自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

大庭柯公『露国&露人研究』(1925)/久米茂『消えた新聞記者』(1968)

2017-01-21 | 体験>知識

 大庭柯公 1872.8.30~ 1923? 1925年1月遺族・知友150余名参列追悼会開催 同年全5巻柯公全集刊行
『露国と露人研究』については元外交官佐藤優氏が「外交を読み解く10冊」に推薦している。世界のヤルタ体制秩序が危機にさらされている今日政治・外交人と経済人と一般市民が押さえておくべき世界常識が詰まっている古典である。上記の巻をわたしは《一人で編んだロシア百科》と思いながら読んだ。

明治時代は列強帝国主義の時代である。日本帝国は南下政策をとるロシア帝国を将来の「深憂大患」ととらえた。志ある若者が将来に備えてロシア語を学んだ。石光真清もそうだし、上記引用語を用いた二葉亭四迷とその後輩大庭柯公もロシア語に堪能だった。三人ともヨーロッパから極東まであちこちに足を踏み入れていて国際事情に詳しいだけでなく情報通、軍事通なかでもロシア通だった。仕事もそれと固くつながっていた。
柯公は通訳のキャリアをウラジヴォストーク(浦潮)で始めた。日露戦争に参謀本部通訳として従軍した。以後大阪毎日特派記者として巡洋戦艦「生駒」に乗船して北米を除く四大陸を視察している。ブラジルの記事もある。
第一次世界大戦では東京朝日の特派員としてペトログラードを起点にロシア軍に従って西部戦線を視察した。世界初の大戦は人類史上最大の惨禍をもたらした。柯公はドイツ軍が撤退したワルシャワ郊外の林間でドイツ兵の仮埋葬の跡を見て「正視にたえない」むごたらしい状況を見た。そして削った木片にドイツ語で記した「ロシア兵戦死者此処に眠る」の標識を頂く大きな土盛りを二か所発見してその感動を「特記」した。
かれは野蛮な戦争の最中のあわただしい瞬間にも文化の花がちらりと垣間見えるのを見逃さなかった。人類学者が洞窟でネアンデルタール人の化石と一緒に大量の矢車菊の花粉があるのを見落とさないごとくに。
 

 彼の思想はいかに? 富国強兵を目標とする教育の中で育った明治知識階級の青年と同じ思潮の流れに彼が逆らうはずもない。当然かれにも国家主義的時代思潮に浴した半生があった。時代の風に応じて自由民権、ついで民本主義、社会主義、共産主義の空気を呼吸しても不思議ではない。
人道主義だけは一貫していると思う。トルストイとレーニンを対比した政策論「杜翁と露国革命」を参考にした。
大正デモクラシー時代、長府出身の柯公は言論人として元老山県有朋率いる長州閥を弾劾した。彼が所属する朝日の大坂本社が大正デモクラシーの先頭に立って立憲主義・憲政擁護の旗を振り、藩閥政治を攻撃した。山県がごり押しして擁立した寺内内閣のシベリア出兵と米騒動の報道禁止を糾弾している中で白虹日事件(1918年8月末~12月)が起きた。
うっかり、白虹[白刃]日[
始皇帝]を貫けり、の故事を用いて、国体の虎の尾を踏み、新聞紙法による発行禁止の危機に直面した朝日新聞社は政府に屈服した。柯公は長谷川如是閑、大山郁夫と共に朝日を退社した。そして雑誌『我等へ』を1919年2月に発刊した。
1919年9月 読売入社
1919年12月 黎明会創立をリード(民本主義)
1920年8月 日本社会主義同盟創立大会発起人[弾圧厳しく21年5月末解散命令]
1921年 雑誌『改造』に維新論掲載
「攘夷派成功の維新」から断片を引用して柯公の思想の到達点を知る手がかりとしよう。明治維新では攘夷を掲げて朝廷を動かした薩長土がより開明的だった幕府を倒した。維新の精神は「単に王政復古にすぎない」 新政府は「ただ泰西文明の皮相外形のみ」をとって「実は依然たる旧式の専制政治であった」 「広く会議を興し万機公論に決す」のご誓文に違反して、出版、言論の自由を封じて、世界思想である「世界主義、科学主義、民権思想」を踏みにじり、それは大正の今日まで続いている。
国権党の腐敗堕落はひどい。東京遷都の翌月に築地に新 島原遊郭を築いたことが待合政治の濫觴となった。民権派、世界主義派、文化主義派も堕落豹変し「帝国主義の宣伝者」「軍国主義の謳歌者」となった。黒船から半世紀余の今、二大潮流が再度「その海岸を洗うとしたならばどうであろう?」

