自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

尋常でない質問攻め/いかばかりかはあやしかりけむ

2014-02-01 | 環境>教育

わたしの学習作風は予習重視で、調べて得た疑問点をあくる日教室で解消するというやり方だった。
そこまでは普通だったが教師に質問する回数が異常だった。
周りの迷惑なんか考えたこともなかった。
田舎者めが、と心中思っていたクラスメートがいたかもしれない。
先生もうるさいやつだと思ったかもしれない。
恥ずかしながら100%自己肯定的だった。
一度だけ自慢できる発表をしたことがある。

古文の時間。更級日記の一節。
「四月つごもりがた、さるべきゆゑありて、東山なる所へうつろふ。道のほど、田の、苗代水まかせたるも、植ゑたるも、なにとなく青みをかしう見えわたりたる。
山のかげ暗う、前近う見えて、心ぼそくあはれなる夕暮、水鶏いみじく鳴く」
ここまでは東山の鄙の様子、読み飛ばして結構、水鶏をくいな(くひな)と読み替えて
ください。くひなたたくは雅語。
たたくとも誰かくひなの暮れぬるに山路を深くたづねては来(こ)む 

世良先生を刮目させた自説。「くひな」 を 「く鄙」の掛ことばと解釈して
たたくとも誰かく鄙の暮れぬるに山路を深くたづねては来む
と並べ替えた。
戸を叩いたとしても誰がくいなのようにかように日暮れてしまった鄙に山路を深く訪ねて来ようか(直訳)

先生は恩師の玉井幸助先生に伺いを立てると言われたが、調べた結果ほかにそんな語法が見つからなかったので断念された。

今回は珍説に終わったが、何事においても素人は素人ゆえに、えてして専門家が考え付かない発見をすることがある。

 



東日本大震災/原発大事故/世直し復興

2011-06-27 | 環境>教育

日本を未曾有の国難に導いた「原発ムラ」の面々が首相の追い落としに懸命だ。
これから起こるドタバタ政治劇もムラと菅の陣取り合戦と観るとわかりやすい。
ここに至って孤立無援の菅首相が自然エネルギーへの転換にこだわるゆえに平成維新のヒーローになりかかっている。
菅首相に総理としての指導力が不足しているのは言われているとおりであろう。
繰り返すが成熟した近代日本には国難を一刀両断できるような大器は現れない。
大衆の大半がそれを実感しているから菅首相を支持しないが辞めろとは言わない。
即刻辞めないと日本がダメになると騒いでいるのは「原発ムラ」の面々だ。
経団連のハードコア、電事連、原発推進党派、天下り先を最大関心事とする霞が関エリート官僚、原発を飯の糧にしてきたメディアと学者、口舌の徒、そして原発エネルギーと原発マネーの恩恵をこれからも受けて行きたい市民だ。
彼らの戦術、標的選びには舌を巻く。的確だ。
菅首相の環境派思想がかれらにとって一番危険であることを菅直人の独善的手法と実績を合わせ見て悟ったのだ。
脱原発、自然エネルギーへの転換は菅直人の30年来の持論である。
その上で、薬害エイズの補償と謝罪、諌早湾干拓水門の開放容認、浜岡原発停止を実現した。
FUKUSHIMA原発事故対応においては世界の専門家や国内の被災者からみると不満だらけだと思う。
初期避難圏の過少設定(米韓の80km圏がベターだった)による被爆者の増大、メルトダウン公表の遅れ、放射線拡散の方向と量の公表遅れと測定値の過少発表による国内外での信用の低下、原発冷却と汚染物質の処理の遅れ(これが容易にできるならば原発は無くならない)、等歯がゆい限りだろう。
米国はなぜ迅速に避難圏を設定できたのか? 文科省所管のSPEEDIが1時間ごとに出すデータが外務省を通じて在日米軍に流されていたからである。
文科省、保安院と安全委は官邸には機器の存在すら知らせなかった。
何も知らされない被爆者の多くが高濃度の汚染地に避難し続けた。
これは人災であるばかりでなく国民に対する犯罪である。
だがこの点で「無能」だとしても菅が将来歴史に残る首相に押し上げられていく可能
的要因がある。
まず、12日早朝ヘリコプターで現場に飛んで視察した。
そのためにVENTが遅れたと国会で執拗に追及されたが、百聞は一見にしかず、これは菅直人だからできた、余人ではなかなかできることではない。
その二、即、自衛隊員10万人の投入を決めた。
神戸大震災の時TVに映しだされる燃える市街地(瓦礫の下で生きながら焼け死んだ
人が大勢いた)を終日見ながら何故ヘリコプターの編隊が出動して空中から消火しな
いのかと居ても立っても居られない気持ちだったことを思い出した。
その三、放射能漏れはないと虚偽の発表をする裏で避難バスの手配をその日に行い翌朝一部だが住民を避難させた。
その四、敵前逃亡を図る東電首脳に激怒して東電本社に司令塔を統合した。
そして浜岡原発の根回し抜きの突然の停止要請!
これで原発推派は回復できない打撃を受けた。
原子力から自然エネルギーへの転換に弾みがついた。
自然エネルギー促進法案は無名の龍馬が火をつけた大政奉還の平成版だ。
法案が流れようと菅直人の「首」がどうなろうと流れは止められない。
発電、送電が独占から開放されると国の仕組みも産業構造も価値観もライフスタイル
も幸せな方向に変わっていかざるをえないだろう。


