自分史 物怖じしない国際人を育てるヒント集

近現代史に触れつつ自分の生涯を追体験的に語ることによって環境、体験、教育がいかに一個人の自己形成に影響したか跡付ける。

殺生/豚と庭鶏

2010-06-26 | 体験>知識

殺生は嫌だったが顔をそむけることはなかった。
食肉にするために大人たちは悲鳴をあげながら暴れる豚を押さえつけて脇の下に短剣を突き刺して殺した。
血がドクドクと流れ出てやがて失血死する。よろよろと歩き出す豚もいた。
血を固めて作ったソーセージは美味であるだけでなく栄養的に完全食品だ。
ブタは大釜の熱湯で毛と表皮をむかれ、それから解体され、骨と糞尿以外は食料になる。骨付き肉を塩だけ振った唐揚げにしてそのままラードに浸けて保存する。様々の料理にダシ油として使うが肉も最高に美味しい。

庭鶏は太い木の株の上に押さえつけてマサカリで首をはねた。
手をはなすと胴体だけが地面をぴょんぴょん跳ねまわる。
やはり熱湯で羽毛を抜き解体する。まれに臼で粉砕して骨まで食べることがあった。
8,9歳のわたしも殺しから解体までその役目を果たした。


豚、その生と死/黒コンドル

2010-06-20 | 体験>知識

開拓民にとってブタは必須の食料である。
牧場地の一角を囲って何頭も豚を飼っていた。
色情期の雄豚の性欲は凄まじい。雌を求めて高い囲いを飛び越えることすらある。
ねじれたドリルのような細長いペニスが的を外れて雌の背中を精液を垂らしながら這う光景は壮観だ。
雄の去勢にも立ち会った。押さえつけて睾丸を切り取った後消毒薬を塗って傷口を縫いつける。睾丸は待ち構えている犬に与えられる。
去勢してない雄の肉は臭くて食べられない。
母豚の難産にも立ち会った。父が産道に手を突っ込んで仔を引き出そうとするが手が大きくてできない。
そこでわたしが同じことを試みるが指が仔の顎に引っかからなくて失敗した。諦めたことを今なお後悔している。
その間母豚は仔をあやすようにグー・・グー・・グ・・とやさしい声を出し続ける。
いつしかその声も絶え勝ちになり結局母豚は二度と立ち上がらなかった。
病死した豚は通常埋められるか放置されて黒コンドルの群れに食い尽くされる。
ある時たまたま牧草地に放置されていた大きな豚の死骸が動いたのには魂げた。
最近老母に聞いたらはぐれ牛だったとのことだった。
牛か馬のほうが図体が大きいだけ記憶のつじつまが合う。
ガスが溜まってパンパンに膨れ上がった死体にウルブ(黒コンドル)の群れが肛門から腐肉を食いながら入り込み、わたしが見た時にはほぼ食いつくしていて死体は皮だけに、しかも乾燥して固くなり太鼓のように空っぽに、なっていたのだった。


ある乳幼児死亡統計/わが体験記の厳しい背景

2010-06-14 | 子育て

9歳ぐらいまでの体験を思い出すままに綴ってきた。
環境が一変した今の 子供たちが体験したくても体験できないことばかりだと思う。
生と死にかかわる体験が多い。
今回はわたしが育った北パラナ国際植民地における終戦の頃までの統計をもって体験記の中間報告としよう。
国際植民地開拓15周年記念誌にあった死亡者名簿に基づいてこの統計を編まれた方は、わが父母より2年ぐらい後に同所に入植された沼田信一さんである。
わたしが生まれた開拓地で、同時代に、これだけのこどもが亡くなっていたことに驚いている。
死亡者総数198名を100%とすると、10歳までの死亡者数82名は41.4%にあたる。
その内47名は0歳と1歳である。お葬式の23.7%が赤ちゃんであったというこの数字は世の母親たちの同情と想像力を大いにかきたてるに違い ない。

乳幼児の死亡率が高い原因はゼロから始まる開拓生活の厳しさにあるだろう。
何から何まで自分たちで協力し合ってやるほかない。
産婆も医者もいない。こどもが出産を手伝うこともある。わたしが笹の切株で脛をえぐられたとき父親が常備の破傷風の注射で予防してくれた。傷の縫い合わせができないから大きな傷跡が残った。
母親は家事のほかに畑仕事の重労働を手伝わねばならない。
子守りがおればよいがいなければ放置して時々授乳したり様子を見て対応するほかない。病気になったら常備薬と運に委ねるしかない。
付け加えておくが、同植民地は気候に恵まれた肥沃な土地で、サンパウロ州で苦労した移民には「希望に満ちた楽園」に見えた。

出典 沼田信一著『信ちゃんの昔話』
(丸山康則著『ブラジル百年にみる日本人の力』から孫引き)


W杯と糞ころがし/バッタ

2010-06-12 | 自然環境

  出典  ASAHI.COM  越田省吾撮影
サッカー南アフリカW杯が始まった。
W杯開会式で目を引いた糞ころがしは、愛嬌のある昆虫で観ていて飽きない。
小さな黒いコガネムシを想像していただきたい。
前足で立って後ろ足で後ろ向きにボールを転がす。
貯蔵して餌にするために丸めて巣穴まで器用に運ぶ。
ブラジルでふつうに見かける昆虫である。
アフリカと南米はもともと一つの大陸(ゴンドワナ大陸)であったため自然環境に共通点が多い。
大地は鉄分の多い赤土で、地上に分布する動植物も類似する。

バッタも普通に見られる昆虫である。一度それが大発生した。
バリバリ音を立てて作物を食い荒らしながら大群が移動する。
バッタが嵐のように舞う中でバッタとぶつかり合いながら総出で駆除に当たる。
缶缶を叩き音響で追い払う。
長い溝を掘って石油を撒き箒で掃きこんで焼き払う。
あまり効果はなく台風一過のごとく後に残るのは無残に丸坊主にされた作物である。
ただコーヒーの樹がヤラレた記憶はないので、パールバックが小説『大地』で描いた中国農村の光景とは比べものにならない。
そこでは蝗群が黒雲のように空を覆い皇軍のように恐れられたと表現されている。
パールバックは1938年、わたしが生まれた年に、この作品でノーベル文学賞を受賞した。


馬車暴走/はぐれ牛

2010-06-10 | 体験>知識

車はまだ一般的でなく馬を一頭飼っていた。
ある日母と馬車で外出したときどうしてか不明だが馬が暴走した。
懸命にブレーキを引く母の必死の姿ばかり憶えていて自分の恐怖の記憶は消えてしまって表現できない。
馬車は二輪でタイヤではなく鉄輪で走るから音と揺れが尋常ではなかった。
横転すれば命にかかわる。
幸い知人の男性が行く手の道路で両手を広げて止めてくれたから助かった。
命がけの救援だったと思う。

なぜか乳牛は飼っていなかった。牛乳は隣から買って飲んでいた。
牛の大移動に遭遇すると行き場を失う。
犇めき合う数百頭の牛が道いっぱいに広がって畑を踏み荒らしながら追い立てられてゆく。この件では無法状態である。
数名のボヤデーロ(カウボーイ)が群れを統率しているがどうしてもはぐれ牛がでる。
ある日はぐれた牡牛がうちの沼沢のくぼんだ水源穴に頭から嵌って身動きできなくなった。
探しに来た牛追いが角にロープを掛けて半死半生の牛を馬で引きずって行った。
一言の挨拶もなかったと思う。