1921年5月15日 読売特派員としてソヴィエト・ロシアに向けて出国
2か月後読売紙上に第一報「見たままの極東共和国・・チタを発するに臨みて」が載った。彼の極東共和国観はモスクワ政府の「出店」でも独立共和国でもなくその合体「共産主義政治といわゆる民主政治の両頭の蛇」であった。それより前にも求めに応じて機関紙「極東共和国」に同趣旨の寄稿をしている。議会制民主政治を標榜する共和国の面目丸つぶれである。
外相ユーリンとの会談では、三井と大倉両財閥について詳細に尋ねられたことをもってチタ政府が外資導入に熱心である証左としている。柯公は極東人民の忍耐力、協同組合の実情を述べたあと極東露人が「耐久的にある新しい政治及社会組織を打ち立てること」に邁進しているから、日本も遅ればせながら外交・経済の代表団をチタに派遣すべし、と勧告し、いきなり、[消極的な日本政府を念頭に置いて] 「ウンゲル*などは問題でない」と記事を結んでいる。
*1921年2月、ウンゲル男爵率いる白系露人とモンゴル系諸族の軍がウランバートルを一時占領した。軍人含む日本人「国士」数十名が満蒙「独立」を目標に日の丸団なる隊を組織して参戦した。日本による満蒙独立工作の一環として初期に起こった闖事。
これが柯公の最後の記事となった。とってつけたようなデスクの編集がかえって柯公の悲痛な心情を際立たせていないだろうか?
柯公はアメリカ帰りのクラスノシチョコフ共和国首相[後稿に登場]に面会できなかった。首相にしてみたら自ら主導して建国した民主共和国を「モスクワ政府から派しておるが独立の共産主義を実行せんとするものと観察」する記者に用はない。真正直に述べるあたりに柯公の真骨頂と露西亜革命への真情を感じて痛ましい。

柯公の革命に対する入れ込みようは尋常でない。彼はロシア革命を世界革命史の枠組みの中で縦横に叙述している。唯一の柯公伝記を著した久米茂は、柯公のこうした叙述法を「過去を論じて、現在と未来に及ぶ筆鋒である」と書いている。
縦の軸はフランス革命の影響を受けたロシア士官達のデカブリストの乱が原点である。ツアーリに処刑された男女革命家の逸話が登場するが私の世代はすでに名前までは思い浮かばない。ゲルツェン、バブーフ、クロポトキン、トルストイと後になるほど思い当たることが多くなる。
横の軸は幕末の革命運動、明治維新である。ここではかれが吉田松陰に心酔し、萩の乱で散った前原一誠を尊敬し、乃木夫妻を親しく敬慕したこと、それに『貧乏物語』の河上肇の影響を受けたことを記すにとどめておく。
柯公はロシア革命と明治維新をともに革命と規定して、わかりやすい対比でしかも肯定的に叙述している。たとえば、プレハーノフ=佐久間象山、吉田松陰=ケレンスキー、レーニン=高杉晋作、トロツキー=前原一誠、という風に。名が挙がっているのは世界主義者ばかりである。
柯公の松蔭論から類推すると、彼が長生きしていたら、彼の両革命論はより現代的な様相を呈しただろうと私は想像している。
内戦終結=新政府勝利、レーニンの死→「世界革命」路線の挫折・党内闘争でトロツキー失脚→スターリンの独裁→ソ連の工業化→独ソでポーランド分割→独ソ戦・世界大戦Ⅱ
松蔭の死、戊辰戦争終結=新政府勝利→征韓論敗れて西郷の下野・伊藤初代総理
→藩閥専制→富国強兵→日中戦争→太平洋戦争・世界大戦Ⅱ
安保闘争の前後日本ではレーニンの革命はスターリンにより裏切られたとする裏切り史観が一部で有力だった。柯公は松蔭を敬愛し、その門下生が創った長州閥が軍閥、財閥としてシベリアに出兵し腐敗堕落したことに我慢ならなかった。とくに立憲政治の陰で国政を牛耳った元老山県を松蔭魂を裏切った大悪人として弾劾した。十月革命裏切り史観に通じる維新裏切り史観として面白くはないだろうか。
 