東日本大震災/原発大事故/SAVE FUKUSHIMA

2011-05-20 | 環境>教育

生き抜く力には自助、共助、公助がある。
このブログの主たる目的は、後の世代の個人が、外国に放り出されたとき、あるいは生命の危機に直面したときにオタオタせずに難局を切り抜けていくことを願って、世の若きパパ、ママに子育てのヒントを提供することである。
だからもっぱら自助力の体験と知識を記録してきた。
もともとわたしは共助力の体験と知識に弱い。
そのような環境で育たなかったからである。
生まれたとき見渡すかぎりまわりに人家はなかった。
点々と日本人コミューニティがあったがわが家は3回移住している。
さらに戦後勝ち組負け組の対立でコミューニティが分裂した。
もうひとつの原因は、ジャングルの焼け跡から始まった人生では、在り合わせの物を利用し創意工夫して、つくる、たべる、あそぶほかなく、文明の利器とは縁が薄く、流行の利器の導入に消極的習慣が身に付いてしまったことである。
それだけに何も無い焼け跡や新天地でサヴァイヴァルする力は優れているが、東日本大震災の被災者支援に最先端のツールを利用して救援する点ではほとんど無力である。
ステイタスシンボルは何も持ってない。流行に遅れて買うから象徴の価値は失われている。
運転免許は取っていない。
TVはアポロの月面着陸時に買った。
PCとWindows95は仕事の必要上97年製を買った。
携帯も遅れて持ったが写メールは使わない。
何が言いたいかといえば、最先端のツールかコミュニケーションの手段を選べばさらに有効な共助ができるのに、ということだ。
今回支援の的をFUKUSHIMAに絞ってWEBサイトで南相馬市の受け入れ先を
検索し、嚥下力の落ちた高齢者にお茶が不足していることを知って、やはりサイトで卸業者、製造業者を検索して緊急の特別対応をしてもらって一定量を贈ることができた。
ただ高齢者は余命から考えて被爆を避ける避難所よりか在宅を選ぶことがある。
ピンポイントで支援のない在宅者をサイトでは探しにくい。
こういう時ツイッターまたはフェイスブックができれば、ピンポイントで支援できる
ことを、昨日TVで知った。
在フィンランドの日本人ママたちが母乳替わり液体ミルク(日本では申請して2年
経つのに販売規制が解かれていない!)を各地に点在するニーズ宛に贈った。
最新ツールを使えないわたしは、屋外でサッカーができない福島県内外のサッカ
ー少年を支援する用意をして支援先を今日もWEBサイトで空しく探している。
追記。DoFukushimaプロジェクトを通じて散り散りになった相双地区少年サッカーを支援できることになった。







東日本大震災/原発大事故/縮み復興?

