息地・長崎港ではロシア村ができ「稲佐遊郭」が大繁盛した。

男も女も家のために出稼ぎ感覚で移住したと思う。家族を守るために犠牲になることは、国のために出兵することと同様一面美徳(忠孝の美徳)だった。それは男も女も同様だった。「おんなの仕事」と取材をうけた古老たちは話している。多面、誘拐あるいは甘言で騙された娘がいるのもまた紛れもない事実である。森崎和江『からゆきさん』(1976)
石塚経二は村別に犠牲者の名簿を地図を付けて掲載した。鬼池と手野出身者が各26名でダントツに多かった。遺族たちは1937年手野村に尼港事件殉難碑を建てた。側面に恩人島田元太郎頌徳記を掲げた。以後毎年3月12日に慰霊祭が行われている。
遺族が恩人として感謝する島田元太郎とは何者か?
彼には二つの顔がある。まずは、尼港日本人の先駆者でサケ・マス、毛皮、砂金、用具・用品等の商業と廻漕業、製材業、鉄工業で財を成した島田商会の社主であり、加えて居留民会長で「尼港の帝王」とよばれた顔である。島田紙幣(兌換商品券)がロシア紙幣より価値があったことで彼の経済力の大きさがわかる。

  出典 土井全二郎『西伯利亜出兵物語』(2014)

たまたま上京中で難を逃れた島田はその後、遺族代表として10数年間補償救済運動に奔走した。そして3度にわたり救済金の交付を受けた。政府は被害者の財産調査が不可能なため職業別でランク付けして算定額を決めた。最多職業の「妾、娼妓、酌婦」は最低ランクにされた。しかも在留年限による割増額の対象外だった。島田は出身地長崎県国見町に島田家之墓の横に自費で尼港事変殉難者碑を建立した。
島田の第2の顔は「沿海州のキング」「無冠の領事」とよばれる顔である。ロシア語、中国語に通じ居留民はもちろん露人、華人に渡りをつけられるので陸海軍、領事館、実業家に重宝がられた。とくに参謀本部との関係が濃密でさながら沿海州代理店である。以下、高橋治『派兵』(1973)に依拠する。 
島田は田中参謀次長に手紙で献策した。要約するとそれは、ロシア人各階層世論の傾向と仏米英の暗躍に関するホットな情報に基づいて出兵の機が熟していることを強調し、かれら連合国に後れを取るなと警告を発した内容だった。
「小生は当地の人心を鼓舞して自治宣言を志望する迄に機運を導きたれば、小生の任務は之れにて尽きたるものと存候」あとは「当路者の決心のみ」と諜者が奉行に下駄を預けるがごとき対等の物言いが小気味よく響く。そして候補地として浦潮とニコリスクと武市をあげた。

島田はその武市に中島正武参謀本部第二部長の随員の一人、日露協会幹部を名乗って乗り込んだ。仕事は参謀本部の民間スタッフとして武市に謀略組織を立ち上げる手伝いだった。そして、その流れで設置される石光機関に久原鉱業の鳥井肇三を推薦した。島田は武市と尼港の金鉱山にかかわる久原房之介[日立、日産、JXの祖]と親交があった。また義勇軍をつくるよう武市居留民会に働きかけた。
石光は思想信条を異にしたためか一言も島田に言及していない。島田は、武市と尼港の居留民義勇軍結成に関わったプロモーターである。同じ先制奇襲攻撃でありながら武市で起こらなかったことが尼港で起こった。その違いは
一考の価値がある。

さて『アムールのささやき』に話題を移そう。
著者の石塚経二は、1919年生まれ、第2次世界大戦に従軍。1972年刊の本書を「互いの誤解」によって起こった悲劇の日ソ両国の英霊に捧げ二度と過ちを繰り返さないことを願っている。反省は主題ではなく「ささやき」にすぎないが、相対主義であり含蓄を感得できる。
「パルチザンとは愛国者という意味である」
当時敵方にも言い分があるという見方は石光真清等に限られて極めてまれである。日本中が一部知識人を除いて鬼畜ロシアの声一色に染まった。「やがてそれらは対ソビエト恐怖感、対支那反感にも変わっていった」
「三年後の関東大震災の混乱のとき、発生した甘粕大尉事件、消防団や民衆による朝鮮人暴行事件等は、これらの影響があったこととして注意を要する所である」
恐露病は幕末に発生するが日本はそれを自衛圏を拡げることで癒そうとした。日清戦争で朝鮮を獲り、朝鮮を守るために満州の露西亜軍を叩いた。日露戦争に勝利すると鮮満が自衛圏になり、それを護るためにあらたにザバイカル州とアムール州と沿海州及びそこを横断する鉄道沿線に自衛圏を拡大する必要が生じ、そこに出兵してみたが沿海州まで押し戻された。2年近く沿海州を防波堤にするべく粘ったが、結果は負け戦で、かろうじて北樺太(サハリン)を保障占領することで面目を保った。
これをソ連側から観たら満州・朝鮮・サハリン自衛圏の回復、拡大ということになり、戦争目的となる。日本の恐露病は治癒されることがなくロシアが始終仮想敵国でありつづけた。

帝国陸海軍は前例のない長期「出兵」の失敗を反省しなかった。
①緩衝国、傀儡政府の樹立構想、挫折⇒満州建国と汪兆銘傀儡政権の擁立で再挑戦
先に観た沿海州武装解除の対象は、蝟集するパルチザンだけではなく、寝返りつつあるエスエル政権と白軍だった。なぜ自分たちが・・・と驚き、不思議そうに首をかしげる彼らの表情が記録にもあるし想像もできる。
ロシア人の人心が離れていく根本の原因は占領軍のおごりと無神経であった。
既出松尾日記から一、二例を拾い上げる。村を焼き払ったとき食料と貴重品を奪い、貴重品を戦利記念品として故郷に軍事郵便で送った。貴重品の所有者は有産知識階級であろう。村を占領した日本軍は村人全員に土下座の見送りを強いた。かかる屈辱で愛国心に目覚めない有産知識階級はまれであろう。
 
朝日新聞 2017.3.29 

②謀略と外交の二途戦略、参謀本部(現地)暴走と統帥権悪用⇒軍国主義国家へ
アムール州討伐での村落焼尽、沿海州「武装解除」に観られる如く、陸軍大臣と政府はそこまでは考えていなかった。現地が独断決行して政府が既成事実を追認した。師(いくさ)のことは天皇の大権である、統帥権を干犯する気か、と現地は本国首脳部に開き直った。
日本はシヴィリアン-コントロールがまったく利かない国体だった。
③利害関係が深い列強とくに米国による牽制が不可避⇒日本の孤立、日米戦争
欧州が戦場の世界大戦で英仏独露が疲弊する中、漁夫の利で焼け太りした日米は国力を高め両国だけ元気があった。シベリアでも互いに相手の動向に敏感で自国が不利にならないように自国が有利になるように牽制しあった。互いに相手国を仮想敵国の筆頭にあげるようになる。ただ日本は米国の力を甘く見て対米外交を戦略化できなかった。
いち早く日米戦争を予見して戦略化したレーニン政府は戦闘を避けて時間を稼ぎシベリア戦争でまともに戦うことなく日本に勝利した。
蒋介石政府もまた大陸の奥深く退避して持久戦に持ち込み、米国を日中戦争の切り札にする戦略で日本に勝った。
後知恵だが、シベリア戦争は日中戦争の原型マトリックスである。反省のない日本が過ちを繰り返すことになる。