  久米茂  1923.7.11~
忘れられた新聞記者のままで終わらしてはいけない、戦前戦後の優れたジャーナリスト 『深夜通信』主宰者
  

今回久米茂『消えた新聞記者』(1968)を読み返して自分の有効視野の狭さを痛感している。著者とは『深夜通信』をとっていたつながりで交信があったが、当時私の関心が大庭柯公の消息に絞られていたため、大庭柯公の業績と消息を伝えようとする中で著者がみずからの元新聞記者としての体験に基づいて論じた明治大正期の言論人の心意気と奮闘をまったく読みとれなかった。
この本は大庭柯公の唯一の伝記であるばかりでなく日本言論通史としても秀逸である。憲政擁護運動、米騒動、白虹事件の章からは著者の高ぶる興奮を感じ取った。
さて柯公の消息を調べた人は多いが『消えた新聞記者』に付け加えるべき足跡を遺した人はゼロである。この本に収められている以上の証言、資料はまだ出ていない。終焉の地も没年も死因も不明のままだ。百千の知友をもつと云われた柯公が経験した救いのない孤独死を想うとやりきれない。

柯公の長所が暗転した環境、タイミングに一言しておく。
1)柯公が入露した1921年夏は中平亮が予言した農民反乱の鎮火に赤軍とチェー・カーが最後の攻勢をかけていた時期と重なる。大飢饉で数知れない餓死者が出ていた。レーニンは反乱側に団結した政治指導部がなかったことがボルシェヴィキ権力の維持に幸いしたことを誰よりも本能と予見力によって理解していた。
世界に飢餓救援を訴える一方で同夏知識人大追放を号令した。帝政時代の将校、官吏、僧侶、学者、立憲民主党=カデット、メンシェヴィキ、社会革命党=エスエル、アナキスト
・・・つまり将来反革命の頭脳、中核になりうる階層の予防粛清である。西側と中国、日本への大亡命がこのころ起きた。想像の域を出ないが柯公の不運をレーニンの脳卒中(21年5月)がダメ押ししたかもしれない。
2)そこへ信任状を持たない、日露戦争、世界大戦の戦場を経験した軍事記者が疑わしい日本人二人とやってきて、知己の帝政時代の軍人やスイス時代のレーニンの同志であったメンシェヴィキ=チュジャーク、エスエル系外務要員ポポーフと会っている。物怖じしない、無邪気に誰とでも友好を結ぶ彼の記者としてのコスモポリタン的長所が禍に転じた。
3)チタに居た日本人8人の内3人は柯公達で、他の5人は特務機関員だった。柯公は足止めされている1か月の間に暇つぶしにたびたび彼らと懇談した。悪いことに、同姓の大庭二郎中将*が2年前第3師団長としてチタの在るザバイカル前線で革命軍と交戦していた。
*後述するチェキスト・トリリッセルがシベリア軍事委員、ザバイカル前線参謀長として大庭師団と一時戦った可能性がある。トリリッセルは大戦中露軍観戦団に大庭武官と大庭記者がいたことも当然承知していたと思う。