2011-05-03 | 環境>教育

日本は国難のたびに拡張発展を繰り返して来た。
サッカーを通じて日韓の子供と親達を観てきた体験から今回ばかりは縮小復興を懸念している。
近年韓中と日本を比べるとまず国民のヴァイタリティと積極性がちがう。
ごまんと例を上げることができるが日本の最大の売りであった産業技術であっという間に並ばれてしまった。
中国にいたっては鎧袖一触日本を跳ね飛ばしてGDPで米国に迫っている。
原因は日本の強みである際立った独自性にある。
先ずは組織力・・・。
大久保利通が創った官僚体制は敗戦を乗り切って日本経済を世界第2位の地位にまで押し上げた。
反面、整序され続けた規則と規制で政官財学と国民は融通が効かなくなった。
政官財学と教育界すべてがお役所体質となり、異常事態に対してマニュアルがないと急発進できなくなった。
支援の物資も資金も人間、時間、空間もあるのに指示待ちで出足が鈍くて歯がゆい。
政財界学すべての分野で「逸材の顔」が見えて来ない。
辛うじて救われるのは、在日コリアン孫正義やイオンの東北社員、現地自衛隊員の一部突出行動によってである。
かれらは指示がないのに決まりにない行動=職務規律違反に出た。
勝手に車両を動かし在庫の物資を運んだ。上司はそれを多とした。
次は今回世界のメディアを驚かした日本人の遵法精神・・・。
たしかにそれがあったから無用のパニックを回避できた。
しかしそれに縛られて身動きできないことが多すぎる。
一例を上げる。
ローソンが関西から4万食のおにぎりで緊急支援しようとしたが陸上輸送では消費期限ぎりぎりになるので非常手段、自衛隊の輸送機で送った。
ここまでは大いに賞賛されるべきだ。
だが輸送機の手配ができなかったらおにぎりは法の壁にさえぎられて被災者の口に入らなかったであろう。
法の壁はこの場合「衛生上安全」かどうかである。
しかし大災害では衛生上のリスクより飢えと寒さで病気になる人の生命を救うのが先ではないだろうか?

当クラブの子供たちはグラウンド集合を12:00と予告すると15分前に到着して会場が空いていても入場しない。
なぜ12:00なのか指示の意味を考えて臨機応変に行動できない。
指示通りにこだわり過ぎる。
子供を含めた若者の世界で拡がる縮み思考の傾向、人間ロボット化を一番憂えている。

あえて今回は縮小復興もあるかもしれないと予想した。
勝海舟も龍馬も西郷も今回は出現しないだろう。





労働、遊びと勉強/野生と教養

2011-01-09 | 環境>教育

1940年代前後のブラジルは未開のアマゾンにつながるフロンティアのジャングルや「不毛」とされていたセラード、点在する無数の開拓地と近代的大都会で構成されていた。
野生と教養と二分するのは不適切である。
かつて紹介した文化人類学者レヴィ・ストロースは、アマゾンにも文明があった、と言う。『悲しき熱帯』でルポした私が生まれたころのインディオの孤立と零落と悲惨は、植民と開拓の結果だ、と喝破した。そして私の同時代人としての存在もそれと無縁でないのだ。
ジャングルの中にも大都会の中にも、そして家族の中でさえ、野生と教養が混在していた。
これから述べる狭い視野で目撃したものから、ブラジルやプリモ一家のイメージを創り上げないでほしい。
このブログの目的はそんなところにはない。

ナイロンが出現するまで絹がファッションの主要素材だった。N農場にもすでに利用されなくなった桑畑があった。
桑の木が伸び放題に伸びて畑は森に変わっていた。
わたしたちはそこで小鳥を射ったり木登りやターザンゴッコをしたりして遊んだ。
桑の実はおやつにもジャムにもなった。
事件は、いや未遂事件はそこで起こった。
プリモ家の兄が5,6歳ぐらいの妹に迫った。
兄はいきり立ち妹は号泣して抵抗した。
わたしは、けしかけるでもなく止めるでもなく、仔犬が飼い主に交尾の真似をするのを見るように、情動もなく、凝視していた。
当然兄は父から折檻を受けた。幅広の牛皮ベルトでしこたま叩かれた。