やがて柯公はチタでの疑いが薄れて21年夏モスクワに移った。途中イルクーツクでも取り調べを受けた。ほぼ同じころシベリアから特務通のトリリッセルがコミンテルン極東課とチェー・カーの主任に抜擢されモスクワに赴任した。モスクワでは柯公は共産主義インターナショナル(コミンテルン)指定のホテル・ルックスに宿泊した。「プラウダ」紙に原敬暗殺と日本政界に関する記事を寄せた。それがコミンテルンの機関誌等に転載された。「コミュニストでないのに何で厚遇・・・」と周りから見られた。
そして1922年1月の極東諸民族大会に通訳なら、と出席を認められた。このころ日本共産党はあってなきが如し、日本からアナキスト、サンディカリストが優勢で6人、コミュニストが2人、アメリカから社会主義者4人が日本代表として大会に参加したが、だれも柯公を信
認できない。在米コミュニストでコミンテルン役員の片山潜、田口運蔵とて同様だったので柯公サポートに積極的でなかった。
22年3月外国人によるヴォルガ飢餓視察団に加わりカザンで「生き地獄」を観ている。その帰途、駅員に一人だけ切符の件で無視されて視察団から取り残されそうになった。柯公にとって不都合な何か決定的なことが起こったのだろうか? シベリア出兵の前兆期(1918年前半)に出兵を推す論文を発表していることが響いたのか?
柯公と最後に別れた同宿者アナキスト和田軌一郎『ロシア放浪記』に拠ると柯公はただならぬ気配を察知して帰国をあせった。外務省からもコミンテルンからも厄介者扱いされた。4月末ようやく旅券が下りたが出発間際に駅で逮捕された。てっきり出国したと思っていた和田の元に、5月中頃、ブティルカ監獄に居る、パンの差し入れなりとも頼む、という走り書きの手紙が届いた。
和田は後から入露したアナキストの高尾平兵衛と共に田口と片山に働きかけた。ゲー・ペー・ウー[チェー・カーの後身]外国課長トリリッセルに掛け合った。高尾の抗議書と片山、田口の請願書を提出して、すぐ釈放する、出獄後の責任は日本の同志が負え、という言質を得た。だが柯公は還って来なかった。22年7月末のモスクワを最後に柯公の消息は途切れてしまった。11月15日出獄、移送の証言もあるが真偽不明である。

田口運蔵の著作『赤い広場を横切る』(1930)に前稿でふれた元仏空軍パイロット新保清
との出逢いの記事がある。

  出典 土井全次郎『西伯利亜出兵物語』(2014)
21年の夏、ブティルカ監獄から釈放されたばかりの新保清がボロボロのルバシカをまとった恰好で、ルクス・ホテルに田口を訪ねて来た。
「・・ね、旦那いや同志、私を日本へ帰してくれませんか?」と哀願した。田口は「私はロシアの役人ではない」「コミンテルンに責任がある身体だからめったなことはできない」とすげなく断った。田口が記した、猿、ネズミ、浮浪者、日本人の恥さらし、とかのひどい形容表現の奥に権力者対困民の構図が見える気がする。
柯公も新保も、帰る旅費はおろか食費に事欠き、孤独のうちに衰弱死したと考えられる。
モスクワの文書保管局には両名のファイルがあるはずだ。究明が俟たれる。


 

 

 

 


中平亮『 赤色露国の一年』(1920)/百年検証に耐えるルポルタージュ

2017-01-01 | 体験>知識

2017年 めでたくもありめでたくもなし
昨年4月少年サッカーの指導から引退した。時間の余裕ができたかと云えばさにあらず、103歳近い母親の介護を妻と分担しなければならなくなった。私は丸一日は外出できない。身長148足らず、体重40未満の寝たきりの母を座らせたり寝かせたりする困難を毎回実感している。誰もが通る道、老々介護は厳しい。介護士の苦労が思いやられる。
2017年はロシア革命100周年である。世紀の歴史的事件だから各方面で大所高所からの論評があってしかるべきだ。
わたしはブログで1964~68年頃の自分の研究を主幹にすえて体験的枝葉を綴るつもりだ。
ロシア研究会で菊地先生が推薦した大阪朝日中平亮記者の十月革命実記をその後読んだ。実記といえば学生時代に読んで青年のロマンティシズムをかきたてられたジョン・リード『世界を揺るがした10日間』 トロツキー『ロシア革命史』 ショーロホフ『静かなるドン』*だが、いずれも革命の悲惨と艱難を乗り越えていく指導者と民衆群像をリアルかつ肯定的に描いている革命賛歌である。

おっと、これはノンフィクション風大河小説だった。
賛歌だからといって食わず嫌いはいただけない。勝者が編纂した歴史例えば維新史をわれわれは飽きもせず常食しているのだから。
児童文学『ツバメ号とアマゾン号』シリーズの作者アーサー・ランサムのルポルタージュ3部作は一冊に収めた単行本で読んだ記憶があるが優れた記録文学である。
ロシアの真相(1918年4月末執筆)は文学の香りがして一味違う。
一九一九年のロシア、六週間 (1919年6月) 旅行日誌風政治的論文ロシアの危機』(1920年初夏~執筆) 経済危機を扱った論文

 中平亮  1894.1.1~1981.3.8  土佐のイゴッソ  忘れられた新聞記者  ニコヨン生活  新聞訃報無
中平亮『赤色露国の一年』もまた優れたルポルタージュである。復刻が望まれる。
若手記者として1919年5月末にウラジヴォストークから入露した。白軍と赤軍が戦うシベリア戦線を突き抜けて、銃殺寸前の死線を越えた末、モスクワに入ったがすぐ非常委員会チェー・カーの尋問、尾行を受けた。
スパイ嫌疑から逃れるために西のポーランド軍と赤軍が戦っている前線=「国境」に向かって徒歩脱出した。鉄道と鉄橋は検問に引っ掛かるから徒歩、渡渉による逃避行だった。逃避行ゆえに彼の体験記は取材制限を受けてない稀有の記録となった。
ロシア農民の親切に救われたり狡猾に金をかすめ取られたりしながら前線近くでついに拘束を受けた。連行する民兵から銃を奪って一度は逃れたが結局当地方ソヴィエトに逮捕された。そこはボルシェヴィキ支配下のリトアニア[現バルト3国の一つ]だった。
その間1か月半1000キロを歩き、着の身着のままで垢と南京虫にまみれた幽鬼のような恰好だった。
結局モスクワに護送されブティルカ監獄に拘禁された。そこでチフスにかかり死線をさ迷った。
レーニンとトロツキー政府の対外政策が変わりつつあった。日本人としての利用価値が出て来たのだろう。地方のサナトリウムに送られた。そこで、5か月ぶりに、風呂に入り着替えて散髪した。
3か月間療養の後3月1日モスクワに戻った。陸軍大学で日本語を教える「お役人」としてささやかな衣食住を与えられた。そこでかれは東大卒の日本研究家エリセーエフと懇意になった。彼は流暢な日本語でボルシェヴィキは「(赤いから)金魚のようなものです。煮ても焼いても喰えません」と批判した。
白軍の脅威が遠のくと政府の方針が変わり、中平はスパイ容疑者から外国通信員、時には「日本革命家グループ代表」として、遇されることになった。
1920年6月3日、日本の新聞記者として初めてレーニンに面会した。レーニンの主たる意図は、シベリアを念頭に置いて、戦争を望まない政府の姿勢を日本にアピールすることだった。レーニンとトロツキーの承認のもと、シベリアに共和制の緩衝国家「極東共和国」が建国されたばかりだった。
クレムリン内のレーニン執務室の隣室では女性ばかり20人ほどが執務していた。それと、執務室の入退案内係が背骨が湾曲した婦人*であることに中平は強い印象を受けた。
上掲赤露記では「せむしの女」となっている。 インタヴィユーの原稿見本では「せむしの老婦人」だったのを目を通したレーニンが削ったが中平が復元させて出版したことを『レーニンと会った日本人』の著者、ソ連記者アルハンゲリスキーが確認している。記者によると老婦人ではなく愛くるしい気立てのよい30歳に満たない女性で名前はグリャッセルである。
案内係ではなくすべてを手配する秘書である。レーニンに指示されて人民委員会と党の公文書に付けるプロファイルの様式を作成したのは彼女である。何時、誰が、どう遂行したか、後日検証し責任を明確化できるようになった。歴史を探求するわれわれも恩恵を受けている。
中平記者は「兵卒上がりの低級な人々」「低級な民衆」とかいう言葉*を使うこともあるが赤露記に関するかぎり人種、国籍、貧乏に対する偏見がほとんどない。
*差別語「露助」「土人」も注意して読み返したら一つ二つあった。
私がこのたび中平亮を記事にする理由もそこにあるが、ほかに彼の特異さもある。表現が誠実で冷笑的でない。自分のイデオロギーで対象をみるのではなく事象をありのまま描こうとしていることに好感がもてる。
かれはロシアで主として辺境と末端を見聞していたためボルシェヴィキのコアな支持者にほとんど出逢っていない。だから食料徴発と飢餓、配給制度と行列、物資の横領、担ぎ屋と闇商売、それに労働意欲の低さと規律の紊乱、反ボル感情の蔓延をおもに記事にしている。
一例をあげる。彼はたまたま元地主の息子が指導者である共産農場コミューンに行き遭っている。政府の援助で物質的に別世界であるが恩恵を受けている当の百姓たちは収穫を向上させても私有、商売ができないことと自発的でない義務労働に不満を抱いていて自立、個人農の制度を夢見ている。