ガイジン社会は教会のミサで道徳を共有する。Nファゼンダは教会からも学校からも遠かった。
日本人社会は戦後なのに軍国主義の鎧を着けた儒教道徳に支配されていた。


キレイすぎる日本/現代病花粉症/生態系が危ない

2010-10-30 | 環境>教育

南蛮人が遺した記録には例外なく清潔がキーワードになっている。
富士山が廃棄物の山ゆえに世界自然遺産から漏れている今日でも自分の家の前の道路はきれいに掃除しているから、サッカー交流で来日したブラジル人の子供による日本の第一印象はクリーンなクニだった。
ブラジルでは土埃にまみれて遊び、ときには仕事をした。裸足のときもあった。
サッカーの王様の愛称ペレはハダシフットボール=ペラーダに由来しているとか。
昔花粉症という病気はなかった。家畜と人間が同じ平面に同居して自然に免疫ができたからである。
モンゴルの草原は花の季節には花粉だらけなのに花粉症に悩む住人のことは聞いたことがない。
抗菌、滅菌、すればするほど人類の自滅が近くなる。
地球上の生物は一つとして生態系のバランサーに載ってないものはない。
オオカミを絶滅させるとシカが森林を荒らし平野が洪水に見舞われ海の生物もダメージを受ける。
こんな単純な図式では表現できないが、一つの種の絶滅は、高々数百万年前に誕生したホモサピエンスの絶滅につながっている。
そしてそれに至る時計の針の動きはいきなり速くなった。
開拓時代にジャングルを伐採して燃やし尽くす時「生物多様性」に想いを馳せる者は一人もいなかったし、そんな言葉もなかった。
ところが今日30日未明生物多様性国際条約名古屋議定書が採択された。
わたしは一代で「はじまり」を体験し「おわり」を予感することになった。




汚と穢おまかせパック/ 病める社会のルーツ 

2010-10-23 | 環境>教育

在日イスラム教徒の霊魂が宙をさ迷っている。
地元の反対で山中にすら土葬墓を造れないのだ。
戦前はやむなく土葬だったが人々は死の穢れを忌避するために
種々の禁忌をつくった。
禁忌があるということはまだ共同体があるということだ。
村八分になっても葬式だけは別(一分)だった。
いまでは葬儀社が文字通り始末してくれて参列者は帰りに清め
の塩をもらっても使い道すら知らない人が多い。
それだけ生きている者の魂が死者の霊魂の重みから解放された。
裏側のないメダルはない。文化も同じだ。
死が軽くなったということは生も軽くなったということだ。
我が子や老いた親に対する信じられない仕打ちには文化の伝統
と変容の背景もあると思う。
私が居たブラジルは土葬だった。
オラリアに隣接する移民宅で雇われていた独身日本人男性が死んで葬式があった。
付き合いのないわが家族も告別式から市営墓地の土葬まで始終
付き添った。
資産家は洋風の家族墓を買っていたが身寄りのないかれは掘り
返されたばかりの墓穴に降ろされた。
参列者みなが一握りの土をふりかけて最後の別れを告げた。
土盛にはいまだ土に還りきらなかった髪の毛や骨片が見えた。


読書の記録/戦前の日本文化にどっぷり

2010-10-16 | 環境>教育

母屋が大邸宅だったので戦前の書籍がいっぱいあった。
仕事のできる年齢でなかったので読書の時間がたっぷりあった。
本を選ばず片っ端から読んだ。
キング、婦人倶楽部から少年倶楽部まで隅から隅まで読んだ。
大正時代に発刊された立川文庫も何篇か読んだ。
『真田幸村』『猿飛佐助』『真田十勇士』
ここでは、戦前ブラジルに入った日本語読本(国語教科書)と絵本
で読んだ記事の題名を列記する。
イラスト入りだから60数年前に読んだ思い出が容易によみがえった。
サイタ、サイタ、サクラガサイタ
ススメ、ススメ、ヘイタイススメ
赤いとり小とり、なぜ、なぜ赤い
ウサギトカメ
サルトカニ(猿蟹合戦)
花サカヂヂイ
コブトリ(爺さん)
ハチ公
牛若丸(と弁慶)
一寸ぼうし
桃太郎
浦島太郎
天の岩屋
をろちたいぢ
かぐやひめ
大江山
白兎
羽衣
神武天皇
やまとたけるのみこと
義経と常盤御前
楠木正成と千早城
元寇と神風
二宮尊徳
水平の母
広瀬中佐
大正デモクラシーと昭和軍国主義をごちゃ混ぜにした文化を呼
吸しながら私はブラジルという風土で育った。