 彼はまた政権の看板「労農同盟」にはほとんど触れていない。工場労働の現場を見聞、体験していないからかもしれない。かれは労働者に労働意欲がなく規律がないから工業もかならず衰退するだろうと想像し、その根拠を、モスクワで当時出逢った飛行士新保清の模範工場体験談をもってしている。
ちなみに新保清はフランス軍パイロットとして大戦に従軍してドイツ軍の捕虜生活を経て帰路ソヴィエットに入ったらしい。2年後(1922年) スパイ容疑で逮捕され消息不明第一号となった。第二号は逮捕されたあと(1922年)行方不明になった読売記者大庭柯公である。真相追及が待たれる。文書保管局に中平ファイルがあるのだから両名のファイルもあるはずだ。 
第十八章「過激派とは」は冒頭2ページ弱を残すのみで6頁近くが内務省検閲の結果白紙になっている。全章にわたって掲載された事実項目(ほとんどが失敗に終わりそうな制度、政策)だけでも大正デモクラシー下の社会運動を刺激する*に足りると思うが、それ以上に見過ごすことのできない、削除しなければならない危険な主義主張、論評、事実が原稿にあったのだろうか? 
8時間労働制、男女平等、無料の普通教育等は十分に刺激的だった。
中平はボルシェヴィズムは「日本の国体と国民性」に合わないと断言している。天皇制には直接は言及していない。だがレーニンが会見で質問書に答えるより先に開口一番「日本には地主的権力階級があるかと問うた、それから日本の百姓は土地を自由に持っているか・・・」と問うたことに中平は強く反応している。地主-小作制が天皇制の揺るがぬ基盤だったことを考えると、このテーマを赤露記原稿で掘り下げたために国体に抵触したかもしれない。
中平は1918年1月にウラジヴォストークに記者として赴任しているから日本軍のシベリア出兵を最初から取材していると考えられる。また白軍が民衆の支持を失って敗退していく過程を目の当たりにしてその敗因を記事にしている。だが日本のシベリア出兵には触れていない。レーニンが会見で口にした緩衝国家についてもやはり一言提言して国策に触れたかもしれない。実際官憲が目を剝くような中平の署名入り反戦ビラの長文原稿がロシア文書保管局にあることを記者が発見した。
「同志日本の兵士諸君! 1918年の秋、諸君らはチェコスロヴァキア軍団救援という口実のもとにシベリアへ派遣された。だが実際には専制政府とロシア人、外国資本家による搾取から自国を解放するために闘うロシアの革命家を弾圧するために派遣されたのである。・・・」(1920.3.23)
ルシェヴィキ政府は、内戦勝利の見通しがついても、極東の日本軍を武力で追い出す余力がなく、平和的撤退を求めていた。中平はシベリア出兵には大義がないと確信していた。両者の思惑が接近して上記の反戦ビラ原稿となったと思われる。もちろん外国通信員は政府の管理下にあったから原稿の内容は中平の本心ではないということもできる。
そして6月3日にレーニンとの会見が実現した直後に帰国の途についた。

 1920.8.10 ハルピン帰着

中平亮は何者か?菊地先生は、戦後の中平を指して侘び住まいのナショナリスト[国家主義者]と言った。かれの思想は共産主義ではない。理想はよいが民度が低いロシアでは実現できない、「労農政府」は外圧がなくなると民衆暴動により内部から崩壊するだろう、と結論している。運輸(鉄道、荷馬車)の障害もあって食料と燃料の不足が極限に達し、ロシアは来るべき冬を無事越せない、と正しい状況判断をしている。
敗戦日本では物資はあるところにはあったが、勝戦ロシアにはどこにも何もなかった。象徴的な表現だが、種子も釘もなかった。内戦続きと徴発と徴兵で農村は荒廃の極に達していた。工場も操業停止状態で、農村からの食糧の対価となるべき工業製品も払底していた。労働者も飢えていた。
中平はまた赤軍がポーランド軍に大敗したことが長期の従軍で疲弊した兵士の不平を充満させ暴動の契機になると分析している。「暴動が勃発し得るのは此の時である」
中平の観測通り、1920年から21年にかけて、ペトログラード労働者のヤマネコ・スト、「十月革命の栄光」クロンシュタット水兵の反乱、タンボフの農民反乱、黒軍マフノの反乱が起きた。レーニンはそれらを反革命と断罪し赤軍を動員して厳しく鎮圧した。
ボルシェヴィキ政府は穀物等の割当徴発制より現物税制への移行、小規模経営の復活、いわゆる戦時共産主義から新経済政策NEPに方向転換した。

 中平亮は1931年、満州事変の後、朝日「局内の右翼と衝突して」(記者前掲書)朝日新聞社を去った。事件との関連は不明である。事変が軍部の陰謀だったことは今では常識だが、たちまち世論が沸騰した。一夜にして「朝日」が戦争扇動に変身した。知識階級は沈黙させられた。中平はそれらを正常化したと歓迎した。出典 中平亮『大亜細亜主義』(1933)
わたしは大アジア主義を研究したことがない。中平によれば「まとまった理論として発表されたもの皆無である」 日本が先導して西欧帝国主義のくびきからアジア人民を解放する、という中平の大アジア主義の大義名分は、右翼から軍部、政府、新聞・ラジオ、民意まで共通である。それは西欧帝国主義の言い分と大同小異である。文明人が東洋の野蛮人を教化する、武力に訴えても、という点で。

同著書によれば、中平は大アジア主義のひらめきを決死の逃避行の最中で得た。わたしはその体臭を彼の帰路の記事ではじめて嗅いだ。帰りはオフィシアル・コースだ。日本外務省の用命した馬車で蒙古平原を突っ走った。使命を果たした満足感からか、歴史の検証に耐えうる記事を書こうとする緊張感から解放されて、遊牧民について垂れ流しの与太記事を書いた。
モンゴル遊牧民は旅人をパオに泊めて歓待する。妻や娘を提供する。都会でも淫売は細君連の内職仕事だ。性風俗が乱れて99%が梅毒に罹っている。
文明のない辺境は中平には文化がないと映るようだ。当時の知識人はみなそうだった。西欧のキリスト教徒が幕末の江戸の銭湯(階下で混浴、階上で湯女のサーヴィス)を観察して抱いたのと同類の感想だ。

記者がじかに聞いたところによると、中平は満鉄調査部でロシア担当として働いた。戦後妻の里和歌山で農夫になった。1977年現在83歳、失業対策事業労働者・通称ニコヨン、収入月6万円、中野区の文化アパート2階の小さな部屋に老妻と二人でつつましく住んでいる。
中平亮はイデオロギーにとらわれず終生レーニンを尊敬していた。私心のない点でふたりは共通している。
二人の国際主義にも共通点がある。大亜細亜主義も共産主義インターナショナルも世界を文明化すれば人類の幸福を実現できると信じていた。