家では邦語、外ではポ語/こども世界のひろがり

2010-09-04 | 環境>教育

大家族の共同炊事、共同食事は初体験だった。
準備ができると女たちの誰かがカランカランと鐘を鳴らした。
男たちが離れた作業所から集まってきて一つなぎの長いテーブルを囲んで食事する風景は今はまれなゴッドファーザーの世界だった。
子どもはまだ少なく一族の長女の息子であるわたしが最年長だった。
したがって外での遊び仲間はほぼガイジンだった。
わたしにとってそこは別世界だった。
リーダーはサンパウロ市から流れて来たネルソン兄弟と姉妹だった。
彼は都会育ちだけあって垢抜けしていて国内の情報に通じていた。
かつては通学もしていたに違いない。中学生ぐらいの年齢だった。
わたしの行動範囲がいっきょに広がり耳にする情報も多彩になった。
遊び仲間はわたしにとってブラジル文化そのものだった。
すぐさまネルソンがフットボールを始めた。
ワールドカップが始まったのが1930年、ブラジルはわたしが生まれた1938年の第3回フランス大会で3位に入賞、オーヴァーヘッドの名手レオニダスが得点王に輝いていた。
それに戦争中の中断を挟んで戦後最初の大会(第3回)がブラジル開催に決まっていたから、都会ではフットボール熱で沸騰していたことだろう。
わたしにはすべて初体験だった。ボールはわたしが買った。
チームで唯一の縫いボールだった。
靴下にボロを詰めたボールが子供の間では一般的だった時代に縫いボールは貴重だったが、盗まれることも脅されることもなかった。
ブラジルは平和で安全だった。
フィールドは牧場か空き地の草地だった。
キックはもっぱらトーキックだった。
裸足のトーで蹴るから足の骨と皮が丈夫になった。
ブラジル人は今でも日本人よりトーキックを上手に多用する。
ネルソンがインステップキックをみなに教えた。
大人が子どものフットボールに関わることはなかった。
ブラジル人はサッカーとサンバ(の真髄)は教えられない、という固い信念を今なおもっている。
大人は大人でチームをつくり休日に正式の(といっても木組みのゴールが立っていただけだったが)会場で試合をしていた。
われわれは観戦がてらにコーヒー園に入ってスイカ狩りをした。
野糞から生えたスイカだったので盗みの意識はなかった。
熟れているかを確かめるやり方が滅茶苦茶だった。
携帯している事が珍しくない折りたたみナイフでスイカに四角い穴をあけて回った。
われわれはこれをカッパ(去勢)とよんでいた。
熟れたスイカにありついた記憶はほとんどない。


子守された記憶

2010-04-26 | 環境>教育


2~3歳時 背景は植えて3年目?のコーヒーの木
年上の二人は父方の従兄弟で、その姉の従姉妹と入れ替わって子守に来てくれた。
子守された事については何の記憶もない。
遠方に住んでいたいとこ達を子供の頃訪れた記憶がある。
次々と現れる初めて会ういとこ達、ほとんどがすでに子だくさんだった。
石ころの多いやせた傾斜地、直径5cmを超える太いサトウキビ、トロピカルフルーツのコンデとジャブチカバ、この三つを憶えている。これらのフルーツは日本にはない。
戦前の家族は多産だった。
だから母方のいとこも合わせるといとこたちは数えきれないほどいる。
その多くがブラジルで生活している。
母方の叔母たちも娘時代に家事と子守に来てくれた。
ミシンを踏んでいた姿を憶えている。
その叔母が先日観光をかねて従姉妹たちに連れられてわが家に来てくれた。
86歳になるのにかくしゃくたるものがあり半月以上かけて全国ツアーを満喫して帰った。

余談だが、出生率が高い資源大国ブラジルのほうが落ち目の日本よりか勢いがある。
遠くないうちに再逆転があるだろう。
あまり知られていないが、ブラジルはすでにサトウキビを原料にしたバイオ燃料と航空機の生産で世界をリードしている。